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長崎の底力が動き始めた
長崎「原爆と戦争展」
              2500人が参観 376人が賛同   2007年6月18日付

 長崎「原爆と戦争展」、 「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、平和な未来のために語り継ぐ」をスローガンに、長崎西洋館で今月10日からおこなわれてきた、長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)は17日、最高潮の盛り上がりのなかで閉幕した。8日間の会期で2500人が参観に訪れ、被爆者をはじめ、戦争体験者が力強く発言し、それにふれた若い世代が衝撃的な感動を受け、376人の市民が運動への賛同者となった。それは、憲法改定や在日米軍再編など新たな戦争へ向かうきな臭い動きが加速するなか、原爆と戦争をくぐった長崎市民が1つとなって、「戦争を2度と許さぬ」「原爆を2度と使わせぬ」という頑強な被爆地の意志を全国に示すものとなった。

 戦争させぬ頑強な意志示す
 今回の「原爆と戦争展」は、伊藤前市長が銃殺されるという民主主義封じ込めの逆風のなかで、目覚ましい市民の行動意欲をともないながら開幕した。第2次大戦と原爆投下、占領と戦後社会までを描いたパネルに触発されるように、体験者たちが堰(せき)を切ったようにその思いを語った。
 死線をくぐって生き残った戦地体験者、特攻隊員たちからは積年の思いがあふれるように語られ、これまで被爆地を覆ってきた「沈黙と祈り」のベールを突き破って被爆者の激しい怒りも噴出した。これまで切り離されてきた被爆と戦地体験者の交流が会場いっぱいに広がり、無惨に殺されていった親兄弟や戦友たちへの尽きぬ思いとともに、「負けることのわかっていた戦争で、なぜ320万もの人人が死なねばならなかったのか」「沈黙を破って戦争と原爆の真実を語り継ごう」という共通の使命で絆が深まった。
 最終日までの3日間は、親子連れや学生など若い世代の来場が目立った。とくに、市内での反響をものがたるように、友人知人や家族が連れ立って訪れる市民も多く、会場では体験者同士、また世代を超えて体験を語り継ぐ熱気にあふれた。
 兵隊として長崎市内で被爆した80代の男性は、金比羅山の向こうから原爆投下の瞬間を目の当たりにしたことを語り、「地上500bというのは米軍の情報で、実際にはもっと高かった。そのことを市にいっても認められなかった。資料館も米軍の側からで、生き残りはたくさんいるのに米軍情報が重んじられてきた。だから日本の歴史はウソばかりだ。本当のことを抑えつけてなにが民主主義の世の中か」と怒りをにじませた。
 兄がビルマで、2人の従兄がシンガポールで戦死し骨も帰らなかった。「母は戦死の公報を受け、“あの子はもう2度と帰ってこん…”と泣き崩れた。こんな戦争のためになにが喜んで死ににいくもんですか。全部国の命令ですよ!」と声を荒らげ、「当時、日本軍は300万という兵隊がいたにも関わらず、本土は壊滅した。今戦争になれば自衛隊だけではどうにもならない。また徴兵制が敷かれるのは目に見えている。アメリカは、中国を植民地にしたいために日本を基地に戦争をしようとしている。絶対にこれに巻き込まれてはいけない」と語った。
 近くにいた南方戦線の80代の体験者も、「私も国のためと騙されて戦地に六年行ってきた。あれはまともな戦争ではなかった。最後は、45歳までの中年や目が見えない乙種ものまで予備役で召集され、妻子を残して死んでいった。私は、復員後、国から慰労の銀杯をもらったが即刻捨てた。戦没者のことを思えば腹が立ちますよ」と話に加わった。
 「国民が総立ちして、この戦争のことを考えないといけない。体験者を多く募って、若い者に継いでいかんといけん」「今、北朝鮮の拉致を騒いでいるが、騒いでいる政治家連中の親父たちが戦争中に朝鮮人をたくさん拉致した前科者ばかり。拉致を決着させたいのなら、政治家が自分たちから償いをするべきじゃないか」「真実を伝えて、アメリカに騙されないようにしないと日本の将来はない」と切実な思いを交わし合った。
 「父がビルマのインパールで亡くなった。このチラシにひかれてきた」という60代の男性は、「父の顔は知らないが、ビルマに慰霊巡拝に行ったとき、父の白木の箱は空っぽだったと生き残りの人から聞いた。食物も武器もなく、シッタン河でたくさんの兵隊が流されたり、動けなくなった兵隊が次次と死んだ白骨街道があった。一銭五厘の赤切符で殺された父に代わって私は語り継いでいきたい。人の命が軽んじられているからこそ、戦争の真実を伝えたい」とかみしめるように話した。

