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長崎から真実発信する使命感
原爆展成功させる長崎の会総会
              戦争阻止へ重要さ増す役割   2013年12月16日付

  「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる長崎の会(吉山昭子会長)は15日、長崎市中央公民館で今年度の総会を開き、1年の活動を総括して来年度の方向性について論議した。年末にかけて特定秘密保護法の強行採択など安倍政府の戦争を前提とした暴走政治が強まるなかで、今年の長崎「原爆と戦争展」や八・六広島集会、修学旅行生への体験証言などを通じて得た反響を確信にして、より多くの市民と結束を強め、被爆地から第2次大戦の経験と原爆投下の真実を語り継いでいく意気込みが語りあわれ、原爆展運動をさらに広げていく方針が確認された。
 冒頭、全員で原爆犠牲者への黙祷を捧げた後、副会長の河辺聖子氏が「今年の終わりを迎えるが、この運動は今後も末永く続けていかなければいけない運動なので、みんなで力を合わせていきたい」と挨拶。
 その後、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長、下関原爆被害者の会の大松妙子会長のメッセージが紹介され、事務局から今年度の活動報告がおこなわれた。
 今年は、6月の長崎市民会館での第9回長崎「原爆と戦争展」に続き、8月には原水爆禁止広島集会をはじめとする一連の平和活動、また秋にかけて山口県や北九州から3校の修学旅行生(計230人)にのべ19人の被爆者が体験を語ってきた。「かつての戦争の反省を根底から覆し、日本を再びアメリカのための戦争の盾として差し出そうとする戦争政治に対して、戦争阻止と核廃絶を求める圧倒的多数の市民の声を束ね、被爆と戦争の真実を発信し、国民的な世論と行動を促すうえで長崎の会の役割は非常に大きくなっている」ことが明らかにされた。
 論議では、広島集会や修学旅行生への体験証言活動などの経験交流をはじめ、被爆と戦争の経験と重ねて秘密保護法など安倍政府の戦争政策に対する切迫した意見が活発に語りあわれた。
 今年の8・6広島集会に参加した男性被爆者は、「8月に初めて広島に行き、核兵器に対する姿勢の違いに圧倒された。学校関係に至るまで社会全体が一つにまとまってデモ行進しているスケールの大きさにはとくに驚かされた。長崎で証言活動をするときには、そのことも子どもたちに語って聞かせている。長崎でも同じような運動を起こさなければいけないと実感した」とのべた。
 同じく広島に行った男子学生は、「広島は原爆反対の雰囲気がすごく強く、この熱気を長崎でも作りたいと感じた。9月から大学の授業で核兵器廃絶について学んでいるが、核保有国には核兵器を持つことで抑止力を維持しているという考え方もあるなかで、広島、長崎から世界の核をどうなくすかを考えないといけないと感じている」と問題意識をのべた。
 引き揚げ体験者の年配婦人は、昭和30年に広島でおこなわれた第1回原水爆禁止世界大会に長崎から参加したことを明かし「当時、広島の“動”に対して、長崎は“静”といわれており、これは絶対に長崎でも語り継がなければいけないと感じてきた。あれから50年たって長崎と広島が一緒になって活動していることが感慨深い。活動報告を聞いて、この時代だからこそ語り継いでいくことがいかに大切かとつくづく感じる。平和な生活に安穏としてはいけない。傍観者でなく、みずから行動していきたい」と抱負をのべた。

