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被爆市民10人が熱込め語る
長崎・下関一の宮小修学旅行
              「戦争やるな」の行動意欲    2007年6月1日付

 長崎市松山町の爆心地公園で5月31日、長崎の被爆市民10人が修学旅行に訪れた下関市立一の宮小学校(江國俊夫校長)の6年生87人に被爆体験を語った。長年「祈りの長崎」といわれ市民が語る場がなかった長崎で、また、先月、原爆の非人道性を訴えてきた伊藤前市長が銃殺されるという重苦しい空気を振り払って、市民が前面に立って被爆市民の本当の思いを語り継ぐ画期的な行動となった。

 地図や自作の絵等使い伝える
 集まった被爆者たちは、原爆展を成功させる長崎の会会員をはじめ、これまでに長崎市内でおこなわれてきた「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展に訪れた市民たちで、ほとんどが人前で体験を語るのははじめて。それぞれ被爆当時の地図や自分で被爆の惨状を描いた絵などの資料を手に思いを高ぶらせて現地に集まり、アメリカの原爆投下による凄惨な体験と、ふたたび戦争を起こさせぬ、原爆を使わせぬという痛切な願いを子どもたちに託した。
 原爆資料館の見学を終えて午後2時に集まった子どもたちは、9班に分かれて公園内に散らばり、それぞれの被爆者を囲んだ。
 はじめて体験を語った山下諫男氏(77歳)は、事前に用意してきたメモを見ながら子どもたちに熱を込めて語りかけた。
 「鉄は1300度で溶けるがその数倍の熱線を人間が直接受けた。学徒動員に出ていた姉は、着物もなにも焼け飛んでしまいパンツのひも1本を腰に付けてボロボロの姿で帰ってきた」と語り、「夜になってもアメリカの偵察機が照明弾を落とし、昼間のように市内を照らし出して原爆の効果を確かめていた。全滅しているので爆弾は落とさなかったが、私たちは身を縮めて恐ろしさに震えていた。国鉄の救援列車がきて治療できる場所に連れて行くといわれたが、元気な人は絶対に乗ってはならないという決まりがあったので心ならずも瀕死の姉を1人だけ乗せた。姉は大村の海軍病院に連れて行かれたが、翌日死に、火葬されて帰ってきた」と悲しみを押し殺して語った。
 さらに、「なぜ日本に原爆を使ったのか」にふれ「それはソ連に強さを見せつけたかったのだ。そのために、子ども、女や老人ばかりを狙った無差別攻撃をやった。アメリカの力の誇示のために長崎では7万4000人が殺されたんだ」と怒りをこめた。
 山下氏は、「国民の生命と全財産を守るのが国の仕事だが、戦争をはじめた国は相手を滅ぼすことが中心になり、子どもも大人も関係なくその犠牲にされる。そういう時代になれば、国が統制令を出して国のいう通りに動き、生活しろといい、政府が18歳以上と決めれば、50円のハガキ1つで召集令状が来る。拒否した人は警察が手錠をかけて監獄にぶち込まれるという世の中だ」と強調。
 「殺された長崎市長は反対していたが、政府は、核兵器への対処法として“もし原爆が落とされそうになったら、上着を頭からかぶって物陰に隠れなさい”といっている。60年前にこれだけの被害なのに、いまの何100倍という原爆を受けてそんなことで助かるわけがない。それより落とされない努力をするべきで、戦争になるような方向にもっていかないことが第1条件だ。憲法第9条も広島・長崎の犠牲のうえにつくられた条項。これを崩したらまた戦争につながる。昭和20年は、日本には武器もなく、稲佐山にも木製の高射砲が据えられ、三菱兵器ではヤリの矛先や日本刀もつくらせていた。政府はそうやって愚かな政策で国民を犠牲にし、ろくに責任もとらなかった。経験者としては2度と戦争をする国にはさせたくない。みなさんも大きくなってどうか平和のために働いてください」と呼びかけた。

