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長崎市民の強い運動に発展
原爆展キャラバン隊座談会
                 60年の重圧を突き破る      2006年5月22日付


 第2回目となる今年の長崎市民原爆展は、原爆展キャラバン隊が一カ月の活動をやり万を超える市民が参観、チラシ10万部、「沈黙を破る長崎の怒り」号外5万部を配布し、開会後は2500人の市民が参観した。「長崎市民の本当の声を形にしよう」という呼びかけがひじょうに支持され、深い思いが堰を切ったように語られ、被爆市民をはじめ若い世代も行動をはじめたというのが特徴となった。「祈り、あきらめ、贖罪」などというイメージで伝えられてきたが、長崎市民の本当の思いが伝えられたことは、広島をはじめ全国、世界への大きな意味を持つメッセージとなった。本紙では原爆展キャラバン隊のメンバーに集まってもらい、経験と教訓を語りあってもらった。

 全市で行動始めた長崎市民
 司会 まずとりくみの経過から、出してもらいたい。
 A 今年は昨年の原爆展の賛同者である3人の被爆者が世話人として名前をつらね、原爆展を成功させる長崎の会が主催者に加わり、長崎市民原爆展と銘打ってやることになった。下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会、下関原爆展事務局との連名で3月20日に賛同の訴えを出し、長崎県、長崎市の後援もとれ、市立小・中・高校、私立小・中・高校全部に4万枚のチラシが配布されることになった。長崎西洋館も昨年の原爆展の実績からまた開催することを喜んでくれ、さまざまな便宜を図ってくれた。長崎電鉄も電車の中吊りポスターを昨年の2倍の2週間やってくれることになった。
 4月8日から市内の宣伝とキャラバン隊の街頭原爆展がはじまった。それから約一カ月間、キャラバン隊は5月4日まで去年やった商店街や集会所などを中心にして、後半は諫早、大村、佐世保まで行き、全部で14カ所・20回の街頭原爆展をおこなった。キャラバン隊の街頭原爆展を見た人は万をこえる。カンパも去年は5万円だったのが、今年は13万円になった。
 宣伝の方では、山口県内からのべ200人以上が参加して、原爆展のチラシ6万枚とともに、昨年の原爆展会場で語られた市民の被爆体験を掲載した「沈黙を破る長崎の怒り」(下関原爆展事務局作成)号外5万枚を市内各戸に配布していった。今年は昨年宣伝できなかった地域もふくめ、広範囲に宣伝した。
 市民原爆展が開幕して、参観者は2500人、会期中賛同者は約200人となり、開幕前と合わせて賛同者は400人をこえた。市民原爆展の期間中も市民的な世論が広がっていき、だんだん参観者も増えていった。途中、長崎県金子知事のメッセージと、初めは予定のなかった長崎伊藤市長のメッセージも届き、会場に展示された。
 B キャラバンをやっていて、去年はじめはスッと通りすぎる人が目立ったが、今年は立ち止まって見る人が多いというのが印象だった。市民の声を展示したり、配布するなかで市民同士の交流になり、これまで声をひそめて語られていた体験や思いが、堂堂と話されるようになっていった。街頭原爆展が市民の交流の場のようになって、おたがいに体験を話したり、若い人をつかまえて話している人もいた。
 C 宣伝の方でも今年は初めから反響が違っていた。昨年の原爆展に大きな信頼が寄せられていて、体験を語ってくる人や、「“祈りの長崎”というのは一部のカトリック教徒だけだ」といっていた。「長崎の本当の声を若い世代、全国に伝えよう」という呼びかけはすごく共感された。自治会や商店街など昨年にも増してポスターやチラシを預かってくれた。また、資料の提供を申し出る人もつぎつぎ出てきた。

