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長崎の心に響いた真実の劇
原爆展物語長崎公演
               熱気が溢れた客席    2010年4月14日付

 劇団はぐるま座の現代劇『峠三吉・原爆展物語』長崎公演(主催/長崎公演実行委員会)が11日、長崎市公会堂でおこなわれた。昼夜2回で約600人の観衆が詰めかける大盛況となり、会場は深い感動の熱気に包まれた。原爆詩人・峠三吉の詩をベースにした原爆展を全国で開催し、戦後長く欺瞞のベールに覆われてきた広島・長崎・沖縄・戦地の真実を浮き彫りにしてきた運動の記録を叙事詩的に綴った同劇は、被爆地・長崎市民の歴史的な経験と響き合い、舞台と客席とが一体となって平和と独立の日本社会の展望を共有する感動的な公演となった。【関連記事二面】
 同公演は、長崎西洋館での原爆と戦争展を主催してきた『原爆と峠三吉の詩』原爆展を成功させる長崎の会(永田良幸会長)をはじめ、市内各地の自治会長や商店主、社会福祉協議会、歴史文化協会、たばこ販売連合会、小売酒販組合、学童保育、少林寺拳法協会、剣志会などの市民を中心に約70人で構成する実行委員会によって取り組まれ、幅広い市民の協力と期待を集めた。
 公会堂入口では、開場二時間前から列がつくられ、知人や家族で連れ立ってくる年配者や親子づれ、主婦、会社員、教師、大学生、小・中学生、僧侶など老若男女、多様な人人が客席を埋めた。
 上演に先立って、実行委員会を代表して原爆展を成功させる長崎の会の永田会長(夜の部)、吉山昭子副会長(昼の部)があいさつ。
 永田氏は、「この劇は真の被爆者の声を描いている。私は12歳のときに城山で両親を含めて6人が犠牲になり、兄姉2人はいまだに行方不明だ。広島でも長崎でも警戒警報が解除され、学徒動員の生徒たちは職場に戻り、市民を“おいで、おいで”と寄せ集めて原爆が落とされた。終戦直前にしかも、広島はウラン型、長崎はプルトニューム型という2種類を使った人体実験だった。母は顔が溶けて全身ボロボロになり、小さい子どもを残して44歳で亡くなった。戦後は子どもだけで幼い兄弟たちを育ててきた。だが60年たった今は親殺し、子殺しが頻発し、政治家は利権目当てで自分のことしか考えない社会になっている。なぜこんな狂った日本になったのか。“核兵器削減”というぬか喜びのお祭り騒ぎでは原爆も戦争もなくすことはできない。私は今でも戦争とアメリカを憎み、家族の仇を取りたいという気持ちがある。日本の将来を政治家に任せるわけにはいかない。どうすれば幸せな日本をつくれるか、みなさんで力を合わせていきたい」と訴えた。
 吉山氏は、高等女学校2年生(16歳)で被爆し、多くの級友を亡くしたことを語り、「この劇の初演を下関で見て非常に感動して涙が止まらなかった。長崎でも体験のない若い人たちや親子に一生懸命観劇を勧めてきたが、ぜひこの公演を機に原爆、戦争について家族や学校で語り合い、徹底して教育していただきたいと思う。私たちは原爆によって人生を通じてつらい経験をしてきたが、この劇で戦争はしてはいけない、平和でなければダメだという思いを知ってもらいたい」と語り、6月末から西洋館でおこなわれる第6回長崎「原爆と戦争展」への参加を呼びかけた。
 舞台の幕が開くと、客席は静まりかえって舞台上で繰り広げられるドラマに集中した。真剣な表情で身を乗り出して見入る年配者や、集団で訪れた小学生たちも身じろぎもせず真剣な眼差しを注いだ。
 「平和」や「原爆」を利用する勢力に対する警戒心から、はじめは原爆展に近づかなかった広島や長崎の市民たちが、峠三吉の詩や「沖縄戦せずとも戦争は終わっていた」というパネルに触れて次第に原爆投下への怒りや、アメリカによる無差別殺戮の実態を語りはじめる場面、特攻隊や戦地体験者が「あの戦争はおかしな戦争だった」「わざわざ死ぬために連れて行かれたようなもの」と語り出し、各地での戦地体験とともに「負けるとわかっている戦争をやめずに若者をたくさん殺すに任せたのは、国民をへとへとに疲れさせ、天皇や財閥が米英に協力して自分の地位を守るためだった」「あの連中が進んで手助けして国を売り飛ばしてきたから日本はこんなにデタラメになったんだ」「このままではもういっぺんアメリカの為にひどい目にあう。これまで戦争犯罪人といわれて真実が語れなかった。しかし、もう語らなければ、私たちには時間がない」と重厚な思いを語る場面など、体験者の多い客席は息をのむような切迫感が張りつめた。
