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長崎市民原爆展が開幕
                激しく語り合う市民の姿      2006年5月8日付
 
 下関原爆展事務局(下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)、原爆展を成功させる長崎の会が主催する「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展が6日、長崎西洋館で開幕した。昨年初めて長崎で展示された、峠三吉の原爆展は、長崎市民のなかで、安心して体験を語れる場として信頼が広がっており、「去年も見ました」「去年は来れなかったので、今年は兄弟を誘ってきました」といって、最後まで熱心に展示を見ていく市民や、パネルの前でお互いに体験を語りあう姿がめだった。1カ月に渡って、キャラバン隊が市内各地で開催した街頭原爆展を見た市民も、家族や友人と連れだって、会場を訪れ、入場者は2日間で500人をこえた。

 市民提供の資料も展示 若い世代も強い関心
 今年は、「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる長崎の会が主催者として加わり、長崎市民の運動としてとりくまれた。市民からの資料提供があいつぎ、会場に展示されている。また会場の設営、準備から賛同者が参加、会場につめて参観者に体験を語っている。米軍基地再編問題など現状と合わせ、活発な論議が広がっている。
 賛同者の1人の婦人は、「三菱兵器で被爆して、大変だったが、これまでは運命だったと思って終わらせてきた。だが、去年広島に行って、私たちが2度と使わせないようにしないといけないということがわかって、心が燃えてきた」と、参観者の男性に語りかけた。男性も「父が原爆症で髪の毛や歯が抜けて死に、いとこも精神病になって死んだ。東条英機は裁かれたが、アメリカは裁かれていない。ベトナムでも大量殺人している。日本も米軍再編に三兆円出すといっているが、日本人もがんばらないといけない」と語りあっていた。
 また70代の賛同者の男性は、福岡から来た20代の2人の女性に体験を語った。「船の上でB29が飛んでいるのを眺めていると、パラシュートを落として稲佐山方面に消えたと思った瞬間、右から閃光を浴び、爆風でそのまま海に突き落とされた。右目はいまは失明して見えない。そのときすりむいた左頬は皮膚ガンになった」と語った。その後の救護作業で、鉄骨の下敷きになった人を助けられずに水をくんで供えていく人や電車通り沿いに、真っ黒焦げの電車の中でたくさんの人が死んでいたのを見たという。「口で言い表せないくらい悲惨な光景だった」と語り、「だから原爆を落とされないような国をつくる工夫を若い人にしてほしい。岩国や沖縄が一番気の毒だが、米軍基地が移転するのに日本が全部お金を出すといっている。あれは全部私たちが働いて払ったお金だ。日本は戦争に負けたけどアメリカの奴隷になってはいない。若い人ががんばってほしい」と熱をこめて語った。
 絵を提供した80代の婦人は、妹とともに会場を訪れ、絵の前で下関から来た高校生たちに、17歳のとき三菱製鋼所で被爆した体験を語った。窓際の陰にいたために助かったが、学徒動員で来ていた瓊浦中学校の生徒たちが「水をちょうだい」「お姉ちゃん助けて」といってまわりで死んでいったという。父と母、妹がリヤカーを引いて捜しに来てくれ、家に帰った。原爆症でたくさんの人が亡くなったが、両親が昆布やするめなど、いいといわれるものをたくさん飲ませ、黄色い物を吐いて助かった。
 しかし、10年間は足が立たず、お尻で床を這う生活だった。「はずかしくていわなかったが、私には青春はなかった。縁談もなかったし、原爆が人生の出発点だ。何度も死のうと思って日見トンネルをぬけて海岸まで行ったが、生きさせてもらったのだからがんばらないといけないと思って仕事一筋で生きてきた」と語った。そして「山口から来てくれているのだから原爆を受けている長崎の者がなにもしないのはいけないと思った」と語り、下関の被爆者との交流会に参加することを約束して帰った。
 当時小学2年生で、諫早に疎開していた男性は、父が被爆し、防空壕の奥にいたために助かったが、髪の毛がボロボロぬけて、廃人のようになって死んだことを語った。父は三菱の技師だったが、働けなくなり、調子のいいときに職安に行って働く毎日だったという。「何度もキャラバン隊の横を通ったが、いつも涙が出て最後まで見れなかった。これは後世の為にぜひ続けてください」と語った。
 81歳の婦人は、市外に住む2人の妹を誘って会場を訪れた。チラシを配りに来た原爆展事務局のメンバーに数枚チラシを預かり、姉妹や知り合いに配ったという。「去年は行けなかったので今年は誘ってきました」と一枚一枚丁寧にパネルを見た。自身は当時軍属として上海に行っており、帰ってみると焼け野原で家もなくなっていたという。「将校相手に仕事をしていたから、日本がもう負けるという話は聞いていた。それなのに若い人たちが南方や戦地に連れて行かれて殺された」と怒りをこめて語った。そして「こういう展示をしてもらうことに感謝する。若い人に伝えていかないといけない」と語り、「つぎもまた来ます」といった。

