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長崎市民原爆展へ全市的期待
                市内6万戸にチラシ宣伝       2006年5月1日付
 
 「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展まで残すところあと1週間となった。原爆展のチラシ4万枚が公立・私立小中高校に配布され、毎週土、日曜を使った宣伝活動ではチラシ6万枚と昨年の原爆展で聞いた長崎市民の被爆体験を掲載した号外5万枚が配布され、ポスター1500枚が掲示された。賛同者は4月30日現在160人をこえている。

  各地で思い語る被爆者の姿
 宣伝のなかでは「学校から子どもが持って帰った」「キャラバン隊の展示を見せてもらった」「今年は行かせてもらうから」とあちらこちらで声がかかる姿が見られた。「長崎の本当の声を若い世代、全国に伝えよう」という市民原爆展へ期待が強まっている。また多くの体験者からアメリカのいいなりになっている日本政府への怒りが語られた。
 28、29、30日の3日間には最後の宣伝活動がおこなわれた。丸山町、中小島、大浦、出島、新地、女の都などの地域を重点に宣伝をおこなったほか、すでにチラシを配布した住吉町周辺では市民の被爆体験や思いを聞いて回った。
 「いつも近くにキャラバン隊が来たときには見に行く」と語る住吉町の商店主は、「さまざまな市民の体験を束ねて一つの方向に訴えていくことは大事なことだ」といった。店にも被爆者が訪れ、体験を話すが、これまで話したことがない人が多いという。「浦上は、幕府の政策でキリスト教と被差別部落が隣り合わせに置かれ、お互いに差別しあってきた地域だ。原爆のあと被差別部落は町名さえなくされ、存在が消された。そこに住んでいた人は“キリシタンは自分の町が残っているからいいではないか”といっている。長崎は永井さんをわざと持ち上げてきたが、それが最近になってやっと発言できるようになった」と語り、原爆展の広がりに共感を示した。
 同じく住吉町で喫茶店を営む六八歳の男性は、「今の日本はアメリカの影響を受けて自己中心の社会になっている。グローバル化で中小企業はつぶされている」と憤りをこめて語った。戦後疎開先から長崎に帰ってきて、初めて行ったミサで、牧師に「神は浦上の人を愛するが故に原爆を投下したのだ」といわれたのが納得がいかず、ずっと考えていたという。「日本はB29に竹槍で向かっていた。敗戦ははっきりしていたのに原爆を落とした賠償責任をアメリカに求めないといけない」と語り、事務局のメンバーに握手を求めた。
 私設図書館を営む70代の婦人は、初めて峠三吉の詩を読んだときの衝撃が忘れられないと語った。「怒りの長崎」のパンフを見て、「長崎でも原爆の詩を書いた詩人がいたが、すごい弾圧を受けた。永井隆は理系の医者に珍しく文章がうまく、あることないことを書いてGHQに持ち上げられたんだ」と怒りを語った。「元看護婦だったので永井が戦前はすごい軍国主義者で看護婦にたいしひどい仕打ちをしていたことを知っているが、戦後あたかも革新のような顔をしていることが許せない」と語り、原爆展パネル冊子を買い求めた。
 相生町のある寺には荼毘に付された遺骨3万体が運びこまれ、積み上げられたという。寺の床がぬけそうになったので市にかけ合ったが引き取ってもらえず、今は東本願寺に埋葬されている。現在の住職の母親がその遺骨を守ってきたという。住職の夫人は、こころよく賛同人に名前をつらね、多額のカンパを寄せた。
 中新町に住む84歳の男性は、「兵隊で南方に行っていたが、戦後何の補償もなく必死に働いてきた。焼け跡から復興させ、税金もきちんと払ってきた年寄りに死ねというようなことしかしない」と憤りを語った。「アメリカにはグアム移転の費用まで出しているが、まず今まで犠牲になってきた沖縄の人たちの生活の補償をすべきだ」と語り賛同者になった。
 稲田町で原爆を投下するB29を見ていたという70代婦人は、「米軍機は投下後も何時間か偵察しているようだった。市内で被爆した近所の人は無傷で帰ってきたが、1カ月たたないうちに下痢をして亡くなった」と語った。そして「今アメリカなどいろんな国が核兵器を持って、条約を結んだだの結ばないだの言っているが、あれはだましあいだ。いつ戦争が起こるかわからないが、日本は今の原爆1、2発でなくなってしまう。アメリカが日本を金の出所と思ってたかっているのがはがゆい」と語った。

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