 衝撃語る若い世代 戦争と原爆つながった
 「いかに本当のことが教えられていないかと感じた」という30代の婦人は、「戦前、貧乏で娘を売るという状況だったことなど教科書には出てこない。新天地を求めて満州に行ったり、戦場に送り出したのも、結局、貧しいものが戦争の犠牲になったのだと思う。戦後も神社で軍服を着た傷痍軍人が物乞いをしていて、戦争は終わっていないと思った。今の社会の動きを見ていると、戦後ではなくまた戦前になっている。でも、大方の人が平和ボケで危機感がない。だからこそこういう展示をやって、体験した人には今のうちに語り継いでほしい。今日は、子どもを連れた若い人がたくさん来て熱心に見ているのが嬉しい」と語った。
 40代の大学教授は、「戦争と原爆が繋がった展示は初めて見た。私の父は被爆者で、母は引き揚げ者だが今まで体験を聞いてこなかった。親たちの思いがわかったような気がする。現代がなぜこんな社会になったのか、その鍵が見えた」と語り、「マスコミが真実を伝えなくなった経過や、働いても家族を養えないことなど戦前と今とがダブってくる。マスコミやデマにごまかされず、国民1人1人が真実を見極めて、強い意志で行動するためには教育の役割は重要だと思う」と語り、今後、学校内でも地域の人の体験を学ぶ場を持ちたいと連絡先を記していった。

 市民の底力に確信 熱気の中で閉幕式・運動に強い期待
 長崎の会の被爆者、戦地体験者たちが若い人たちに体験を語り聞かせるなど熱気冷めやらぬなか、午後5時からは閉会式が開かれた。
 始めにあいさつした原爆展を成功させる長崎の会の永田良幸代表は、主催した三団体や支援者への感謝をのべ、「原爆展をはじめて3年目にして、これだけたくさんの人たちに来ていただき、また、被爆者だけでなく戦争体験者の方方にも真剣に話をしてもらえたことは本当にありがたいと思う。これからもよろしくお願いしたい」と感無量の思いを語った。
 つづいて、共催する原爆展を成功させる広島の会(重力敬三会長)、下関原爆被害者の会(伊東秀夫会長)からのメッセージが紹介された。
 広島の会からは、今回の戦争展をへて「長崎の会」が本格的に活動をはじめることへの期待とともに、「今、アメリカの指図で、憲法まで改定し、戦争のできる国にしようとしている日本の現状を考えたとき、私たち体験者の活動は非常に重要な役割がある」こと、「私たちの体験は62年前の昔話ではなく、まさに現代の問題であり、これからの日本の将来を担う子ども、若者たちに自分のこととして考えてもらうため、共に手を携えて、全国的な平和運動になるようがんばりましょう」と被爆地としての固い絆を強調した。
 下関からは、戦争展の大成功を喜び、「交流会では被爆者、戦争体験者の方方の生生しい話を聞き、あらためて原爆投下者に対する怒りの思いがこみ上げてきた」こと、この思いを1つに束ねて長崎から平和運動が大きく発展していくことへの期待と下関の地での奮斗を誓った。
 つづいて、下関原爆展事務局の松友洋子氏から概況が報告された。
 報告では、被爆地をはじめ各地の体験者、空襲、引揚げ体験者、遺族や遺児などの第2次大戦の体験者、また、小学生から大学生、現役世代など、若い世代の参観が目立ったことを強調し、特徴として「戦争の真実について次次と浮き彫りになるなかで、現代の戦争をどうすれば止めることができるか」という論議が発展し、「“加害、被害”といってこれまで分断されてきた被爆者、戦争体験者の共通の思いが深く結びついた」とのべた。教育の荒廃のなかで、形骸化した平和教育ではなく、「体験者の思いを受け継いで平和の担い手を育てよう」と願う教育関係者の真剣さと、行動を求める若い世代の意欲が際だったことも報告した。
 また、「伊藤市長銃殺という真実を語ることを封じ込めるきな臭い戦争情勢のなかで、市民が一致して真実を語り継ごうという機運が高まり、準備や会期中の運営など長崎市民の積極的で献身的な行動が支えた。長崎の会をはじめ、この原爆と戦争展の成功を基盤に、戦争をおしとどめ平和な未来のために、若い世代に真実を語り継ぐ運動を今後も長崎の地で広げていきましょう」と締めくくった。