  激しく語る被爆者 空襲体験者も
 D 市民原爆展が始まって、会場で被爆者が体験をあふれるように語っていくのに驚いた。60年たって初めて原爆の写真を真正面から見て、「自分も体験したが、これほどの惨状だったのか」という市民もたくさんいた。60年間抑えられてきたものがほとばしっているという印象だった。
 E 会場に貼り出された市民の声を、被爆者から若い世代まで、よく見ていた。それで触発され、自分の体験も事細かに語っていくし、これまで語れなくさせられてきた、という実体験が語られる。また「来るつもりではなかったが」という人や「去年は来る勇気がなかったから今年は絶対来ようと決めていた」など、葛藤して会場に足を運ぶ人が多くいた。外で案内のチラシをまいているスタッフに「会場では涙が出ていえなかったけど、私も被爆者です」と体験を語ってくる姿もあった。被爆者のなかで、60年たっても同じ感情をかかえたまま、解決されずにきていたことを感じた。
 F 少しパネルを見て受付の人に体験を話し始める人や、時間をかけて見ていく人、近くの人に写真を指さしながら、「こんなのだった」と話す人も多かった。アンケートを書いている人に話しかけると、ものすごく体験を話してくる。そして「今でもあの惨状を思い出したり、またきな臭くなっていることを考えると、夜も眠れなくなる」という。また同じことが起ころうとしているという危惧(ぐ)を、みんな語っていった。
 D 戦争体験や空襲体験もだいぶ語られた。これまでは「被爆者は金をもらっていいではないか」という声や、被爆者と空襲体験者の対立がいわれてきたが、今回じっくり見た人からは出てこなかった。被爆者も沖縄戦や空襲のパネルを見て、「ここもこんなんだったんだね」「沖縄戦もひどかったんだね」といって、おたがいの体験を共有していた。
 F 大牟田で空襲や機銃掃射を受けたというおばあさんも「今までは原爆のことを聞いても“自分たちも空襲を受けたんだ”と思っていたが、これを見て原爆のひどさがよくわかった」といっていた。
 A 入口で「原爆団体は原爆、原爆というが、元になる戦争についてはやらないではないか」といっていた五〇代の婦人に、見終わってから感想を聞いてみた。その人は叔母が被爆者で、叔父がサイパンで玉砕したため、叔母のところに養女としてもらわれ、父がいない辛い幼少期を過ごしていた。「事実を知ったとき、母たちを恨んだが、これもやはり戦争の犠牲者だと思う。今はそういう戦没者が軽くあつかわれている」といっていた。
 B 長崎でも原爆の前に空襲があり、大波止や駅前に250`爆弾が落とされたという。「原爆はいけないとだけいっていてはダメだ。原爆の前に空襲や沖縄戦などで何百万人も殺されて、最後に原爆が落とされた。原爆を使うような戦争をやめさせなければ意味がない」という人もいた。

  戦後世代に強い衝撃与える
 D もう一つ、戦後世代の問題意識が特徴だったと思う。50代の被爆二世の男性は、「戦後アメリカ文化が大量に入ってきて、感覚的にはアメリカに好意を持っている。だが、母親の体験を聞いて、アメリカの残虐さもわかるから複雑だ」といっていた。親世代との感覚の違いを感じながら、戦後の欺まんをなんとかしないといけないのではないか、と語っていく。その人たちも「わがことさえよければいいというのが戦争につながっていくんだ」という問題意識を持ってきていた。
 A 米屋をしている被爆二世の男性も、原爆投下の目的のところを見て、「全然認識が違っていた」といって呆然として帰っていった。今年は、市民の声があれだけ貼り出されたこともあり、衝撃度が強かった。大学生なども、認識が180度変わったというくらい衝撃を受けている。「じいちゃん、ばあちゃんがなぜ体験を話さないのかわからなかったが、パネルを見てやっとわかった」という人もいた。
 D 西浦上小を卒業したという20代の女性も、これまで平和教育で「悲しみ」とばかり教えられてきたから、「怒り」が前面に出たパネルを初めて見たといっていた。「私は常常日本人はもっと怒るべきだという思いを持っていたから峠さんの詩がぴったりきた。これまで平和教育では峠さんを知らせないようにしてきたんですね」という。祖父母の体験を知って、今の時代を見抜いていこうという機運があふれ、原爆展を通じて世代をこえた交流になっていると感じた。