 13、14日には交流会を予定 広島・下関の被爆者と
 13日午後2時からは下関の被爆者との交流会、14日午後2時からは広島の被爆者との交流会も予定されている。



   長崎市民原爆展参観者の声   ほとばしる長崎の怒り
 
▼70代・男性(賛同者)
 わたしは16歳で母を亡くし、出征して21歳のときに父が亡くなり、13人兄弟の長男として家族を支えてきた。地域の人たちの支えがあって生きてこれたと思う。
 長崎は「祈りの長崎」にしてしまって被爆遺構は本島市長のときにほとんどつぶしてしまった。広島のように何百年でも語り継ごうという意気込みが感じられない。電鉄にしても被爆電車の一つくらい残してほしかった。わたしは救護作業で電車通り沿いを歩いたが、真っ黒焦げの電車の中でたくさんの人が死んでいたのを10車両は見ている。茂里町の製鋼所では、鉄骨の下敷きになった人を助けられずに水をくんで供えていく人もいた。そういう残骸を少しでも人目に触れるところに残すべきだったと思う。資料館も地下の薄暗い場所に押し込めてしまって、長崎にきた人は「どこに原爆がおちたのだろうか」といっているくらい目立たない。原爆でやられたことを隠して、「祈り」にしてしまっている。
 先日、拉致被害の家族がブッシュ大統領に面会していたが、拉致被害どころかアメリカの原爆では数十万人が殺されている。しかも、いまだに何千発の核兵器をもって、イラクでもどこでも戦争をして人を殺しているのはアメリカだが、それに何を頼むというのかと思った。日本人はここまで愛国心というものを投げ捨ててしまったのだろうか。今回の在日米軍の再編で、中国や朝鮮半島は緊張して日本も巻き込まれている。アメリカは軍事力にものをいわせて世界中を思い通りにしようとしているが、最近はもういうことを聞くものが少なくなった。ローマ教皇が長崎にきて「戦争を起こせば血が出るからやめましょう」と説教したが、そのままアメリカにいっていうべきことだ。日本語より英語、日本人よりアメリカ人という風潮が強くなって殺伐とした事件が増えはじめた。子どもたちには日本人としての心を大切にしてほしい。

