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盛り上がる広島「原爆と戦争展」
             若い世代・行動求め鋭い問題意識    2008年8月4日付

 広島市中区袋町の市民交流プラザでおこなわれている第7回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)は4日目となり、市内をはじめ全国、海外からも参観者が増えている。第2次大戦の真実や被爆体験が交流され、原爆投下をはじめ320万もの死者を出した第2次大戦からつづく今日の戦争政治への鋭い問題意識とともに、平和と独立のために行動を求める世論が世代を超えて表面化している。

 声を大にして伝えたい 戦争体験世代
 体験世代は鮮明に刻まれた原爆の記憶を蘇らせ、原爆を投下し数10万の市民の命を奪ったアメリカが今日さらに凶暴化していることや、被爆国である日本政府の植民地的な腐敗が度を超していることへの激しい怒りを語り、「2度と原水爆戦争を許さぬ」という頑強な決意とともに行動を申し出ている。
 原爆展ポスターを町内の掲示板に貼り出しているという市内町内会役員の男性は、従兄弟5人、叔父一家が左官町で全滅していることを告げ、「倉橋島にいた私も米軍の機銃掃射で狙われ、山で作業をしていた親戚のおじさんは撃ち殺された。最近は、この戦争の実態に見向きもしない傾向にはらわたが煮えくりかえる思いがする。この広島で、何10万もの市民が一瞬にして焼き殺されたことを今こそ声を大にして伝えなければいけない。今のままの政治をつづければ、日本は大変なことになる。戦争をやったらどうなるのか真剣に考えるときだ」と声を荒らげ、「市内各地でもっと開催して、全市民に見せなければいけない」と運動への協力を申し出た。
 80歳の男性は、母、姉、妹の3人を亡くしたことを明かした。早朝に出かけていた呉海軍工廠で「広島は全滅」と聞き、急いで広島に帰ると上流川町にあった自宅は全焼。数b離れた道ばたに幼子を抱えてうずくまったまま黒こげになっている女性の遺体を見つけた。後ろ姿が母親そっくりだったが、母親の生存を信じて周辺を捜した後、ふたたび立ち戻ってみるとすでにその遺体は片付けられていた。
 「5日間、野宿をしながら市内を捜し回ったが、母も2歳の妹も見つからなかった。あの黒こげの死体がきっと母と妹だったのだろう。勤め先の勧業銀行から県庁前の作業に動員されていた姉は、約30人の同僚とともに骨も残らないほどに焼き払われていた。アメリカはこの残虐行為を謝罪するのがあたりまえだ。それをさせなければ死んだ者は浮かばれない。日本政府も原爆の存在を知っていて、天皇制を維持するために終戦を先延ばしにした。今はアメリカ経済に振り回される国になってしまった」と怒りをこめて訴えた。
 米軍占領下の広島では、原爆記念日は「復興祭」と称して、笛を鳴らして御輿が踊るような「お祭り騒ぎ」しかなく、原爆の慰霊さえ進駐軍に禁止されてまともにできなかった。「最近でも、諸団体が広島に集まるが八月六日が年中行事の祭りのようにされることが頭に来て語る気にはならなかった。市民の声を伝える運動なら力になりたい」と連絡先を記していった。
 夫人と孫を連れてきた63歳の男性は、被爆直後に御幸橋西詰で撮られた写真のなかの母子を指して「これは生後三カ月の自分と母親だ」と語った。写真上の御幸橋には、ヤケドで真っ黒になった人人が両側にうずくまり、油をヤケドに塗るためドラム缶に集まっている。そのなかに、幼子を抱えて必死で駆け寄る女性の姿が写っている。
 「御幸橋のすぐそばの実家で祖母と母と私の3人が被爆して家の下敷きになり、近所の大工さんに助けられた。母は必死に守ってくれたから私は生きている。父はまだ学生で、東京から私たち家族を迎えにきた広島駅で被爆。学生服と学生証を頼りに聞いていくと似島で死亡したことがわかった。母の体にはいまだに28カ所もガラスが入っている。平和式典への出席も、取材もこれまで断ってきたが、あれほどの惨状を経験しながら今も戦争をやろうというのはバカげている」と憤慨した思いを語った。

