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森脇保氏の逝去を悼む
告別式に250人参列
                 教育と人民解放事業に貢献     2007年10月22日付

 日本共産党(左派)中央委員会政治局員、人民教育同盟前中央本部委員長であった森脇保氏の告別式が日本共産党(左派)と人民教育同盟の共同葬として、21日午前11時から、下関市の活田会館で開かれた。森脇氏の家族、親族、友人、教育関係者、日本共産党(左派)関係者など全国各地から250人が参列した。戦争も貧困も失業もない、独立した平和な日本の建設をめざす人民解放事業にささげた森脇氏の生涯と精神が浮き彫りにされ悲しみを力に変え、その革命的な遺志をついで奮斗していく決意にみちた告別式となった。

 意志継ぎ奮闘誓う
 告別式会場は真紅の党旗がかけられた柩(ひつぎ)が壇上に置かれ森脇氏の写真が正面にかけられた。両側に共産党(左派)や人民教育同盟など諸組織の赤旗が飾られた。
 最初に1分間の黙祷(もくとう)をささげ、司会から斗病の経過と略歴が紹介された。その後、葬儀委員会を代表して日本共産党(左派)中央委員会の本田和人氏と人民教育同盟中央本部委員長の黒川謙治氏が挨拶をした。
 本田氏は森脇氏の活動について「戦争直後、教師の道に入られたが基地の街・岩国での教育斗争に見られるように、幾百万の子どもたちや勤労父母をはじめ、戦後日本人民の上に新しくのしかかってきた、アメリカ帝国主義による日本支配とのたたかい、アメリカに屈服し日本人民の支配を維持しようとした、日本売国独占資本に対する斗争が根本的な出発点だった」とのべ、「常に日本人民の反米愛国のたたかいのなかにあり、日本人民のために長期に献身的に奮斗した。いかなるときも自分の狭い利益の側ではなく人民の根本的利益の側に立たれた。反修決起や結党、20年間にわたる斗病を含め一貫した堅固で気高いものだった」と強調した。続けて「人民が勝利していく歴史発展の事業は何者も押しとどめることはできない。森脇同志の尊い生涯はそのような歴史の発展のため、また革命事業の勝利に欠かせない前衛党の建設のためにささげられた。私たちは森脇同志の生涯に真剣に学ぶ。そして福田議長が提起し森脇同志が獅子奮迅の努力で追求した人民に奉仕する思想で大衆路線の原則に立つ前衛党の骨格再建のために奮斗する」と決意を込めて結んだ。
 黒川氏は「森脇さんの生涯は日本を真に独立した、搾取も貧困も戦争もない平和で豊かな社会にするために、人民に奉仕する思想に立って大衆路線の道を歩む福田路線でたたかい抜いた一生だった」とのべ、1950年代の岩国における教育斗争にふれた。「当時、岩国では米兵の振りまく植民地的退廃文化や、子どもの列に小銭を投げつけて拾わせるなど日本人民への民族的屈辱が横行していた。森脇さんたち岩国の教師は団結し、地域の父母と結びつき米兵の蛮行とたたかい、子どもたちを腐敗と屈辱に負けず、民族の背骨を持ったたくましい日本人民の後継ぎとして育てる平和教育斗争を進めた。この岩国での平和教育斗争の立場と路線は、今日アメリカ型植民地教育で子どもたちの成長が破壊され戦争の肉弾にされようとするなか、継承しなければならない課題だ」と強調した。
 また、60年「安保」斗争、勤務評定反対斗争、湯田・松政旅館での教育課程伝達講習会反対斗争など、子どもを戦争の肉弾にする政治と教育の反動化に反対する斗争の先頭に立ってたたかいを指導し、1966年には日本共産党・宮本集団が日本人民解放斗争を放棄する修正主義に転落したことと断固としてたたかった、とのべた。とりわけ「民族民主教育路線の確立と運動の先頭に立って奮斗した」と教育運動への貢献を明らかにし「この時期発行された『70年代の子どもと教育』『未来を開く子どもと教育』に示された路線と実践は日本の教育運動を揺るがし今日も運動の指針になっている」と語った。
 そして「いま子どもを個人主義教育で人殺し、戦争の肉弾にするのか平和の担い手にするのかの矛盾が激化しており、人民教育運動の発展が求められている」「そのために病気をおして『60年代の教育運動と反修決起』を書き残してくれた。森脇さんが生涯貫いた、敵と真正面からたたかい、独立・民主・平和繁栄の日本をつくる、子どもたちをそうした日本人民の後継ぎに育てる精神を学び、必ず日本の教育運動を刷新する」と誓った。