▼70歳・婦人
 知らないことが沢山あった。自分は養女として朝鮮に渡っていて九歳のとき終戦で引き揚げた。当時、家族は長崎市外におり、父は工業高校の教師で大村の航空廠に動員の学生らを連れて行き、原爆投下時がちょうど生徒たちが長崎市内に帰る頃だった。だから翌日入市している。それからは体調を崩し、昭和30年過ぎて原爆症と知らずに亡くなった。自分は高校卒業まで門司に住んでいたが、関門海峡もあんなに空襲されていたことは知らなかった。「日本を飢餓作戦にする」というのがあったが、自分の引き揚げた豊前でも、米軍のトラックからチョコレートをもらったりしていた。アメリカの食糧政策も歴史をみるとそのようになっている。いまだにそれが続けられているが、いまの世の中をみると恐ろしい。
 主人は同じく九歳で、田舎に疎開していたが、実家が今の賑町の公園辺りだったので母に連れられ翌日か翌々日に入市している。主人の姉が茂里町の三菱兵器に出ていて直爆を受け、父は在郷軍人で自宅におり下敷きになった。この歳になるまでほとんど知っていないし、被爆された方々もあまり語られない。永井先生の本を何度か読んだが、この展示とは向かう方向が違う。資料館もきれいになり、このパネルのような訴える力がない。観光通りのキャラバンを見て「沈黙を破る長崎の怒り」号外をじっくり読んで来た。

▼80代・男性
 昭和18年に召集を受けた。はじめは南方に行き終戦は台湾だった。18年の暮ぐらいまでは艦隊を組んでいってまだ何とかたどり着いたが、あとはどんどん沈められた。台湾でもアメリカは橋や道路を爆撃して輸送路を断ち、兵糧攻めにした。長崎に原爆が落ちたと聞いて、一家全滅かと思っていた。戦争が終わっても二年間くらい台湾に残っていたので家族と連絡もつかなかった。やっと長崎にたどり着いて両親の実家に連絡すると、疎開をしていて無事だった。どこにいてもあのころの人たちは苦労している。

  助けられなかった家族
▼74歳・婦人
 浦上駅前の目覚町に住んでいた。爆心地から1`も離れていない。父は三菱の兵器工場に出勤していて、母は疎開していたので、家にはわたしと兄の2人だけがいた。原爆が爆発したときは、焼夷弾が家を直撃したと思った。2階建ての家で、わたしたちは1階にいたが、家は一瞬にして崩れ、兄の「助けてくれ」とか、私の名前を呼ぶ声が聞こえていた。私も身動きがとれず、片腕がはさまれていたのでどうしようもなく、このまま焼け死ぬと思って、腕がちぎれてもいいからぬけだそうと必死になった。当時、14歳で、体も小さかったから、どうにか崩れた家から抜け出ることができたが、兄は一七歳で体も大きく出られなかった。中学の2年生ぐらいのわたしの力で、2階建ての家が崩れたものを掘り起こして兄を助けることなど不可能だった。
 外にはい出してみて驚いたのは、真っ黒になった人の群れと、何もかもが壊れてなくなっている町だった。何事が起きたのか想像すら付かず、無意識のうちに山王神社の方に逃げていった。町の中は、言葉にはならないような熱い風の大きな波のようなうねりが町中を渦巻いているようだった。山火事のときの風が一つの方向ではなく、海の波のようにうねった状態だった。家に火の手がまわりはじめていたので山に逃げた。足に刺さったガラスなどで出血がひどく、顔は真っ黒で髪の毛はノリで固まったようだった。いつの間にか意識を失ったが、周りに避難していた人は「しっかりしろ」「寝るんじゃない」と一生懸命声をかけてくれていた。
 父は三菱兵器工場にいて、ドンという音がしたので機械の陰に身を伏せてたすかったという。父は子どもが心配になり、戻ると家が燃えているので山の方に探しにきてくれたが、私があまりにもひどい顔形をしているので気が付かず、私が名字を呼んではじめて気づいた。畑が一つ違っていたら、もうわからなかったと思う。
 父は兄を探しにいったが火の海で近づけず引き返した。3日目以降にようやく帰れたが、家の跡には、焼けた兄の頭の部分が転がっていたという。
 いま中東では戦争がおき、おおぜいの女や子ども、お年寄りがなくなっている。やっと平和になったかと思うと、イラクには自衛隊まで派遣されて、これからの日本がどうなるのか心配だ。アメリカは戦争好きでいたるところでやっているが、原爆で受けた被爆者の痛みなどまったくわかっていないからあんなことが平気でやれるのだと思う。アメリカにはっきり言わないとだめだ。