 住み良い日本作ってほしい
 自作の絵を持ってきた吉山裕子氏(81歳)は、当時、茂里町の三菱製鋼所の事務室にいて、空襲警報が解除になったとたん「ピカッ」という閃光とともに崩れてきた天井の下敷きになった経験を語った。「意識が戻ると、浦上川沿いの道ばたに転がるように投げ出され、まわりには動員の生徒たちの黒こげの死体が無数に散らばっていた。同僚はほとんど全滅し、意識があるのは電話交換手の女の子と私だけだった。崩れた建物の中からは“お姉ちゃん…水ちょうだい”という声が聞こえたけど、水はないし、腰が立たたずに動くこともできない。その後も米軍の低空飛行が続いて…生き地獄だった」と、その惨状を描いた絵を指しながら語った。
 また、前歯が折れ、まぶたと後頭部には生生しいガラス傷が残り、戦後は人目を避けるようにして生きてきたこと、腰が立たないのでいざって暮らしていたことなど、戦後も続いた苦しみを身振りを交えて懸命に伝えていた。
 夫婦で子どもたちに語った馬場直氏(81歳)は、兵隊として愛媛県松山市から原爆投下翌日に長崎に帰ってきたこと、「浦上駅を降りると辺り一面の焼け野原、製鋼所では鉄骨だけが残っていた。家は落ちた瓦の家を歩いて、家に帰ってみたら柱が3本だけ立っていた。呆然としていると、近所の人がみんな防空壕に寝泊まりしていると教えてくれた。だが、みんな次第に体に斑点ができたり、髪が抜けて死んでいき、その遺体に戸板や柱をかぶせて焼いた」とのべた。
 隣にいた夫人が「主人は特攻隊要員だった。同級生たちは3カ月の教育を受けて満州に行って帰ってこなかったが、自分の番になるとすでに飛行機がなかったから命が助かった」「出征するとき万歳で見送ってくれた隣近所の人たちが次次に死んでいき、兵隊だった自分がその遺体を焼いたんですよ。それは辛いことことだったんですよ」と付け加えて子どもたちに語った。
 馬場氏は、「いちばん大事なことはみんなが支え合うこと。今は子どもを殺す親、親を殺す子どももいるが、みなさん大きくなったら人を大切にする人になって欲しい。辛抱、我慢することを憶えて、困難を乗り越えてください。誰も真っ裸で山の中で1人で暮らすことはできないし、助け合わないといけない。原爆を落としたり、今もアフガンやイラクで人殺しがされているが、そんな心易く人を殺すことは絶対に許されない。みなさんが世の中のためになる人間になって、住みよい日本をつくって欲しい」と願いを託した。

 子ども達も真剣なまなざし
 被爆者たちの熱のこもった語りに、子どもたちも真剣なまなざしで応えながら、話をノートに書き取った。「今日の話を聞いて、僕のひいおばあちゃんは5月に亡くなったが、とてもたいへんな時代を生きてきたと思った。平和の大切さをあらためて考えた」「戦争の悲惨さを知り、戦争のない平和のために自分になにができるか考えたい」と自分から手を挙げて感想や質問を返したり、目に涙を浮かべて聞き入る姿に、語った被爆者たちも「子どもたちがしっかりしていた」「話した甲斐があった」と喜んでいた。
 引率した教師たちも、「これまではホテルの広間を借りて1人の人に講演してもらっていたが、こうして間近に市民の方から貴重な話を聞くことができてよかった」「子どもの表情がいつもと違う真剣さだった」と感動の面持ちで語り、「この経験を地元に帰って広めたい」と話した。感想文を後日、被爆者1人1人に送ることにしている。
 体験を語った後、被爆者同士で今日の経験を交流し合い、今後も被爆の真実を語りつぐ市民の行動を広げていくことを確認しあった。

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