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民族の背骨抜く英語漬け教育
日本人民の歴史継承する時
             母国語使わせぬ授業拡大    2013年5月3日付

 小学校で5、6年の英語が必修となり、中学校では3年間の英語の授業時間が国語を上回るようになったのに続いて、今年4月からは高校で「英語の授業はすべて英語でおこなう」という方針が実行され始めた。大学でも同様に授業を英語でおこなう方向がうち出され、安倍自民党の教育再生実行本部は、米国の英語力試験TOEFLを大学入試の受験資格にすることを提言した。安倍政府のもとで、日本の国でありながら英語の時間に日本語を話すことができず、それによって大幅な学力低下すら心配しなければならないという、バカげたことが起こっている。これに対して、学校現場からも親や戦争体験世代からも、もっとまともな教育をせよとの声が噴出している。
 英語教育については、とくに戦争体験世代から「日本語もまともに話せないのに、なぜ英語教育か」という強い批判がある。それは、日本の将来の担い手たちが立派に成長することへの期待からであり、また、アメリカは優れており日本は劣っているという民族的劣等意識がつぎこまれることへの危惧(ぐ)からである。かわいい孫たちが、言葉も気持ちも通じないアメリカナイズした大人になることなど、想像するだけでも我慢できないことである。ところが今の学校はどうなっているか。

 5、6年は必修科目に 小 学 校

 小学校では2009年度から、5・6年生の外国語活動(英語)が週1時間・年間35時間の必修科目となった。
 授業の様子を聞くと、まず「ハーイ!」の挨拶から始まり、「How are you?(ご機嫌いかがですか)」「I am fine(元気です)」「Nice to meet you(よろしく)」というのがパターン化している。
 その後、英語でビンゴゲームやチャンツ(英語の音楽に合わせたダンス)をしたり、色や時間、数字や果物のいい方をいいあったり、友だちに「誕生日はいつですか?」と英語で質問したりと、「スピーキング重視」「考えさせるのではなく慣れさせる」とされている。スペルを覚えたり、文法を学習することはなく、日常会話をゲーム感覚で身につけるとされている。「桃太郎」や「花さかじいさん」などの日本むかし話の英語版を聞くところもある。
 英語のテストもなく、点数も評価もない。「子どもたちにとってはある意味、週に一度、頭を使わなくてもいい息抜きの時間のようになっている。ゲームが中心で乗ってくる子はいいが、そうでない子もいる。英語的感覚を身体に染み込ませている感じだ」という。
 教師にとっては、高学年になっても九九や漢字のわからない子どもが多く、学力面でも生活面でも真剣な指導にあたっている最中に、その時間だけ「ハーイ!」とテンションを高めて臨むことは難しい。英語は週一時間とされているが、まるで子どもの実際にあわないので、他の授業にあてたり、運動会の練習時間などにしている。「子どもにとってやるべきことはまだ他にある」と教師間で話しあいながら進めている。

 国語の授業数を上回る 中 学 校

 そして小学校時代にゲーム感覚で英語にふれてきた子どもたちは、中学校で正式にアルファベットを習い、文法を習う。中学校の教師は、「小学校では遊び感覚で英語に触れてきた子どもたちに、中学校に入ってからアルファベットをひたすら書かせているが、子どもたちは違和感を感じているようだ」「中学校になって突然文法が出てきて、英語嫌いが増えるのではないか」「好きな子と嫌いな子の格差が広がる」といっている。
 中学校では、昨年から3年間の英語の授業時間数が国語の授業時間数を上回った。これまで週3時間だった英語の授業が、週4時間となった。重視されているのが「コミュニケーション能力の基礎を育成する」ことで、増えた時間数は「話す、聞く」活動に使われている。
 ある高校教師は、「中学校で“話す英語”が重視されているが、生活と関係なくやっているので身についていない。高校に入ってくる生徒をみると、英語が読めない子が多いのに驚く。英和辞典をひけないし、英語の成り立ちやスペルが覚えられない。会話重視といっても、伝えたいことを日本語で思考する力がなければ、英語が話せても中身がない。問題は、日本人として話す中身を持てるようにどう育てるかだ。なにか転倒している」と話している。

 英語での英語授業開始 高校は4月から

 高校では今年4月から、進学校や実業高校に関係なくすべての高校で「英語の授業は英語でおこなうのを基本とする」とされた。それを1年生から始めている。
 しかし下関の高校で実情を聞くと、日本語を使わずに授業を進めることは無理であり、これまで通りの英語の授業をおこなっているところが多い。それは生徒が理解できないからである。英文法を英語で教えるとなると、「主語」「述語」「代名詞」などの新しい英単語を教えることから始めなければならないし、英文の読解というのは日本語に訳して理解することだが、それを英語で理解するということになると、何が何だかわからなくなるからである。
 高校の教師のなかでは「英語の授業を英語で教えれば英語力がつくとは思わない。逆に理論的思考は低下するだろう」と話されている。
 ある英語教師は「数学の先生が、“数学の問題を解くのも必要なのはまず国語力だ”といっていた。英文を理解するにも、日本語を知らなければそれは理解できない。どれだけの母国語を知っているかで英語の理解力も変わる。“話せる英語”“英語で授業”といっているが、英語の知識は深まらないし、国語の軽視が英語の力も潰すことにつながっている」と語っている。