▼70代・婦人
 爆心地から4`くらいの土井ノ首村(三和町)でB29が真上を飛んでいくのを見た。それからドーンといって、体が浮くような衝撃を感じ、それから大きなきのこ雲が立ち上っていた。母の親戚もみんな原爆で死んだ。今日はそのことを生々しく思い出した。日本の国民は洗脳されて、戦争に引き込まれて原爆を落とされた。それでいまの平和があるというが、アメリカが日本で戦争をすれば、また日本は火の海になる。政府の弱腰も問題だが、国民がもっと声を上げないといけないと思う。

  今でも出てくる原爆症
▼70代・男性
 父が淵中学校に三菱重工から指導員としていっていて被爆している。火の海の中から助け出されて、私たちのいる時津の日並まで運ばれたが、髪がボロボロ抜けて、血を吐いて1カ月で亡くなった。時津でもたくさんの死体をダンボールに入れて運んでいた。従兄弟も本原にいたので、原子病になり、最後は精神病になって10年まえに亡くなった。何十年たっても出てくるのが原爆だ。
 東条英機などは裁かれたが、アメリカはなにも裁かれていない。これだけの大量虐殺は他にないはずだ。ベトナムでも女、子どもを爆撃をして、細菌や枯葉剤まで使っていまだに奇形児が生まれるような環境にした。それでもアメリカは負け戦だった。イラクでもフセインではなくてブッシュがならず者だ。それで収拾が付かなくなっている。
 日本も米軍再編のために3兆円も国民の税金を使うというのに、おとなしすぎると思う。小泉は完全に主人に尻尾をふる犬になって馬鹿にされている。信念がなく、アメリカの御用聞きをして総理をやっている。若い者がフランスの若者のように騒いで政策を転換させるくらいのパワーを持ってほしい。

▼70代・婦人
 キャラバン隊の街頭展示を見ている。父が原爆症で戦後五年後に亡くなった。当時自分たち一家は諫早に疎開をしていたが、父親は三菱の技師だったので長崎が勤務先で、原爆が落ちたときには防空壕の中に入っていたそうだ。たまたま奥にいたから助かったが、前のほうにいた人たちはみな吹き飛ばされた。それから父は歩いて諫早まで帰ってきたが、体調がよくなくて、調子のいいときには職安で仕事をもらって働いていた。しかし五年後に髪がぼろぼろ抜けて、廃人のようになって亡くなった。当時はまだ原爆症というものが分からなかったので「結核」とか言われていたが、後から思うと原爆症だった。
 6人兄弟だったが、19歳だった兄は戦時中に盲腸の手術をしたが栄養が足らずに回復せずそのまま亡くなった。戦争が無かったら父も兄も死ななくてすんだ。もっと違う人生だったと思う…。だから見るのが本当に辛い。後世のためにこれからも続けてほしい。

▼80代・男性
 原爆が落ちたときは20歳ごろで軍隊におり、愛知の鈴鹿の幹部候補生の教育学校にいた。名古屋空襲のときは応援に行ったが、残っているのは蔵と電信柱が半分焼け残ったものくらいだった。原爆だけでなく、焼夷弾一つでもたくさんの人が亡くなり、ひどいものだった。終戦後、八月中に長崎に帰ったが、焼け野原の広島も通った。家族に直爆で亡くなった者はいないが、妹も直爆。
 戦後は平和運動にかかわったが、長崎はインチキが多すぎる。爆心地公園に母子像が建てられたが、8月9日にあんな派手な服を着た人は見たことがない。皆、もんぺを着ていた。本島さんが「原爆を平和教育の原点にしない」などといっていたが、まったく意味が分からない。そういうインチキが多いのだ。

