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長崎市民に根づいた原爆展
市長や県知事もメッセージ
                2世や青年の積極化も     2006年5月15日付

 「61年間の沈黙を破り、長崎の本当の声を形にしよう!」「広島・長崎の被爆市民のきずなを強めよう!」「原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!」をスローガンに、6日から長崎西洋館で開催された「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展が14日閉幕した。参観者は9日間で2500人となり、700枚をこえるアンケートが寄せられた。
 会期中198人の市民が賛同者に名前をつらね、開催前と合わせて、賛同者は400人をこえた。被爆者、戦争体験者を始め、現役世代や若い世代など各層の人人が真剣に参観した。「病院の先生にすすめられた」「掲示板に貼ってあるポスターを見て、必ず行こうと思った」という被爆者、「この原爆展に合わせて実家から長崎に帰って来た」という学生など、市民的な世論の盛り上がりのなかで、伊藤一長長崎市長、金子原二郎長崎県知事からのメッセージも寄せられた。
  参観者2500人、賛同者400人こす
 原爆展を成功させる長崎の会の被爆者は連日会場につめ、参観者と体験を語りあい、市内の賛同者や参観した市民が協力を申し出て、受付などを担い、文字通り長崎市民原爆展として成功させた。
 会場には昨年の会場で語られた被爆体験、約1カ月間キャラバン隊が長崎市内でおこなった街頭原爆展で語られた体験、今年会場で語られた参観者の声が貼り出され、市民の意見交流の場となった。声を読みながら語りあう姿や、若い世代が「これまで長崎の被爆体験を聞いたことがなかった」「被爆者がこんな思いを持っていたのを初めて知った」と語るなど大きな反響を呼んだ。
 13日には下関原爆被害者の会の被爆者との交流会、14日には原爆展を成功させる広島の会との交流会も開催された。
 長崎では、戦後60年目の昨年、50年8・6斗争をたたかった峠三吉の原爆展が初めて開催された。それは長い間長崎を覆ってきた「祈りの長崎」の虚構をうち破り、長崎市民の鬱積した怒りが語られ始めた。昨年の原爆展会場で語られた長崎市民の声は号外「沈黙を破る長崎の怒り」として今年、原爆展のチラシとともに市内に5万枚が配布された。「ほんとうの声を若い世代、全国に伝えよう」という呼びかけは、長崎市民の支持を受けた。原爆展会場では、被爆市民の新鮮な怒りとともに、自衛隊のイラク派遣、米軍再編など、アメリカにつき従って、また日本を戦争に引きこもうとする日本政府への怒りが語られた。原爆展は、体験を若い世代に語り継いでいく運動を継続させていこうという機運に満ちたものとなった。

