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長崎の本音を語る強い意欲
原爆展キャラバン行動開始
             60年胸に秘めた激しい怒り   2006年4月10日付
 
 「原爆と峠三吉の詩」原爆展全国キャラバン隊(長周新聞社後援・劇団はぐるま座団員)は八日、長崎市内でキャラバン行動を開始した。8、9日の2日間で中央橋と新大工町シーボルト通りで街頭原爆展をおこなった。

  熱心に体験語る被爆市民
 市民からは「去年見せてもらった」「今年もやるんですね」と昨年に増した喜びを持って受け入れられ、60年の圧迫を剥ぎ取って長崎市民の本音を語り継いでいく原爆展の継続に強い支持が集まった。語られた市民の声をまとめた「沈黙を破る長崎の怒り」のパネル、チラシをさして「この通りだ!」と共感を寄せていく人も多く、被爆後の苦しみや肉親を失った悲しみが鬱(うっ)積した感情をともなって語られた。また、原爆展賛同者が「今年も協力したい」とチラシやポスターを受け取りにきたり、参観した市民が賛同者になるなど市民自身の運動として行動が広がりはじめている。2日間で1万8023円のカンパが寄せられた。中央橋での展示は、お年寄りから家族連れまでが足を止め、パネルを指差しながら論議する光景や熱心に体験を語っていく市民の姿が目立った。
 時間をかけてパネルを見ていた年配婦人は、「神戸で焼かれて、長崎の原爆でも兄を亡くした」と涙をためて語り、「長崎の怒り」パンフを買い求めた。
 「昭和20年3月17日の神戸空襲でさんざん焼夷弾を投げつけられ家が焼かれて家族はバラバラにされた。近所のお姉さんは直撃弾を受けて丸焼けになって死んだりひどい有様だった。それから長崎に来たのに、八月九日の原爆で兄は三菱兵器に出たまま行方不明だ。筑後町の家も焼けたので福済寺の防空壕に一ヶ月寝泊りしながら、嬉野や諫早まで兄を探しにいったが遺骨さえ見つからなかった。もう終わったものとは思いながらも、原爆写真を見るたびに鮮明に思い出して、兄が写っていないか探している」と、ときおり言葉を詰まらせながら語った。
 さらに、「若い人が平和のためとか、核兵器廃絶と叫んで署名を集めたり、国連に行ったりしているけどなにも変わっていない。表面づらの言葉だけが受け継がれていくのが悲しく思う。でも、家族を亡くしたものにとってはそんなに軽々しいものではなく、一生背負いつづけるものがある」と浮薄な運動への疑問を口にし、「長崎は怒りですよ」と原爆展賛同者に名を連ねた。
 まっすぐ歩み寄ってアピール署名を記した60代の婦人は、「中央橋のすぐ先の方で被爆し、父母も祖母も原爆で亡くした。自分は五歳だったが、馬がポーンと宙に舞ったようすや、タタミが宙を舞ったことを覚えている。母は軽石のように顔が穴だらけになって亡くなった。戦後、ABCCに連れていかれて背中のヤケドの写真を撮られた。だからABCCに自分の五歳の写真がある。自分はこういう写真をみると精神的に落ち着かなくなる。原爆手帳ももらったが、結婚差別もあり被爆したことを口にしてはいけないといわれていた。もう二度と戦争も原爆もあってはいけない。がんばってほしい」と期待を寄せた。
 五島在住の年配婦人は、「小学5年生のとき、五島でも機銃掃射を受けた。米軍機は必ず2機編成でやってきて、見上げると1機が操縦席の米軍の顔が見えるほどの低空飛行で撃ってきて、その1機が上がりはじめると次の1機が下りてきて同じようにやる。逃げる余裕を与えないやり方だった」と体験を語ってカンパを寄せた。
 
