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長崎で語り継ぐ運動はじめる
長崎市民原爆展賛同者の集い
                地域や学校の原爆展へ     2006年6月12日付

 長崎西洋館で5月6〜14日まで開催された「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展の賛同者のつどいが11日、長崎ブリックホールで開かれた。被爆者を始め、市民原爆展を参観した40代、50代の市民や大学生など、地元賛同者が14人と、下関原爆被害者の会の被爆者や下関原爆展事務局スタッフ、原爆展キャラバン隊など21人が参加した。つどいでは原爆展の成功を確認し、今後どのように運動を広げていくか、活発な論議となった。「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる長崎の会が形となって動き始めた。
  
 “真実を伝えたい”
 会の始めに、主催者である下関原爆被害者の会の升本勝子氏があいさつ。市民原爆展が成功したことを喜び、「これから先、ますます発展するように、手をとりあっていきたい」と語った。
 原爆展を成功させる長崎の会世話人の中村博氏は、「みなさんの協力を得て、第2回市民原爆展も無事終えることができた。私も始めてから日が浅いので、どういうふうにしていったらよいか、わからないところも多いが、みなさんの協力を得ながら、原爆展を成功させる長崎の会を大きくしていきたい」とのべた。
 続いて下関原爆展事務局の杉山真一氏が、今年の市民原爆展の概況を報告した。会場で長崎の被爆者が60年間押さえてきた深い思いが堰を切ったように語られたこと、その声は若い世代に大きな衝撃を与えたことを報告。原爆展が終わってからも「沈黙を破る長崎の怒り」が回し読みされたり、集まれば体験が語られるようになってきたこと、長崎市民の本当の思いが伝えられたことは、広島を始め、全国、全世界への大きな意味を持つことを明らかにした。
 また今後の運動について、市内各所で原爆展をおこなって、体験を語りあい、子どもたちや若い人に語り継ぐ場にしていくこと、その運動を下関原爆展事務局が支えていくことを提案した。
 その後参加者からは、被爆体験や戦後六一年間の思いなどがあふれるように語られた。
 70代の男性は、「広島はドームが残っているが、長崎はほとんど残っていない。浦上や大浦など天主堂は観光で力を入れているが、原爆には力を入れていない。被爆後の市長がカトリックの関係で、長崎は祈ることが中心になり、本当に語られていない」と切り出した。先日弟の葬式で住職にそのことをいうと、「仏教でも風頭になにか建てようという案が出ていたが、カトリックがうんといわないので実現しない」と語っていたという。「長崎は宗教の関係で難しいが、みなさんの下からの力で動かしていきたい」と語った。
  別の70代の被爆男性は、「長崎は被爆遺構が少ない。私は山里小に1年生から通ったから、山里小を壊すときに、50代くらいの人に“残した方がいいんだが”というと“じゃまになるけん”といわれた。今の小学校は前の市長のときに建てたが、外から見たら教会みたいだ」と憤りを語った。
 また、長崎で唯一残っている一本足鳥居もビルが建ったためにどこにあるかもわからないこと、焦げた電車も大橋に持っていって置いておけば若い者にも伝わるのではないかなどと語りあわれた。
 70代の男性は、被爆当時の惨状を語り、「私たちは惨めな被害を被り、目の前で見ているから、その恐ろしさがわかる。若い者は知らないから年寄りの経験したことを生きている間に教えてやりたい」と発言した。そして「昔は魚を食べていたが、今は肉ばかりだから日本人が動物化し、若い者はちょっといったらカッとなる。アメリカは動物化しているから、イランでもイラクでも戦争をしているが、日本は食から変えないといけない」と語った。
 別の70代の男性も、「今世の中が狂っている。なぜ原爆が落とされたのか。なぜ女子どもが先に死んだのか、伝えないといけない。アメリカは広島でも長崎でも空襲警報を解除して落としたんだ」と憤りを語った。被爆者同士では当時空襲警報が解除されたことや当時の模様など、おたがいに語りあわれ、若い世代は真剣に聞き入っていた。

 戦後世代も行動に意欲
 キャラバン隊にチラシをもらい、西洋館の原爆展を始めて参観した50代の母親は、「長崎で生まれ育ち、学校の平和教育では通り一遍の話は聞いてきたが、衝撃を受けることのないまま大人になった。祈りの長崎といわれていることも会場で初めて知った。今の子どもたちもそうではないか」と衝撃を語った。
  また会場で受付を手伝った30代の母親も、「子どもがチラシを持ってきて、行きたいと思っていた。会場でみなさんが一生懸命やっているのを見て、なにかできたらと思って手伝った。またみなさんとお会いできてうれしい。今後もがんばりたい」とのべた。
 航空写真を提供した、坂本山王自治会の会長は、航空写真を提供することになったいきさつを語り「写真がとても好評だったと聞いた。いくらかでもお役に立ててよかった」と喜びを語った。
 原爆展のチラシを、電車の中などで配布した婦人は、「今年は220枚のチラシを1人1人無駄なく手渡すことができた。去年は展示の中身を知らなかったので説明することができなかったが、今年は去年の反響を話すことができた。今年は“毎年やってほしいね”という声などもあり、配ったかいがあった。来年もまた配りたい」と語った。
 キャラバン隊のメンバーからは、原爆展が市内各地域で話題になっており、「沈黙を破る長崎の怒り」チラシをコピーして、身内や友人に配布している人や、自治会で原爆展を見に行こうとなり、仕事を休んで参観した人がいたこと、「原爆が表に出てきたから、続けてほしい」「次にやるときはもっと多くの人に呼びかけたい」と語られていることが紹介され、この運動をどのように広げていくか論議となった。
 世話人の男性は、「次の会場を探しているが、みなさんの地域や公民館などでやりたいというところがあれば連絡してほしい」と呼びかけた。
 それに応えて「学校でできないだろうか」と発言した50代の母親は、「毎年8月9日は登校日で被爆体験を聞いているが、体育館に全員が集まって聞いている。語る人は遠すぎ、形だけやっているように感じる。少人数で語ってもらい、原爆の怖さだけでなく、その人が戦後どういう苦しい生活をしてきたのかというようなところまで話してもらった方がいいと思う」と語った。
  昨年広島に行った男性は、「長崎は4つ団体があり、それが学校を回っている。広島は長崎と違い、子どもたちが一生懸命で、先生を説得したり、被爆者に頼みに来たり、目の玉をぎらぎらさせて聞いてくれる。そういう形を長崎でも上手につくっていきたい」と語った。
 30代の母親は「一カ月間、公民館を回って開催していくというのはどうだろうか」と提案した。地域で開催するときに、下関では自治会を通じてチラシを配布してもらったり、地域の学校には直接持っていって、チラシを配ってもらっていること、広島でもこの原爆展をとおしてだんだんと広がり、地元の子どもたちに学校で話ができるようになっていることが説明された。
 参加者は「自分の地域の自治会にも話してみよう」「公民館でやる場合には外に出す看板はどうするのか」「街頭でやることはできるのか」など、具体的に運動を進めていく論議となり、長崎の参加者同士のつながりが深まった。

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