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長崎で地域原爆展を開始
下西山町センターで3日間
               熱こもる地域住民の交流    2009年11月16日付

 長崎市の下西山町センター(上長崎小学校隣)で10、13、14日の3日間、原爆展を成功させる長崎の会(永田良幸会長)の主催による原爆と戦争展がおこなわれた。これまで5年にわたって長崎西洋館でおこなわれてきた、「原爆と戦争展」を地域単位で開催することへ強い共感が集まるとともに、被爆市民による平和運動、教育運動として全市的に広げていく一歩となった。
 西山地区は、爆心地との間にある金比羅山に遮られて直爆は免れたものの爆風によって倒壊した家も多く、被爆後には山伝いに多くの罹災者たちが逃れ、長崎大学経済学部グラウンド(旧長崎経済専門学校)では周辺地域から集められた多くの遺体が荼毘に付されたことが語られている。
 これまで原爆行事といえば爆心地である浦上地域に集中しており、平和祈念像や浦上天主堂、永井隆記念館などをシンボルにした宗教的色合いのなかで「祈りの長崎」という虚構のイメージが内外に振りまかれてきた。
 だが、市民の手によって収集された二万体もの被爆遺骨が葬られている筑後町の東本願寺長崎教務所をはじめ、旧市街地に多くある被爆に関係する場所はほとんど知られておらず、展示を見た市民からは「市内中の地域や学校で巡回展示してほしい」「オリンピック騒ぎをやる前に、長崎市民の本当の声を届けるべきだ」と期待の声や賛同協力の申し出が相次いだ。会期を通じて20人が新たな協力者となった。
 地元自治会の協力のもと、原爆展を成功させる長崎の会の被爆者、戦争体験者たちによって会場設営や受付などの運営がされ、地域住民、親子連れなどが多数来場。パネルを前にしてこれまで地域内でも語り合うことのなかった被爆体験、引き揚げ体験、戦後の苦労などを時間をかけて語り合う姿が目立った。
 自治会役員の男性は、「金比羅山の向こうから猛烈な爆風で家の壁が倒れ、割れた水瓶の破片が私の頭に飛んできて血まみれになった。爆心地方面を向いていた防空壕では中に避難していた人がそのまま焼け死んだ。松山方面からぞろぞろと学生たちが避難してきたが、水を求めて田の中に顔を突っ込んで泥水を飲んでそのまま死んでいった。“原爆”と聞くだけであの情景が浮かんでくる」と激しく語った。
 また、自宅を開放してケガ人を収容したが、次次に息絶えていくのでリヤカーに乗せて伊良林小学校のグランドに運び、何層にも積み重ねて焼いたこと、「火をつける前になって、意識のなかった人たちが急に立ち上がって全力疾走して、バッタリ倒れて死んでいく姿を何回も見た。“髪が抜けたら死ぬ”と教えてくれた近所の兄さんが、頭に手をやるとバサッと髪が抜け、次の日ぽっくり死んだ。この地域は無傷でも死んでいった人がたくさんいる」と語気を強めた。
 戦後は進駐軍が旧市街地に陣取り、浜町や丸山などの繁華街では赤提灯を下げて屋台のように娼婦小屋が並び、米軍による暴行や窃盗事件が絶えなかったこと、長崎最大の祭りである長崎くんちも「軍国主義につながるもの」と進駐軍から圧力がかかって通常通りの開催ができなかったことなども語られ、「進駐軍は刀狩りをやったが、床下に隠している人が多くいた。長崎には外国の侵略に立ち向かうなかで受け継がれてきた伝統と文化がある。オバマが訪日したが、広島、長崎、沖縄から厳しい視線があることを感じているから、被爆地にも訪れず逃げるように中国へ行った。アメリカは日本人を恐れている。オバマに招待されて田上市長が浮かれているのがふがいない」と話した。

 全市で巡回展をと期待 来月は西町小で展示

 別の自治会役員の男性は、「オバマ大統領は、広島でも、長崎でも、小浜でもすべて自分の宣伝効果のために利用するというもの。被爆地にきて被爆の惨状について向き合う気迫もないのに“核廃絶”など人だましのようなことをいう。アメリカは日本を好き勝手にコントロールするために原爆を落としている。長崎での原爆行事はうわべだけのイベント行事が多いが、本当に被害を受けた人の身になって考えなければ、将来大変なことになると思う。県立高等女学校の正門前でもたくさんの遺体を焼いているが、今もその下には骨が埋まったままだ。どんどん巡回展示をやって、子どもたちに本当の歴史を伝えないといけない」と語った。
 民生委員の婦人は、涙ながらに父親が日中戦争で戦死したことを明かし、「米軍司令官は“民家を攻撃して何が悪い”といっているが、これまでアメリカの言い分が日本でまかり通ってきたことが問題だ。私たちの世代は戦争のことや親の話を聞かずにきたが、親が亡くなってから無関心ではいけないと感じはじめた。独居老人のなかには身内を原爆で亡くし、葬式を出す人もいないというお年寄りが多く、原爆について語らないまま亡くなっている。年一度の形だけの行事では原爆の悲惨さは伝わらない。被爆地ならば、オリンピック開催よりも原爆投下の本当の姿を知らしめることが先ではないか」と話し、協力を申し出た。
 地域にある福祉施設からもお年寄りが訪れ、「端島(軍艦島)で看護婦をしていたが、たくさんの被爆者が運ばれてきた。光を当てただけでギャーと叫んで発狂して手もつけられない。薬もないのでほとんどの人が亡くなり、そのまま水葬した。アメリカはこの悲惨さをどれだけ理解しているのか。若い人が真剣に考えて欲しい」「長崎工業に行っていた弟の死体を捜しに回ったが見つからなかった」など、会場にいる被爆者らと思いを語り合った。
 筑後町に眠る2万体の遺骨や、明治維新で活躍した振遠隊の存在が、キリスト教が持ち上げられるなかでかき消されてきたことに驚きを語る市民や、自分の家で保管してきた戦時中の長崎市内の写真を持参する住民も見られ、「これまで公にされなかった長崎の本当の歴史を伝えてほしい」という要望も共通して語られた。
 長崎の会では、学校、地域での原爆展をさらに広げていくことにしており、来月はじめの一週間は、西町小学校でパネルが展示される。

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