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原爆と戦争展に全市的期待
長崎・市内で宣伝活動
            市民が意欲的に協力    2007年6月4日付

 下関原爆展事務局は、 先月10日〜今月3日までの毎週金・土・日曜日に 長崎西洋館で10日からおこなわれる長崎「原爆と戦争展」の宣伝活動を長崎市内でおこなってきた。市民からは、 一昨年からおこなわれてきた「原爆と峠三吉の詩」市民原爆展への信頼とともに、 今回「被爆市民と戦地体験者の共通の思いを結び、 平和な未来のために語り継ごう」のスローガンでおこなわれる「原爆と戦争展」へ強い期待と、 積極的な協力が寄せられている。

 改憲や米軍再編への怒り重ね
 チラシを見て、被爆者、戦争体験者が自己の体験をあふれるように語り、目の前で進行している憲法改正、米軍再編などの新しい戦争準備への危惧(ぐ)とともに、「320万もの犠牲者を出してなぜまた戦争をやるのか」「またアメリカのために死ななければいけないのか」という激しい憤りを語っている。「なんとしても原爆と戦争の真実を伝えなければいけない」と切実な思いが語られている。
 また、被爆市民の思いを代弁してきた、伊藤前市長が銃殺されるという民主主義圧殺に対して「長崎市民として黙っていてはいけない」と行動意欲が高まっている。そのなかで、自治会や商店街などをはじめ、寺、病院、塾、中小業者、一般市民がポスターやチラシを大量に預かり、市民の手による宣伝も広がっている。
 のべ11日間におよぶ宣伝行動で、ポスターが1127枚、チラシは2万1165枚が掲示・配布され、100人を超える市民が賛同人として名前を連ねた。カンパとして、6万1000円が寄せられた。
 3日には山口県内から22人のスタッフが参加して、長崎市北部の滑石、中部の三原、高尾、辻町、坂本、江平、西部の金堀、城山台などの各地域にポスター掲示とチラシ配布をおこないながら、市民の意見を聞いた。
 立山に住む婦人被爆者(74歳)は、「これまで1人ではなにもできなかったけど、こうやって毎年、原爆展が開かれることにほんとうに感謝ですよ」と笑顔で語った。とくに「伊藤前市長銃殺事件もあって、原爆のことはやりにくいという空気がある。でも、こういうときこそ全国で原爆展を開いてほしい。新聞では、原爆が落とされたらカッパを着ればいい、地下に入ればいいとか書かかれていたけどそんなもので助かるわけがない。バカも休み休みにしてほしい」とあきれた口調で語った。
 原爆では5人の肉親を奪われた。産後で自宅に寝ていた母は、家屋の下敷きになり重傷。畑に出ていた長姉は服は焼け焦げて裸でカボチャのように膨れた顔で帰ってきた。外出した次姉は帰らず、5歳の弟は自宅の梁の下敷きになって「せんべい」のように押しつぶされて即死。母はひと月後に息を引き取り、近所の人が布団にくるんで穴に埋めた。
 「父が出征していたので身内が1人もいなくなり、12歳の私が生後20日の妹をなんとか生かそうと“おもゆ”を作って食べさせていたけど、だんだん喉を通らなくなり半年たって死んでしまった。いま考えればよく生きたほうだと思う」と振り返る。「子どもは何度も持てるが、親は2度と持つことはできない。原爆が落とされなかったら、戦争がなかったらと何度思ったかわからない。いまだにアメリカと聞くだけで、私はムカムカとしてくる。絶対に戦争はいけません」と語り、賛同協力を申し出た。
 原爆投下後、たくさんの遺体が集められたという寺の住職(80歳)は、「私は当時、学徒出陣で霞ヶ浦の航空隊で零戦に乗っていて、硫黄島から飛んでくるグラマン機と戦った。最後は、沖縄にいけといわれ同僚が飛び立っていったが、私は生き残った。米軍は一般の避難民がいる防空壕の出入りを上空から監視して次次に入り口を爆撃したので、中にいる人間はほとんど死んだ。赤子まで殺す無差別攻撃だった。みんな国のためと信じて死んでいったのに、いまの世は上から下までアメリカのいいなりではないか」と憤りをにじませた。
 「終戦後は原爆で隣近所の知り合いはほとんどおらず、本堂に死体がごろごろと集められ、夜になると犬がくわえて引きずっていて、ほんとうに…情けなかった。絶対に忘れてはいけない。これは檀家さんにも知らせたい」とポスターとチラシを預かった。
 また、滑石では、スーパーを営む男性が「叔母が被爆している。原爆まで落とされたのになぜ日本はいまだにアメリカに膨大な金をつぎ込むのか。食えないで困っている日本人がたくさんいる」といってポスター掲示を快く応じたり、賛同した飲食店主が「憲法を改正したり、日本に米軍基地があるから狙われる。このままではまた戦争になる」と危惧が語られるなど、若い世代からも共感が寄せられた。

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