▼70代・男性
 当時、8歳で稲佐町に住んでいた。ちょうど原爆のときは母が身重だったので両親と防空壕にいたが、弟は海水着のままで外でセミを捕っていて右半身を大ヤケドをし、右腕はヤケドで曲がらなくなった。長兄は稲佐警察署の地下で無線を打っていた。次兄は鎮西学園から塹壕堀に出ていて、帰ってくる途中でケガをして帰った。それからは、小島に疎開して毎日、弟を新興善小学校に連れていった。家族全員、髪が抜けた。弟はヤケドを気にして絶対に一緒に銭湯にも入らず、一人だけで家で水をかぶっていた。
 15日ぐらいして進駐軍が上陸してきて、うちは全員家族が被爆しているのでABCCがきて、ジープで新大工町の会館に連れて行き、注射器で血を抜かれたり、身体検査をされた。モルモット同然の扱いだった。そのときは子供なので分からなかったが、いま思えばそれが一番腹が立つ。
 原爆の前には空襲もあり、大波止や駅前には250`爆弾が落とされた。グラマンに狙い撃ちされて沈んだ船もある。隣の家の母親と子どもが浜の町に出かけた帰りに、大波止から旭町を結んでいた市営交通船に乗り、子どもが窓から顔を出しているところを狙われて首を飛ばされた。母親は首のないわが子を連れて帰り、一週間後に首だけ見つかって火葬したということもあった。
 空襲や沖縄戦など散散やられ何万人も殺されて、最後に原爆が落とされた。原爆が問題なのではなく、そんなものをつくって落として人を殺すやつが問題だ。原爆を使うような戦争をやめさせなければ原爆はなくならない。
 戦後の食糧難はひどく、米軍からは脱脂粉乳やパイナップルの汁などが配給されたが、世話になったとは思わない。アメリカのやり方は物を与えたり、3S(スクリーン、スポーツ、セックス)で日本人の精神を堕落させるものばかりだった。それに若い人は気がついてほしい。
 いままで原爆のことは目立たないところでやっている印象しかない。このような展示は正正堂堂と町のど真ん中でやってほしい。いまは口先で平和、平和といっているが、若い人はこういう事実を知らないのでもっとアピールしないといけない。若い人にどう受け継いでいくかが私たちの責任だと思う。長崎も広島と一緒になって力強くやっていきたい。

▼70代・婦人
 原爆で家族をすべて失った。言葉ではとうてい言えないような体験をしたものは、語りたくないし、思い出したくもないし、写真展など見たくもない。ここに展示している写真の何倍、何十倍もすさまじい惨状を見てきたし、そのなかを生きてきた。わたしは城山町の方にいて、原爆の被害が一番ひどかった地域だった。
 そこにもポスターがたくさん貼ってあったから、もう見たくもないという気持ちもあったが、今までと違うように感じて見に来た。資料館はひどいものだ。あれは被爆者をまったくばかにしたもので、まるでおもちゃだ。あれなら展示などやらない方がいいと思う。
 この展示は被爆者の思いがこもっているから1日では見切らない。世間で体験を話すのを仕事にしている人が多いが、そういう人はよそ者か、被害が軽くてすんだ人だ。ほんとうにひどい目にあった人は、そう簡単には語れるものじゃない。政府もいい加減な人が多すぎる。

▼77歳・男性
 あちこちの商店のウインドウにポスターが貼ってあるのを見て来た。今日、展示を見てびっくりした。長崎にいて原爆や戦争については知っていたが、初めてこのようなパネルを見た。写真と説明でいかに原爆がひどかったかが分かった。それだけでなく、全国の空襲や沖縄戦、下関の空襲などもよく分かった。自分は原爆や空襲にはあっていないが、外地で戦争を体験した。満州へ開拓団として行っていた。長野出身だが長野県は当時の国策に沿って開拓団をどんどん送っていてその一員で送りこまれた。満州では、敗戦と同時に、現地の農民から「土地を返せ!」と反撃を受けて追い出され、ソ連兵も入ってきて口で言えないような苦労があり、何とか命からがら逃げ帰ったという感じだった。約3万人は帰ってこなかった。皆行方不明だ。
 パネルの中で「原爆を落とさずとも戦争は終わっていた」と書いてあって、初めて知ったことだが本当にそうだと思う。実際日本に戦う余力はなかったと思うし、アメリカが原爆の威力を見せつけて、世界の実権を握ろうとしていたというのがすごくよく分かる。それは、今でも全く同じだと思う。絶対に戦争はしてはいけない。