 英語での講義増を計画 大 学 で も

 大学にも、英語で授業をおこなう方向が持ち込まれている。京都大学では、文科省の補助金を受けた「国際高等教育院」構想のなかで、「教養科目の半数以上を英語で講義する」「5年間で外国人教員100人を雇用する」ということが、『朝日』『日経』紙上で突如として発表された。
 これに対して京大の人間・環境学研究科教員有志の会は3月14日、「この計画は、大部分の学生の学力低下を招き、今後、京大のレベルは著しく落ちることになる」「あたかも植民地政策を思わせるような状況を強制することに反対する」として声明を出した。
 声明は、「学問の基礎となるのは論理的で強靭な思考力であり、そのような基礎力は教養教育においてこそ培われるものであって……こうした思考力を育むうえで、母語は最も貴重な言語である。教養科目の半分以上を英語でおこなうことは、母国語の使用を規制することを意味し、英語の学力向上に役立つというよりも、学生の知性・精神面を劣化させる害の方が大きい。母語を軽視することは、やがては日本文化の衰退につながり、社会に対する大学としての責務を果たせなくなるであろう」とのべている。
 また「英語力さえあれば、即グローバルであるという考えは、あまりにも浅薄である。教養として英語力を持つのみでは、中身がなければ、グローバルな世界では通用しない。次世代を担う若者たちに、“英語支配”のイデオロギーを一方的に押しつけるようなことをすれば、母語よりも英語の方が高級な言語であるかのごとくコンプレックスを抱いたりする危険があり、真の国際人としての自信を育むうえでかえって妨げとなる」とのべている。

 民族の子として教育を 植民地化打開へ

 しかし、そもそも日本の子ども全員がなぜ英語がしゃべれなければならないのか。中学校では英語の基礎を学ぶことが重要であり、それ以上に必要な者はそれなりの教育を受ければよいと専門家もいっている。それなのになぜわざわざ基礎を崩して、遊びのような授業によって愚民化を進めるのか。
 それはフィリピンやインド、ケニアなど、かつて米英の植民地であった国の悲惨な状態を想起させる。それらの国では、母語の発達も日常会話レベルで止まり、英語も中途半端にしか理解できず、それが貧困による格差とからんで、国として悲劇的な状態が生まれている。独立した国としての誇りが失われ、他国との対等な関係を結ぶことができなくなっている。
 安倍内閣の産業競争力会議のメンバーである竹中平蔵や三木谷浩史らは、労働分野において解雇規制を緩和し、労働力を流動化して日本は外国人労働者を受け入れる移民国家になる必要があること、それとセットで重要なのが教育改革で、小・中・高の英語教育を翻訳英語から実用英語に変え、大学入試をTOEFLをベースにしたものに変えることを「成長戦略」だと主張している。もうけ第一で国を捨てるグローバル企業のためにごく一握りのエリートをつくるとともに、大多数の子どもはますます切り捨て、使い捨ての非正規雇用か、米軍の下請戦争の肉弾にしていくものである。それを企む者は、子どもたちから日本人としての民族的な背骨を抜いた方が都合がよいと考えている。
 これに対して言語学者は、母国語の重要性を強調している。人間は母語でものを考える。そして言語というのはたんなる道具ではなく、思想・文化そのものであり、その国が置かれた自然条件や歴史のなかで培われてきた生活様式、ものの感じ方、その喜びや悲しみの有り様を表現するよりどころである。子どもたちにはまず、母語の読み書きの力をつけることであり、母語でしっかりした自分の考えや主張を持つことであり、それが英語で話せるようになることの大前提である。
 また、白人のネイティブ・スピーカーとの「会話重視」によって、考え方、行動様式、価値観から風俗習慣に至るまで、日本人よりもアメリカ人が優れているという「白人崇拝」「アジア人蔑視」の考え方が子どもたちにつぎ込まれることを批判している。
 日本の青少年を民族の子どもとして育てる教育運動を、力強く発展させなければならない。父祖たちの歴史的経験、とりわけ被爆体験や戦争体験に学ばせ、原爆投下者を憎み、独立した平和な日本をめざして発言し行動できる人間に育てなければならない。そのことが、母語が異なる民族とも理解しあい協力しあって、平和な世界を築く基礎になるにちがいない。

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