 中央橋での街頭原爆展ではじまる長崎場面では、はじめは人が寄りつかずに素通りしていくが、戦後の占領政策によって煽られた「祈りの長崎」は虚構であり、峠三吉に代表される被爆市民の怒りを伝えるなかで長崎市民からは激しい体験と本音が語られる。被爆を理由に結婚を断られ、職場でも差別を受けて自殺を試みたが、看病してくれた母や亡くなった友人たちのために困難に立ち向かって生きてきた誇りを語る婦人被爆者や、「原爆で殺された母の仇を討ちたい」と積年の思いを語る被爆者の姿に、客席からは涙をすする音や、瞼を押さえて深くうなずく姿が見られた。
 また、東本願寺教務所に市民の手で集められた2万体の被爆遺骨が眠っている事実が隠されてきたこと、進駐軍がその寺を遺骨ごと移転させて26聖人の碑が建てられ、その年に明治維新で活躍した長崎振遠隊の忠魂碑まで取り壊された事実が明らかになり、「知らない間に大きな政治が動いて、長崎にウソがはびこってきた」「だからこそ私らが真実を語っていかなければ」と語り合われる場面では、客席は一段と集中し、身を乗り出さんばかりに聞き入る姿も見られた。「長崎の町衆の結束は強かよ!」「中国と国交断絶した政府に逆らって東海黄海の日中友好漁業で町を支えてきた」「おくんちも370年やってきたけど、外国の植民地にしてはいけん、長崎の歴史と文化を守るために続けてきたんですよ。この長崎の本当の姿を全国に伝えてくれんね!」と語られると、親しみを込めた笑い声が起こり、舞台は客席との一体感に包まれていった。
 また、広島平和公園での原爆展を参観した外国人アンケートが読みあげられ、「原爆といえばパールハーバーだ、南京虐殺だと世界中がいっているというのは大インチキでした。原爆投下者の犯罪を真正面から明らかにしたら、世界中が団結することを証明しました」と締めくくられると、ひときわ大きな拍手がわき起こった。
 スタッフたちが原爆展運動10年を振り返るエピローグ場面では、「伊藤市長が銃殺されたときは緊張したが、その直後、“原爆はしょうがない”といった大臣が地元の長崎から反発を受けてすぐ首になった」というセリフには客席からドッと笑い声と拍手が沸き、「大衆の力はすごい」「戦争体験者たちは生きるか死ぬかというところで現在のことを考えている。自分たちは平和ボケなんだ。抜き差しならないところでたたかいぬく覚悟がいる」「10年たったら様変わりになった。あと10年がんばったら日本は相当に変わる」と語り合う場面で「そうだ!」とかけ声がかかるなど、終幕に向けて客席との一体感は高揚し、幕が下りると会場は力強い拍手に包まれた。
 会場出口での見送りでは、俳優たちの手を握って離さない年配者や、「がんばってくれ!」「応援してます」「地元で待っているから公演してほしい」と笑顔で激励していく人、自分の体験談を語りはじめる年配者など熱い交流がつづいた。
 昼夜2回の終演後、ロビーでおこなわれた合評会では、俳優たちを囲んで冷めやらぬ感動が語り合われた。
 夫婦で訪れた被爆婦人は、「私も原爆で親兄弟が白骨になり、その当時のことを思い出して余計に身近に感じる劇だった。私たちも知らなかった東本願寺教務所に眠る2万体の遺骨のことを劇で取り上げてもらったことは意義深いものがあった」と感謝をのべた。
 海軍航空隊の整備員だった男性は、インドネシアのセレベス島で多くの搭乗兵たちが出撃したまま帰ってこず、かろうじて生還した搭乗兵も血まみれで、野戦病院で「父さん、母さん、不幸をお許しください」といって死んでいった経験を語り、「一五歳から飛行機に乗り、やっと一人前になったところで死ぬために出撃させられた。そうやって亡くなった320万もの犠牲の上に今がある。戦争は絶対にしてはいけないことを、生き残った者として伝えていきたい」と決意をのべた。
 諫早市からきた母親は、昨年、長崎市内の実家に帰ったときに若者に声をかけられて西洋館の「原爆と戦争展」に行ったことを明かし、「その時の情景が目に浮かんでくる劇だった。友人が“母から被爆者であることを語ると嫁にも行けず、子どもにも縁談がこないから絶対に口にするなといわれてずっと黙ってきた”と最近になって胎内被爆者であることを話してくれた。この劇は他人事ではない。自分が実際に直面している現実に向き合わされる劇だった。諫早では絶対にたくさんの人に見せたい」と高揚した思いをのべた。