  世代をこえて論議に 荒れた日本を危惧
 新大工町では設営段階から年配者が真剣な表情で参観に集まりはじめ、あたりは張り詰めたような厳粛な空気に包まれた。あちこちで自分の体験を語り合う人、近くの若者をつかまえて体験を語る年配者など原爆展を囲んで垣根を越えた交流が広がった。
 原爆症で今も手足が冷えて眠れない夜があるといってきた70代の婦人は、「大村の航空廠で空襲にあって防空壕に落とされた140キロ爆弾がたまたま不発弾だったからたすかった。それから10日に被爆後の長崎にいった。汽車が道ノ尾までいき、そこから稲佐橋を渡り、飽浦の実家まで歩いたが市内は死体の山だらけだった。紫斑病といって体中に紫の斑点が出て片淵の病院に入院し、いまでも突然肺炎になったりする。アメリカは外道だ。キリスト教は“原爆に感謝する”というが私たちはそうは思えない。この展示のように長崎は怒りですよ」と興奮気味に話した。
 三菱兵器工場で15歳のときに被爆した男性は、「わたしはアメリカが憎い。戦後はアメリカ人が憎くて殺してやろうと思っていたら、どこから聞きつけたか、いきなり米兵がきて鼻とのどに銃を突きつけられたことがある。だからアメリカはいっさい信用しない」と語った。
 そして、「いまは靖国と騒ぐが、原爆のことをもっとやるべきだ。親殺し子殺しが増えるようなおかしな世の中になったが、若者にいうよりもまず年寄りが立ち上がらないといけないし、日本中が立ち上がらないといけない。いまの自民党政府も民主党も一つも変わらないし、共産党もおかしい。原爆のことは個人ではなにもできなかった。この原爆展は市内の全町内でやってほしい」といって家まで取りに帰ってカンパを寄せた。
 その後、「長崎の怒り」「沖縄戦の真実」パンフをもって近所の商店に売りに行き、「自分が被爆者だとはじめて話して冊子を買ってもらった。運動を広げるためにこれからも協力したい」と連絡先を記した。
 「当時は小学1年生だったが、いま改めて見ると許せない。祈りの長崎などとんでもない。みんな心の底では許せないと思っている」と語った60代の婦人は、「私は遺言で“戦争を二度とさせるな”といおうと思っている。全市民が戦争反対の声をあげればいい。いくら上の人たちが戦争をやろうとしても協力する人がいなければできない」とカンパを寄せ、市民原爆展の賛同人になった。


 「米国の奴隷にならぬ」と語る
 「家族8人も殺されているから他人事と思われん」と言葉が出ない様子でパネルを見つめていた年配婦人は、姉と4人の子どもが山里の家で、飯台を囲んで食事の支度をしているところを押しつぶされてそのまま焼かれたこと、大村にいた兄が探しにいって遺体を見つけ、木切れを集めて燃え残りを焼いて持って帰ってきたことを話し、涙で言葉を詰まらせた。
 「兄にだけ苦労させてしまったが、恩返しもできぬまま放射能で死んでしまった。原爆のことは考えるなといわれるとなおさら悔しくて、涙が出てくる。いままで原爆のことをみんな隠してきたから日本はアメリカのいいなりの国になっておかしくなった。これからはもっと本当のことをいわないといけない。アメリカが原爆を使ったのも、戦争を終わらせるためではなく自分たちのためだ。アメリカが全部捨てるべきじゃないですか。いままで原爆は避けてきたが、これを見ると気が引き締まる気がする」と胸の内を語った。
 戦後、三菱に勤めてきた60代の男性は、「三菱は輸送船に乗せて戦地に食料を運んでいたが、途中で沈められると分かっていたので缶詰の中には砂を入れて運ばせていた。多くの国民が殺されるなかで三菱、三井などの財閥はそうやって戦争で儲けていた」と強調した。
 さらに、「日本はアメリカの属国、奴隷になっている。もう少しでこのままいくとアメリカの新しい一州になるのではないか。自分はアメリカには虫唾が走る。原爆も実験だったが、勝てば官軍、負ければ賊軍でアメリカが日本を植民地のようにしている。ベトナムもイラクも同じ目にあっている。日本には米軍のグアム移転やイラク戦費まで出させているが、これからは、アメリカに物を言う人間を立てないとだめだ。白は白、黒は黒ときっぱり言わないといけない。アメリカに仕組まれたことを何年かかっても立て直さないといけない。実際の歴史を良く学んで伝えてくれ」と強い期待を語っていった。

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