 展望求め被爆者と交流 若い世代
 被爆や戦争体験を学びにくる学生や親子連れなど若い世代も多く、会場にいる被爆者たちとの交流が終日にわたっておこなわれている。若い世代は、原爆の廃虚の中から生き抜いてきた被爆者たちの訴えに真剣に耳を傾け、国民を赤紙1枚で戦地に連れて行き、原爆で虫けらのように殺した戦争政治と、政治、経済、文化、教育に至るまで荒廃した現代社会とを重ね、戦争のない社会の実現に向けて行動することを申し出ている。
 市内の百貨店で働く契約社員の女性は、「いまの偽装問題にしても、非正規雇用問題にしてもおかしいと思っていることがまかり通っている。結局金のない貧乏人は死ねという社会だ。戦前は女性が身売りしていた記事が出ていたが、これからも食べていけない女性は身を売って生きていけという時代になっていくのではないか」と問題意識を投げかけた。
 職場では、年年業績が落ち込んでいくことから労働人員を削減し、仕事量が増えているのに残業代もつけられず、多忙のため体調を崩す人が増えているという。正社員になるための試験では筆記試験に加えてディベート形式の討論がもりこまれ、口先がうまく回るかどうかが採用基準になる。
 「正しいかどうかではなく、責任を逃れるとか、うまく立ち回れる人を昇格させる方針だが、社会全体がそうなっていることが問題。女性の契約社員は、正社員や男性と同じ仕事でも給料は驚くほど安く、ボーナスもない。一人暮らしをするのがやっとで、こんな収入では子どもを育てられるわけがない。他の仕事は簡単に見つからない。どの業界も同じでうっ積したものがあるし、漁連やトラック業界でストライキが起こるのもよくわかる」と語る。
 「このままでは戦争になりかねないという危機感は自分たちの世代にもある。でも、被爆者の人たちがその世の中を変えていくために真剣に考えて行動されていることがすごいと思うし、それに出会えたことが最大の収穫だった」とのべ、4、5日におこなわれる青年交流会に参加する意欲を語った。
 国家公務員の30〇代の女性は、「今も自分たちの感覚が麻痺するほど毎日のように殺人事件が報道され、人間そのものが狂わされている。そのこと自体が戦争と同じだと思う。公務員なので市民と接する機会も多いが、市民生活を理解しない上の人間がトップダウンで政策をおろしてくることに矛盾を抱えながら業務に追われている。市民が食べていけずに困っているのに、国は追い打ちをかけている。職場では、うつ病にかかって休職が増えているが、まじめな人ほど病気になるのでだれもそれを責められない。労働組合もまったく機能しない」と思いをぶつける。「社会に展望がもてなくなり、どう生きていけばいいのか模索している若い人たちが増えている。よりどころのない不安が覆っているときほど殺人や自殺が増え、戦争という大きな力に流されやすい状況だと思う。こういうときこそ被爆体験に学んで積極的に行動していくことがとても大切だと思う」と話し、活動への協力を申し出た。
 滋賀県からきた看護師の女性は涙を流しながらパネルに見入り、「経済的に苦しくなって、戦争へ動員されていくという戦前の姿と今がすごく重なる。現在も人の命がお金で換算されるような時代になり、医療現場で働く私たちにも葛藤がある。そんなものに絶対に流されたくないし、看護師が戦争の片棒を担ぐのではなく人の命を守る側でやれることはなんなのか考えたい」とのべて連絡先を記し、パネル冊子を購入していった。
 脱サラして農業をはじめたという50代の男性は、「日本は農業で成り立ってきた国なのに農村で暮らせなくなって、国土の2割に人口の8割が集中するという異常な国になっている。すべて金のために人心が捨てられ、物を作る喜びや人に与える喜びというものが奪われる。農産物も外見だけが問題にされ、安全でも形の悪いものは値が付かないで、農薬付けの輸入品ばかりが流通している。自給自足ができない国は独立国家ではないと思う」と語り、明治維新を描いた劇団はぐるま座の演劇『動けば雷電の如く』の台本を購入していった。
 大阪から2人連れできた元府職員は「毎年広島に来て原爆と戦争展を見て勉強させてもらっている。活動を継続して展開され、内容も年ごとに深まっていることに驚いている。パネルにもあるように、戦前と同じように貧富の格差が広がっている。全てのことが利権絡みの政治になり目先の問題を見ていたらきりがない。欲望が優先されて、人間としての理念が崩壊していることが戦争への道だと思うし、根本的に変えなければ解決しない。そのためには国民が主導権を握らないといけないと思った」と強い共感を示していった。

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