 全国の空襲も知り驚き60代の参観者
▼60代・婦人
 昭和14年生まれだが、空襲というのは家が2、3軒焼けたくらいの認識しかなかった。東京をはじめ日本全国が焼け野原で、死体の山にされているのをはじめて知った。日本の軍部もここまでやられてなぜはやく降伏しなかったのか。軍事力のないことは分かっていたのに国民には「勝つまで戦え」といい続けたのはなぜかと思う。東京裁判で7人死刑になってもこの何百万人という国民の命とは比べ物にならないと思う。アメリカも下関でも広島、長崎でも三菱や財閥、皇居、軍部はアメリカが狙っていない。一般国民だけが殺されたということじゃないですか。
 しかも、アメリカの高官が「ソ連が来る前に日本はつぶれるから、原爆は必要なかった」と平気でいっていることは許せない。天皇陛下もなぜ黙っていたのかと思う。あれだけの犠牲者の命はいったいどうなるのか。いまは、アメリカのいいなりになっているが、また繰り返させてはいけない。

▼60代・婦人
 胸いっぱいで涙が出て感想を書きたいけど書けない。3歳のころで、私は福岡生まれなので原爆のことは知らない。結婚後に長崎に来たが、資料館はきれいになりすぎて入りにくい。子どもたちの写真などは自分の子どもたちと重なって、見ても涙が出て、悲しいとしか思うことはできない。いつ戦争が起きてもおかしくない世の中で、憲法九条を変えるということもいっているが、そういう人たちはこの様な原爆の体験も知らないのだろう。亡くなっていった人たちがいるのだから、二度と戦争がないようにしていかないといけない。こういう展示はずっと続けて欲しい。

▼60代・婦人
 在宅介護の仕事をしているので、被爆者の老人たちと接する機会が多い。昨年、この原爆展を見て、介護先のお年寄りの顔が浮かんできて涙が止まらなかった。いまだに子どもが見つからない人にとっては、どれもこれも見過ごすことのできない写真だろうと思うと胸がつまる。自分は、戦争中は福岡県にいたので直接空襲などにはあっていないので衝撃だった。介護している90代のおばあちゃんは、主人が三菱兵器に勤めていたので、生後八カ月の子どもを背中にくくりつけて、毎日、廃虚になった兵器工場に探しにいったが、黒焦げの死体はたくさん転がっていても、どれが主人か分からなかったと話してくれた。いまはもう痴呆が進んで片言ずつしか語れないが、想像できない苦しみを抱えておられた。原爆のことは2、3年付き合って、心のうちが全部分かったときになって、はじめてポツリポツリと語ってくれるけど他人には絶対に話さない。それだけ気をつけて話す人が多い。だからこの原爆展を機に市民のみなさんが遠慮なく思いを語っているのがうれしい。市内のいろんな地域で気軽に集える身近な原爆展をやってほしい。