 学童保育職員の女性は、「誠実さとしたたかさをもった劇だと感じた。この誠実さには誠実さをもって応えたい。ぜひ諫早で実行委員会をさせてほしい」と感動の面もちで協力を申し出た。
 別の学童保育の男性は、「子どもたちが熱心に聞いている姿が印象的だった。原爆展のバックにある“平和な未来のために子どもたちに語り継ぐ”というスローガン通りの芝居だった。実際に原爆展をやりながら、広島、長崎、沖縄をはじめ真実の声を集めたすばらしい作品だった」とのべた。
 20代の会社員男性は、「祖父母が被爆者だが今まで話を聞くことも少なく、知らないことばかりで申し訳ない気持ちで一杯だ。日本兵が後戻りのできない戦場に送られて、玉砕を命じられ、銃剣をもって突撃していくシーンでは、自分に置き換えたときの絶望感に押し潰されそうだった。だからこそ体験者の怒りの言葉一つ一つが本音であり、真実だと思った。自分にできることは何かを考えざるを得ない。次世代のために平和のメッセージを伝えていきたい」と衝撃を込めて決意をのべた。
 男子学生は、「本当に目からウロコの落ちる事ばかりだった。学んだことをこれからの人生の糧にして伝えていきたい」とのべ、西洋館でおこなわれる原爆と戦争展のスタッフとして参加することを申し出た。
 実行委員として関わってきた婦人被爆者は、母親が上銭座町の防空壕でてのひらだけ残して全身のヤケドで苦しんだあげく、45歳の若さで亡くなったことを明かし、「最後にいった言葉は“こん畜生、アメリカを恨んでやるぞ!”だった。私は親に何一つ孝行することができず悔しい思いを抱いてきたが、これだけ力強い平和運動に巡り会えたことで、本当の親孝行になり、母もあの世で喜んでくれていると思う。私も平和運動の一員としてこの様な苦しみが二度とないようにがんばりたい」と感極まった思いをのべた。厳粛な決意に参加者から強い共感の拍手が送られた。
 知人と連れ立って観劇した50代の男性は、「知人に誘われて来たが、涙をこらえながら見た。私たちは子どもの頃からコンバットなどアメリカ製の戦争マンガやTVで育ち“戦争はかっこいい”とあこがれを抱いてきた世代だが、被爆した母が亡くなってはじめて戦争の深刻さを考えはじめた。あれだけの犠牲の代償である今日の日本がこの有様でいいのかと思う。人と人のつながりが希薄になり、利便性だけのコンピューターなどでしか人間関係がつくれない人が増えているが、改めて人間同士の関係の大切さも教えてもらった。同じ使命感をもって、これからも応援していきたい」と感動を語った。
 平戸から駆けつけた建設業の男性は、「原爆のとき、学徒動員で被爆した姉が三日間かけて裸足で歩いて平戸まで帰ってきた。玄関で出迎えた母が名前を呼ぶと姉は泣き崩れて、激しく泣いていたことを思い出した。だが、姉は腹水で苦しみもだえて亡くなり、残された子どもも若くして乳ガンや脊髄の病気にかかった。だから原爆の憎しみは、いつも胸の奥でたぎっている。姉は最後に私の手を握り“絶対に戦争はしてはならんよ…”といって死んでいった。このような被害を残すことは絶対に許してはならない」と唇を震わせて語り、「今日は来た甲斐があった。平戸の人たちにも伝えたい!」と力強く結んだ。
 最後に、永田会長が「戦後はアメリカにゴマをする政治家ばかりになり、言論の自由というが教育現場は崩壊し、人の死について向き合うことがないロボットのような人間づくりがされている。殺された人たちの仇を取るくらいの大和魂が今こそ必要だと思う。日本を合衆国日本村にさせないため、この芝居を続けて政治を変えなければいけない。劇団の人たちには、被爆者本人になったつもりでがんばっていただきたい」と激励の気持ちをのべた。
 はぐるま座から、「この劇は台本作成、現地稽古から長崎の人人とともにつくってきた劇だ。それは自己表現をするのか、多くの人人の思いを代弁するのかという劇団の在り方を根本から問われる過程でもあった。しかし、リアリズムを追求する演劇人として真理真実を何はばかることなく描き、独立と平和の日本社会をみなさんと一緒につくりあげる使命を果たしていきたい」と、長崎県内をはじめ全国各地で公演していく決意をのべると大きな拍手が送られた。
 この『原爆展物語』は今月24日(土)、広島市西区民文化センター(横川駅前)で昼夜2回公演される。

 

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