 各界から告別の言葉 業績を浮き彫りに
 続いて各界の代表が告別の言葉をのべた。
 長周新聞社の森谷浩章氏は「敗戦後米軍が占領し荒廃した岩国で教師の道に進まれたが、その後、半世紀にわたり、まっしぐらに日本の子どもたちの未来のために、日本人民の根本的利益のために、いかなる権力、裏切者の妨害、攪乱、弾圧とたたかい、全生涯を人民解放事業にささげた。この生涯は日本の戦後の幾千万大衆の独立・民主・平和・繁栄を願うたたかいを代表した人生だった」とのべた。そして受け継ぐべき重要な点として「一貫して真実に対して誠実な態度をとられたこと」と語り、「森脇さんは自分自身が人民解放事業に参加しただけでなく、家族のみなさんがみずからの意志としてこの事業に参加され、ご兄弟、さらにめいにあたる人も革命事業に参加されている。これはみずからが真実と確信し他人に要求することが、自分と自分の家族、親族に要求することと一致していたということだ。それは本当の意味で、理論と実践の一致、革命生活と私生活の一致、欺まんのない思想の真実性を貫かれたあかしだ。それこそ真の教育者の姿だ思う。この点がさまざまな欺まん分子と根本的に異なる所と思う」と強調した。
 岩国米兵が広島で起こした集団強姦事件にふれ「これは被爆地広島への冒涜であり、原爆を投げつけて何10万人を焼き殺したアメリカ侵略者が日本民族を虫けらのように侮蔑し蹂躙(じゅうりん)していることのあらわれだ。このなかで戦後初めてアメリカの原爆投下に抗議するたたかいを切り開いた1950年8・6平和斗争、それに続く岩国の基地斗争、そして森脇さんたちが担った岩国の教育斗争の伝統を引き継ぐのはきわめて重要だ」とのべた。そして「欺まん的な裏切者潮流を一掃し、欺まんのない人民に奉仕する思想に貫いた新鮮な政治勢力を結集するなら日本の様相を一変させることができる。森脇さんが貫いた精神を継承し、独立・平和・民主・繁栄の日本を実現する事業を勝利させることを誓う」と心を込めてのべた。
 共産党(左派)山口県委員会の安村直行氏は、1993年に開催された第四回党大会で明らかにされた、傲慢な支配階級の思想に反対し、人民に奉仕する思想に徹して大衆路線の道を歩む道筋に立って山口県党の再建に粉骨砕身し「気迫あふれる指導で叱咤激励されてきた」とのべた。そして「反米愛国の背骨は1950年代の岩国での教育斗争にある」「米軍岩国基地反対斗争の宣伝活動を先頭に立っておこない“県安保共斗”の再建を口癖のように語っていた」と思いをはせ、「山口県党はいま福田議長の顕彰運動を要に、西部地区を拠点に党の骨格をうち立てる反修斗争を始めている。森脇同志が心血を注いだ福田議長の革命精神と政治思想路線を学び、党の骨格をうち立て、人民解放事業に邁進する」と結んだ。
 森脇氏とともに教育斗争をたたかった村岡シエ子氏(岩国市の退職教師)は「よし、それで行こう!」と強い決意にみちた言葉に励まされ困難を乗り越えてきた経験から語り始めた。川下小学校(岩国市)への在任期間は短かったが休憩中は喜喜として遊ぶ子どもたちの輪に森脇氏の姿があり、子どもから深く慕われていた一端を紹介。また学校に米軍軍楽隊を呼ぶ計画を撤回させた斗争にふれながら「機を逃さない指導を受けてきた」とのべた。そして岩国で直面している米軍再編や広島における米兵の婦女暴行事件に強い憤りをあらわし、「私は臨終の間際まで深く広くそして身近に大衆とともに歩みます」と厳粛な誓いをのべた。