  殺された肉親を胸に 代わって行動したい
▼50代・婦人
 6六人兄弟で兄3人と母が原爆にあっている。もうみんな死んでしまったが、私でさえ原爆については容易に語れないぐらいだから、実際の被爆者が語るにはほんとうに勇気のいることだと思う。去年は仕事もしていたので来ることができなかったので、今年は絶対にこようと思っていた。
 「被爆者はモルモットか」のパネルを見て、戦後、満州から復員してきた父がABCCに行く母や兄に向かって「お前たちはアメちゃんの実験材料にされている。いくんじゃない!」といってよくケンカをしていたのを思い出す。今でこそ、被爆者は補償されていいといわれるが、モルモットにされ惨めな生活を送っていた。戦後生まれの私たちも被爆で不住になった人を「片目」とか「チンバ」という目で見ていたが、その人たちの人生は戦争が終わってからもつらいものだったと思う。母は六四歳のとき急に腹痛で倒れて救急車で運ばれたが、末期の肝臓ガンで10日のうちに死んでしまった。3人の兄も40代でやはり肝臓ガンで死んだ。
 「沈黙を破る」とあるが、被爆していることを語らない人がほとんどだ。被爆者の声をみて勇気をもって語られていることに感動した。わたしも亡くなった母や兄たちに代わってできることを考えたい。
 沖縄の米軍基地のグアム移転費は3兆円も出して、国民のことは考えていない。アメリカの半植民地政策は変わっていないと思う。長崎港にも米軍空母が入り、市民には秘密で米軍の核兵器を持ち込んでいた。腹が立ってやれない。小泉になってどんどんおかしくなっている。(賛同者になる)

▼50代・男性
 被爆2世として複雑な思いだ。自分たちは、戦後アメリカの文化が大量に入ってきて慣らされて、感覚的にアメリカに好意を持ってきた世代だ。母親からは被爆の体験を聞きアメリカが残虐だということも分かるので複雑だ。被爆者は差別とかいろいろな抑圧で語れないようにされてきた。本島市長の時には「原爆を平和教育の原点にするな」といってきたが、世界で2つしかない被爆地でこれを原点にせず何を原点にするのか。キリスト教が抑えてきたというのも納得できる。本島市長も永井隆もクリスチャンだった。今は「原爆を語るときに政治的なことはいうな」というがこれでは何も語れない。ブッシュこそ戦争犯罪人で親子で裁かれるべきだ。そういうことはみんな思っていることなのに政府はそうならないのが問題だ。

▼50代・女性
 長崎の原爆は多少見たことがあるが、広島や下関空襲は想像をこえていた。一番驚いたのは三菱など軍需工場を避けて爆撃をしているということ。長崎の三菱造船にしても、広島や下関の三菱なども当然狙われたと思っていたがわざと目標からはずしている。岩崎小弥太の発言を見ても戦時中からアメリカと結んでもうけることを考えている。今も、ネジ一つかえれば核兵器にかわるようなものをつくっている。もやもやしていた疑問がつながった気がする。いまにイランやイラクの戦争を利用して兵器をつくりはじめるのではないかと思う。あの戦争の当時から考えていたのかと思うと腹が立つ。
 本当の真実が伝えられていないし、無関心でいることが一番いけない。

▼50代・男性
 昨年もこの展示を見に来たが、今回はパネルも増え、規模が大きくなっていてよかった。街中にもポスターがあちこち貼ってあり、去年より力が入っていると感じる。こういうことは継続していくことが大事だ。ものは違うが、ランタン祭りも最初の2、3回は人も少なく、小さかったが続けることで人も集まるようになった。この展示も長崎の一つの行事だといわれるくらいにしていかないといけない。ただ自分自身はいろんなしがらみもあって賛同人などにはなれないが、毎回見に来て口コミで広げることはできる。動く人は大変と思うがぜひ頑張って続けていってほしい。

▼50代・男性
 長崎出身でいまは名古屋で働いている。母が被爆しているが、被爆のときの話は聞いたことがない。展示を見て涙が出た。いまは日本はアメリカ一辺倒だが、アメリカの政策はどこでも失敗している。それについていく政治家は私にいわせれば売国奴だ。国民は願ってもいないのに権力にまかせて好き放題して国をアメリカに売っている。アメリカに喜んでもらうことが政治だと思っている。昔のように反米、アジア重視をやるような気骨ある人間はアメリカの圧力で落とされる。小泉はアメリカのいうことはなんでも聞くからなにも暴かれない。安倍晋三にしても拉致事件を出世の道具にしてキョロキョロと出世の機会を伺っている情けない人間にしか見えない。
 平和、平和といっている政党や団体は、いっていることは「戦争反対」でも、考え方がアメリカの覇権主義と同じで、自分の名を売ることしか考えていないと思う。それで原水協、原水禁と分裂してやっているが、このような市民の声は表には出てこないようになっている。長崎はカトリックの色調でベールをかぶせて、原爆の本質を隠している。広島に比べて訴える力が弱い。原爆で戦争が終わったからめでたし、めでたしといった調子だ。だから母も一度も原爆のことを話さなかった。本当のことは原爆を受けた人にしか分からない。だから市民の声を聞くことは貴重なことだ。