 戦争政治に許せぬ感情 秘密保護法成立へて

 初めて修学旅行生に体験を語った婦人被爆者は、「子どもたちはこちらが戸惑うくらい真剣に聞いてくれる。感想文をもらって、もっと頑張らなければと身の引き締まる思いがしている。一方で、テレビで秘密保護法などを審議する政治家の姿を見ているとイライラする。戦争を起こして犠牲になるのは庶民であり、トップに立つ政治家が平気で挑発的なことを論じているのを見ると許せない感情がこみ上げてくる」と語った。
 また、ビルマに出征した父を幼いうちに亡くした戦後の苦労を乗り越えてきたと語り、「遺児になっても国の助けはなく、自分で働き、自分で食べていく以外になかった。もう父の倍の人生を生きてきたが、父の無念や原爆による犠牲を思うと戦争で得をする者はいない。子どもたちの真剣さと比べ、政治家の姿を見ていると殴ってやりたくなる」と語った。
 婦人被爆者は、「子どもたちは私たちが語った一つ一つをきちんと覚えていて、届いた感想文を読んで涙が出た。小学六年生で大東亜戦争が始まり、四年後に原爆投下。そして同じ年に父が硫黄島で玉砕し、戦争に翻弄された幼少期だった。“欲しがりません勝つまでは”といわれ武器の材料がなくなると、家庭の釜も鍋もすべて国に強制的に供出させられた。諏訪神社の青銅製の鳥居や寺の鐘も没収された。今のような平和な正月を迎えることなどできなかった。国の動きを見ていると、今の生活があたりまえと思わないように子どもたちにしっかり伝えることが大切」とのべた。
 また被爆当時、明らかにB29が飛来しているにもかかわらず空襲警報が解除されて被爆による犠牲が拡大したことを含め、原爆投下からその後の被害を伝えるうえでも徹底した秘密主義が貫かれ、被爆者に対する差別も絶えなかったため、60年のあいだ口を閉ざしてきたことを明かし、「この原爆展に出会って初めて語り始めた。あの生き地獄をくり返してはいけない」とのべた。
 別の婦人被爆者は、「地元の長崎の子どもが原爆について知らない。もっと地元が真剣にならないといけない。福島の原発事故のことはテレビで報道しても、実際に長崎で起こったことを知らせない。空気汚染どころの話ではなく、死体と瓦礫が何日も燃えて原形をとどめていなかった。数字ばかりとり上げて、現実の結論を見ないことが問題だ」とのべた。
 長崎経専在学中に被爆した男性は、特定秘密保護法の成立にふれ、「太平洋戦争の発端となった満州事変は、中国北東部に侵略していた日本軍がみずからの意思で線路を爆破し、この自作自演を隠して中国のせいにして日中戦争を開始していった。今回の秘密保護法に関連して、来年には、自衛隊の活動を拡大解釈するための法案も立案しようとしているが、戦犯の岸信介の亡霊を受け継いだ安倍には国会内ではだれも刃向かう者がおらず、このままだと日本は大変なことになると思う。断絶寸前の日中間、日朝間でこの数年のうちに満州事変と同じことが起こらないとも限らない。なにがなんでも安倍政治を終わらせなければいけない」と切迫した思いを語った。

 平和教育を広げる意欲 学生含め白熱論議に

 その後、学生から出された戦時中の教育についての質問をきっかけに論議は白熱し、「ヤルタ会談後、政府は原爆が落とされることを事前にわかっていたのに、その外電を外務省で握りつぶしている。秘密保護そのものだし、その結果、広島、長崎での悲劇が起きた」(男性被爆者)、「当時は、天皇陛下の名の下に国や軍の動向に口を挟む者は片っ端から特高警察が摘発して留置場に放り込んだ。“軍人にあらずんば人にあらず”という徹底した扇動のもとで、暴力によって国民を封じ込めていた。だから敗戦直後は国民の大暴動が起こる情勢だったが、アメリカが進駐してきてそれを押さえ込んだ」(男性被爆者)、「政府に都合のいいように情報をねじ曲げ、新聞から教育現場にいたるまでそれに対抗できなかった。今もまったく同じだし、国会も賛成の挙手要員に成り下がった陣笠議員ばかり。国民の力で政府を締め上げなければいけない」と語りあわれた。
 また、「戦時中は、イモがあればいい方で、大豆の絞りカスやヒエや粟など今では鳥のエサのようなものが配給されていた。戦後は物資不足でお金が使えない物物交換になったが、原爆で焼け野原にされた長崎の人間はコメと交換してもらうものさえなく、どん底生活だった。食料生産を輸入に頼って自分で作れなくなれば戦争どころではないことをわからせないといけない」(婦人被爆者)、「政府は、長崎の軍艦島を観光地として世界遺産にあげようとしているが、あの地下炭鉱は、日本人をはじめ、朝鮮人を強制連行で連れてきて奴隷労働をさせ、麻生財閥や三菱などがぼろもうけした場所だ。アジア人や労働者を苦しめた島という認識を消し去って、観光資源にする発想が馬鹿げているし、歴史を正しく見る姿勢が見られない」(男性被爆者)、など、戦争を知らない政府による荒唐無稽な政策に対する意見があいついだ。
 最後に、来年度の活動方針として、学校や地域での小規模の原爆展を年間を通じておこなっていくことや、地元の学校などで被爆体験を伝える働きかけなどが提案され、より多くの市民の中で原爆展運動への参加を促していく必要性が語りあわれた。
 男性被爆者は、「原爆展では、満州事変から太平洋戦争に突入していった当時の様子を今に伝えることが重要だ。今がそっくりになっている。そして、戦後の日本も、現在のイラクでも、“独裁国家はいけない”と唱えてアメリカが侵略した国は、戦前以上にデタラメな国にしてしまっている。政治家、官僚から警察に至るまでアメリカに背けない構図が作られ、政治から変えることは難しいからこそ、市民の運動を広げることが大切だ」と今後の意気込みをのべた。
 男子学生も「体験のない若い世代は想像することしかできないが、被爆地に住んでいる以上はできるだけ被爆者の話を聞いてもらって戦争の実態を知ってもらうよう本当の平和教育を広げていきたい」と来年も活動を担っていく意欲をのべた。


 

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