 教育運動の発展を決意教師も発言
 森脇氏の指導を受けてきた佐藤公治氏(宇部市・教師)は「森脇さんはどんなときも人民の斗争に展望を持っていた。むずかしい局面でも“大丈夫、人民は前に向かって立ち上がっている。それをどう援助していくかだ。展望を持ってがんばろうじゃないか”と励ましてくれた」と生前の確信に満ちた活動に思いをはせた。「先生はニコニコしながら、“あんたは子どもや親がどんな気持ちで毎日を送っているか考えたことがあるかね。働いても資本に搾取され苦しい生活でも社会を支え発展させている親。その資質を受け継ぐ子どもたちの姿が見えているかね。教師の役割は教室の中だけで教科書通り教えて自分の生活のことだけ考えていればいいのか?僕たちの宝である子どもたちを社会刷新の担い手に育て、腐った社会を変革するために教育していく崇高な人民教師としての使命を考えたときに意味がわかると思うよ”と説明して下さった。いまその意味が理解できる」と話した。そして「森脇先生の遺志を受け継ぎ、真の人民教師として学校、校区を社会刷新の砦にするために奮斗したい」と結んだ。
 劇団はぐるま座の入江光司氏は「たたかいの足跡は先生がはぐくみ、ともにたたかってきた次の世代に引き継がれ、戦争も貧困もない平和で豊かな社会を実現する人民運動を大きく発展させていく力となっていくことを確信している」と強調した。そして「歴史を発展させている人民大衆の生き生きとした時代精神を反映し、社会発展の展望を示す人民的で民族的な新しい芸術・文化がいまほど切実に待ち望まれているときはない。劇団はぐるま座の全劇団員は先生の遺志を受け継ぎ、創立55周年を機に真に人民に奉仕することのできる人民劇団への飛躍を勝ち取ることを誓う」と決意を明らかにした。
 続いて弔電が紹介された。全国の個人、団体、教職員有志から届いた22通のうち、退職教職員協議会と日本共産党(左派)愛知県委員会の弔電が読みあげられた。
 このあと家族・親族の挨拶に移り、長男の浩氏が「身近にいてわからなかった父の真価を学ぶことができた。幼いときは父の現場での活動はわからないが、家で多くの先生との交わりや食卓を囲んでの“子どもの教育をどうやっていこう”と語る姿を見て育ってきた。そしてだれに入れといわれたわけではないが運動に入った。父が生涯かけて貫いた、体からにじみ出る精神をしっかり受け継ぎ、これからも力を合わせてがんばっていきたい」とのべた。森脇保氏の夫人・昭子氏は「本日はどうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」と挨拶した。
 続いてインターナショナルを全員で合唱。森脇氏の遺志を継いで進む決意あふれる歌声が会場に響いた。最後に、遺族を先頭に参列者が献花。森脇氏との別れを惜しむ長い列が続いた。多数の参列者が見守るなか12時半に柩を送り出した。

 日本共産党(左派)中央政治局員 人民教育同盟前中央本部委員長
 森脇保氏の略歴

 森脇保氏は、昨年の夏ごろから体調がすぐれず、今年3月に肺ガンが見つかった。
 ガンの手術がむずかしいところにできたため、放射線と抗ガン剤による治療に切りかえた。入退院をくり返す生活のなかで、渾身(こんしん)の力を込めて「50年代の教育運動と反修決起」という文章を書いた。一時期はガンも小さくなったが、抗ガン剤の副作用は食欲不振をもたらすなど体力を低下させていった。
 9月に入り、体力回復のための再入院をしたが、腎臓の機能が低下し、腎不全から不整脈となり、ついに医者、看護師の奮斗にもかかわらず、10月19日午前6時30分、逝去した。享年78歳だった。
 森脇氏は、1929年に広島県で生まれた。村人から慕われた医師であった父は、森脇氏が小学校4年のときに亡くなり、以来、弟とともに母親の手で育てられた。第2次大戦のときは学徒動員で愛知県の航空機工場で働き深刻な体験をした。
 戦後は教職の道を歩み、基地の街岩国で教組活動をはじめさまざまなたたかいに参加した。教組の支部書記長、青年部長などを歴任し、56年には日本共産党に入党した。57年には山口県教組書記次長となり、湯田松政斗争などをたたかった。66年に反修決起し日本共産党(左派)山口県委員会に結集し、以後、全国民族民主教育の会の代表、人民教育同盟中央本部委員長などを歴任した。
 第2回党大会で中央委員に選出され、以来、前衛党の指導的幹部として奮斗し、93年の第4回大会以後は、政治局員となり、さまざまな日和見主義とたたかい党の再建にとりくんだ。森脇保氏はたたかいの半ばで倒れたが、革命事業や人民の利益を守るうえで揺るぎがなく、どんな困難な状態のなかでも高い責任感で任務を担った。

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