  初めて知った思い 祖父母の姿重ね強い共感
▼倉敷市・45歳・女性
 米国が何故2発の原爆を投下したかずっと疑問だった。資料も見てきたが、今日ここに来て、パネルと説明、ソ連との関係等知って初めて分かった。早く戦争を終わらせる為と本には書いてあるが、それは真実ではないことが理解できた。(パネル冊子、沖縄戦、長崎の怒り購入)今日修学旅行で岡山から中学生を連れてきたが原爆展にくる前に自由行動にさせてしまった。事前に分かっていたら、連れてこれた。来年からやっているのが事前に分かったらコースにいれるようアドバイスしたい。アメリカは石油の為に汚い戦争をやっていると思う。

▼40代・男性
 五島出身で修学旅行で資料館に行って以来、こういう展示を見た。実際見るとすごいものがある。いつ日本も戦争になってもおかしくない状況だが、北朝鮮やイランなどもふくめ、仲良くしないといけない。世界には核兵器を保有する国国が多くあるが、こういうことを訴えて世界に発信していかなければと思った。とても大切なことだ。そして、体験された方がいなくなっても伝え続けていくことが大切だと思う。今日はいい勉強をさせていただきました。

▼30代・女性
 両親とも香焼の出身で、原爆の被害にあった家族はいない。しかし、最近になって原爆のことをもう少し知っておく必要があるのではと思い、今日、昼休みに見にきた。本当にすさまじいものだ。あれだけ大勢の人が簡単に犠牲になったことを思うとなんともいえない。長崎は、長い間、被爆のことを語ってこなかったところだ。いうにいえない思いがあっても、胸の内にしまっておくことがよいことのようにずっといわれてきたからだ。
 それにはカトリックや、永井隆先生の影響もあったと思う。私もカトリック系の高校にかよったが、学校には慰霊の碑もあり、短大には原爆で亡くなった先輩学徒のことを記録した資料もあるが、原爆については語らない空気が強く、おかしいと感じてきた。やはり原爆のことは思い切って語り、伝えていくことが大切だと思う。

▼20代・女性
 長崎の大学にいったが被爆体験を学ぶ機会がなかった。地元出身の友も原爆のことは分からないといっていた。この展示を見て、自分の想像をはるかにこえていたし、資料館とはまったく違う重みがある。
 とくに、はり出されている市民の声を読んで衝撃を受けた。原爆がこれほどのものとは知らなかったし、60年もたてば当事者の人たちの気持ちもやわらいでいるだろうと考えていたが、そんな甘いものではなく、あのときの思いをずっと持ち続け、語られなかっただけで今も心の奥に渦巻いていることがわかった。口では表現できない衝撃だった。いまは浦上駅付近に住んでいるが知らずにいたことが恥ずかしい。医療施設で仕事をしているけど被爆者の人が自分から体験を語られることはない。私の祖父母も長崎にいるが、原爆の話は避けている。戦争のテレビは絶対に見ない。私たちと祖父母たちの間には大きな壁があると感じてきたが、この市民の声を呼んでその意味がわかった気がする。この展示を見なかったら、原爆について軽い認識で終わっていたと思うし、そういう若い人が多いのではないか。被爆者の方が語られるのもこの原爆展のような場がないといけないし、貴重な展示だと思う。観光通りでやっていたので仕事が休みになったから軽い気持ちできたが、きて良かった。長崎の声を形にするのはこれからだと思う。自分も被爆者の方の生の声を学んでいきたい。

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