  被爆市民の怒り表面に 世代こえ交流の場に
 「チラシが入っていたので今年は行かないといけないと思って主人を誘ってきた」といった79歳の婦人は、18歳のときに出島町で被爆したことを語った。14歳だった妹は大橋の兵器工場に動員で行っており、骨も見つからないという。翌日から父と一緒に妹を捜して、市内の収容所を歩き市内の惨状を見てきた。両親は数カ月後に腹がパンパンに膨れて亡くなったという。「原爆から数日後に終戦だった。私はずっとなんのためにみんな原爆で死んだのだろうと思ってきた」と涙ながらに語った。「代代カトリックだった私の友だちは家族が全滅した。“エス様、エス様というがアメリカの原爆も止められないで、どうしてエス様なのか”とカトリックをやめた。みんなそんな思いで生きてきた」と語った。
 三菱で被爆した80代の婦人は、「ガラスが刺さり、眼科医のおじに48針縫ってもらった。麻酔などないので神経に針を刺し、焼きごてで針を焼きながら縫った。戦後、被爆者といえば結婚もできないし、生きることが必死だったので長い間手帳をもらわなかった」と語った。両親は傷もなかったが、しばらくして斑点が出て亡くなったという。「一番辛かったのは、両親を生焼けのまま葬ったことだ。そんな思いをして戦後は家や土地を売って治療費に充ててきた。年寄りの被爆者は体が弱り、苦労しているのに介護料も1回1万2000円も払い、食事代も500円追加される。市長にはもっと原爆のことを知って、市民の声を聞いてほしい」と怒りをこめて語った。
 1枚1枚丁寧にパネルを見ていた80代の男性は、台湾に向かう輸送船に乗り組み、バシー海峡でアメリカの潜水艦にやられて戦友を殺されたこと、故郷に帰ってみると原爆で兄と甥、姪4人を殺されていたことを語った。「アメリカはソ連に威力を示したかっただけだ。戦後アメリカが復興したというが長崎の人を奴隷のように使って道路などをつくった。私は戦友も親せきも殺されたから、戦争は絶対に反対だ。今の日本政府に腹が立って仕方がない。東条英機は盧溝橋事件や満州事変など侵略戦争をやって日本を戦争に巻き込んだが、小泉もアメリカについて日本をまた戦争に巻き込もうとしている。本当は隣と仲良くしないといけないのに、アメリカに軍事費をいくらでも出す。私たちの年金は下がるし、保険料はまた上がった。腹の立つことばかりだ」と語った。
 最近になっておじが被爆者だということを知ったという40代の婦人は、アメリカはパールハーバーのことを知っていてやらせたこと、三菱がやられなかったことなど、「これまで感じていたことが全部この展示に書いてあった」と語った。長崎でも日見トンネルの中でつくっていた機械は戦後アメリカが持ち去ったという。「三菱は無傷だった。アメリカは戦後使うために残している。アメリカという国は最初から筋書きをつくってやる国だ。イラクも同じだ。一市民としては石油がどんどん上がっていくというのは切実な問題だ」と語った。
 西浦上小学校を卒業したという20代の女性は、「これまで平和教育を受けてきたが、原爆といえば“悲しみ”と教えられてきた。“怒り”というパネルは初めて見た。これまであえて峠三吉さんの詩を載せなかったんですね」と驚きを語った。
 協力を申し出た30代の婦人は、「最近、自分や家族のことだけを考えていてはいけないと思うようになった。平和学習はしてきたが、それで終わっていた。原爆で死んだ人が本当に浄化するためには、若い人が思いを共有することだ。長崎はこれまで祈りで押しこめられてきた」と語り、これからも地域で原爆展をするときには協力することを約束した。
 
 今後の運動に強い意欲 確信胸に閉幕式
 最終日14日の5時から、原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会の被爆者をはじめ、広島との交流会に参加した被爆者も参加して、閉幕式がおこなわれた。閉幕式では、下関原爆展事務局から長崎市民原爆展の概況が報告され、原爆展の成功が確認された。
 下関原爆被害者の会の升本勝子氏は、「長崎に行きたいと前から思っていたが、去年から長崎に来るようになり、交流することができてよかった。内容も去年以上に深まったと思う。私たちも被爆者として、若い人に語り継いでいくために頑張りたいと思う」と喜びを語った。原爆展を成功させる広島の会の堀一三氏は「下関空襲や沖縄戦など、新しいパネルが展示してあり感動した。また被爆した実物が置いてあるのを今回初めて見た。ぜひ広島にも展示したい」と語った。
 続いて原爆展を成功させる長崎の会を代表してあいさつした中村博氏は、「長崎では初めてのとりくみだが、下関、広島の方とお会いでき、参考になることがたくさんあった。長崎でもこれから原爆展を大きくしていきたい」と語った。長崎の賛同者からも「今回で終わらせず、3回、4回と続けていきたい」「原爆をなくすように若い子たちに伝えていきたい」と今後の運動への意気ごみが語られた。
 最後に、下関原爆展事務局から、原爆展を成功させる長崎の会へ、「原爆と峠三吉の詩」原爆展A2判パネルが寄贈され、今後地域などで原爆展を継続していくことを確認して、閉幕式を終えた。

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