 感情高ぶらせて運動継続誓う長崎市民
 運営に携わった市民からも相次いで感想が語られた。
 毎日、会場につめて受付や案内を担った男性被爆者は、「一緒に8日間やってきたが、長崎でたくさんの若い人が目を向けてくれたことが本当にありがたい」と感動の面持ちで語り、下関のスタッフの献身的なバックアップへの感謝とともに「これに応えて、これからは長崎の会もしっかり体制を整えて望みたい。長崎での運動を盛り上げていくためにみなさんの協力をお願いします!」と感情を高ぶらせてのべた。集まった市民からは強い共感の拍手が送られた。
 宣伝活動や参観者に体験を語り継いできた70代の被爆婦人は、「私は長崎で原爆にあいながら、他県の下関の人たちが懸命にやっておられるのを知り穴に入りたい思いだった」とのべ、「来年からは、私たち市民がローテーションを組んでやりたいと思いますのでみなさん協力をお願いしたい」と呼びかけた。
 何度も会場に足を運んで体験を語った83歳の戦争体験者の男性は、「私は初めてこのような展示を見て、あぁ平和のためにやらねばならんと心から思った。みなさんのご努力に本当に感謝したい」と感慨深くのべ、「自分は16歳から南方に行き、こうして元気で帰ってきたが、多くの同級生が17、8歳で死んだ。今考えても悔しくてたまらない。軍閥に先見の明があれば、特攻をしてまで殺さずにすんだ。大元帥の天皇陛下にも責任がある。あちこちで玉砕、玉砕で、戦争できないのにやれやれといい、国民をバカにしていると思う。もっと早く降伏していれば沖縄、広島、長崎もなかった。それを思うと本当に憎い」と尽きぬ思いを語った。
 最後に、「こうした催しをもっとしていただきたい。日本国民がもり立てて、原爆などつくらぬようにしろといわないといけない。地球がある限り平和でいきましょう!」と力強く呼びかけると会場いっぱいに大きな拍手が鳴り響いた。
 参加した市民たちは、「原爆と戦争展」の反響の大きさを確信し合いながら、被爆市民による運動の継続を誓い合い、名残を惜しむように散会した。

 長崎・広島・下関が交流 被爆者と戦地体験者も結ぶ・語る使命で固い絆
 長崎「原爆と戦争展」最終日の17日午後1時から、長崎・広島・下関との交流会がもたれた。語り始めた長崎の被爆者や戦地体験者、広島・下関の被爆者など25人が参加した。
 始めに原爆展を成功させる会代表の永田良幸氏があいさつ。12歳で被爆し、両親を亡くした永田氏は、原爆展キャラバン隊に出会い、参加するようになったこと、一昨年広島に行って初めて体験を語ったことを語り、「今回の原爆と戦争展は下関、広島と一緒に主催して、立派に開催することができた。子どもたちに生の声をしっかり教えていきたいと思っている」と語り、今回の原爆展でこれまでより多くの賛同・協力者が出てきたことへの喜びを語った。
 続いて、広島の会の高橋匡氏は、広島での原爆展運動の発展を紹介。今年は呉や市内で2カ所、大学などでも原爆展が広がっていること、修学旅行生や学校へ積極的に被爆体験を語りに出むくなかで、申し込みも増え、広がっていることを語った。また被爆者の思いを若い世代や現役世代に語り継ぐために交流会を定期的に持っていることなどを紹介し「われわれにとって残り少ない時間だが、できるだけたくさんの方に体験を聞いていただき、影響を広げていきたい」と語った。
 下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長は、長崎「原爆と戦争展」が大成功したことへの喜びを語り、「下関の会も再建される13年前まではみなさんと同じで、原爆で肉親を失った悲しみと、原爆投下者にたいする怒り、原爆症や結婚できないということをかかえながら、悶悶とした思いをかかえてきた」こと、生き残った者として、再び核戦争を起こさせてはいけないという思いで、子どもたちに語り継ぐ運動を始めたことにふれ、「最初は緊張で足が震える思いだったが、子どもは真剣に聞いてくれ、勇気をもらって一歩を踏み出した」と経験を語った。そして「被爆者、戦争体験者が団結して、本当に戦争を阻止するためにいろいろな催しや活動をしていきたい」とのべた。
 その後自己紹介をへて、今年初めて下関からの修学旅行生に被爆体験を語った長崎の被爆者から、感想や思いがのべられた。
 16歳で学徒報国隊として軍需工場で働き、同級生700人を亡くした婦人は、「前に座っていた子が涙を流して一生懸命聞いて、“おばちゃん長生きしてね”といってくれたときは、私も胸を打つ思いだった」と感動を語った。

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