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市民原爆展賛同者の集い
長崎の本音を語る場に
              原爆展成功へ意欲      2006年4月19日付

 第2回「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展(主催・下関原爆展事務局、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会、原爆展を成功させる長崎の会)に向けて15日、長崎ブリックホールで賛同者のつどいが開催された。長崎の賛同者、原爆展を成功させる広島の会の代表、下関原爆被害者の会代表、下関原爆展事務局メンバーや原爆展全国キャラバン隊など約20人が参加した。

  賛同者は100人越す
 最初に下関原爆被害者の会を代表して折出氏が「長崎の会を結成して、去年におとらず、原爆展を成功させましょう。お力添えをよろしくお願いします」と語った。
 続いて広島の会の高橋氏が「長崎でまた開催されることを広島としてうれしく思っている。広島も現在、成功しつつある。長崎のお手伝いをしたいと思っている」とあいさつした。
 今年初めて主催者として名前をつらねた原爆展を成功させる長崎の会世話人の1人である永田氏は、「昨年は広島に行き、本音を語った。もっと長崎の人に本音を語ってほしい。広島や山口の方が長崎のために一生懸命やられているので長崎の人間もがんばりたい」と語った。
 下関原爆展事務局の杉山氏から昨年の原爆展の概況と、今回の長崎市民原爆展の宣伝やキャラバン隊での反響の特徴が報告された。杉山氏は昨年の長崎原爆展は9日間で3100人が参観し、200人をこえる市民の体験が会場にはり出されていったことを報告。外から見る長崎の印象は「祈り」であったが、それは意図的につくられた虚構であり、実際は「怒りの長崎」であったこと、「原爆投下は戦争を終結させるためで仕方なかった」「和解せよ」という論調が市民の上を覆ってきたが、峠のパネルや長崎市民の声が共感を呼び、「もっと語る場がほしい」と要望が出されると同時に、長崎の被爆者が語り始めたことは広島や全国の人人を激励したことを明らかにした。
 また今年の長崎原爆展のとりくみのなかで賛同者は、自治会長、商店主、自営業、学校関係など各界各層に渡り、14日現在で104人となっていることを報告。今回の原爆展を市民が語り合う場にし、若い世代に語り継いでいく形ある運動をつくることを呼びかけた。
 70代の男性は「私は城山で生まれ、中心地から500b以内で生き残った。家族は7人死んだ。長崎は語る場がないし、本音を語る人がいない。被爆手帳もうその証明書を持っている人もたくさんいる。長崎人が真剣になり、観光に来た人にも広島、長崎がどのようなものだったのか、戦争はなぜ起きたのか知ってもらいたい。広島の人と一緒になって頑張っていけば、もっと賛同して頂けると思う」と語った。
 70代の婦人は、「私は19歳で三菱兵器工場にいた。鉄筋の中だったのでやけどはしなかったが、外に出てみると火の海だった。亡くなった友だちのことを考えると本当に悲しい。これまで生きてきたから、何か人の役に立つことをしたい。子どもたちに被爆にあったことを話したい」と語った。そして昨年8月に広島へ行った経験を語り「みんなの話を涙を流して聞いた。これまで長崎でそんな話をする人はいなかった。これから話していかないといけない」と決意を語った。
 長崎の賛同者から「長崎人はパワーがない」「他の人はもう原爆のことを忘れてしまったのだろうか」との発言があったが、下関の被爆者の一人は「去年会場に行って、長崎は語りたいことを語る場が、なかったのではないかと感じた。原爆展がそういう場になるのではないか」と語った。
 キャラバン隊の隊員は、今年は昨年に比べて立ち止まって熱心に見る人が多くなっていると報告。沖縄や長崎市民の声のパネルを見た市民の反響が大きいことを報告した。「見ていく人たちは数多くは語られないが、激しく語っていく。こちらも努力して形のあるものにしていきたい」と発言した。
 広島の被爆者から、広島でも原水禁や原水協が市民から嫌われていることが出され、「われわれの運動はわれわれで広げていかないといけない」と経験も語られた。
 今回の市民原爆展を通じて、「長崎の殻を破って、下関、広島と一緒にやっていきたい」と語りあわれた。

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