  現代重ね意識激変 対米従属に怒り
 編集部 去年と比べて内容が深くなっている。戦争体験世代と、若い世代の問題意識が変わってきている。去年はまだ被爆二世、若い世代も少なかったが、今年はだいぶ来ている。被爆二世も「自分たちはアメリカナイズで育ってきたが…」という問題意識で来ている。
 A 米軍再編などが進行するなかで、現代の問題意識が共通して語られた。召集されて、輸送船に乗り組んだという80代の男性が来て、すごく熱心にパネルを見ていた。バシー海峡でアメリカに沈められ、戦友がみな殺されて、やっとの思いで帰ってきてみると、長崎は焼け野原で、親せきも殺されていたという。「小泉は東条英機そっくりだ。小泉もアメリカについて日本中をまた戦争に巻き込もうとしている。隣と仲良くしないでアメリカにだけは軍事費をいくらでも出す。私らの年金は下がるし、保険は上がる。腹が立って仕方がない」といっていた。
 C 父が被爆して、髪がボロボロ抜けて血を吐き、一カ月後に亡くなったという70代の男性も、「東条英機は裁かれたが、アメリカはなにも裁かれていない。これだけの大量虐殺はほかにないはずだ」といっていた。そして「日本も米軍再編のために三兆円も国民の税金を使うというのに、おとなしすぎると思う。小泉は完全に主人にしっぽを振る犬になっている。若い者がフランスの若者のように騒いで政策を転換させるくらいのパワーを持ってほしい」といっていた。
 B 去年はどうしても参観できなかったという七〇代の婦人も、「次に原爆が使われるときに、私たちは生きていないかもしれないが、長崎の者としてはなんとしても声を上げていかないといけない」と切実な思いを語っていた。
 A 若い世代も「原爆は過去のことと思っていたが、体験者の人は原爆からずっとつながっている。そのときの思いが激しく残っている。私たちが考えもしないことが書かれている」という人もいた。
 F 40代の母親も、沖縄戦や下関空襲のパネルまでじっくり見て、「原爆や沖縄戦でこれだけ殺されているのに、今もアメリカの基地があって米兵が事件を起こしている。グアム移転なども屈辱的だ。殺されていった人はどうなるのか」といっていた。

  市民の本音表面化
 編集部 原爆投下が今の日本社会の出発点だ。被爆者は文句なしにその認識だ。二世、三世はそこが断絶していた。それがつながってきた。
 B 下関でも広島、長崎でも三菱など軍需工場を避けて爆撃していることに驚きが語られた。今でもネジ一つかえれば核兵器に変わるようなものをつくっているが、戦時中からアメリカと通じて、もうけることを考えていたんだ、モヤモヤしていた疑問がつながった、という人もいた。
 A 戦後、アメリカがどうやって抑えつけてきたのかということもだいぶ語られた。最初は食べ物を持ってきて配ったりしていたが、だんだん人が代わり、食べ物を投げて、それを拾わせるなど横柄になっていったことや、チューインガム、チョコレートを投げられたというのは共通した体験だ。
 B 爆心地の辺も一日でブルドーザーで片づけてしまったといっていた。アメリカのダーツ型の立て札を立てて、観光地のように「ここで爆発した」と英語の表示で書かれていた。アメリカが自慢して立てた立て札だ。被爆した浦上天主堂を建て替えたのもアメリカの指示だったと、主人が新聞記者をしていたという婦人もいっていた。
 E ABCCが遺体を持っていって調査したということも語られていた。ABCCでも薬を配ったり、食べ物を配ったりしていたようだ。戦後満州から復員してきた父は、母や兄がABCCに行くのが許せず、「お前たちはアメちゃんの実験材料にされている。行くんじゃない」といってよくケンカしていたという婦人もいた。
 A 多くの学校がGHQの政策でつくられたようだ。市内にはカトリック系の私立高校が多い。もともと長崎工業があったところに南山高校が入るなど、公立高校がなくなってカトリック系の私立高校ができている。活水、純心、南山、海星ほとんどがキリストだ。戦後、マッカーサーの命令で、歴史の教科書もとりあげられ、歴史を教えられなかった、といって書籍を買っていく年配者もいた。徹底したアメリカ式教育が持ちこまれたのではないか。
 B 永井隆や本島元市長の批判もだいぶ出た。本島が「平和、平和」といいながら原爆の遺構を全部つぶしてしまったとか、「原爆を平和教育の原点にしない」としていたとか。去年も少し出ていたが、今年ははっきりとした形で多くの人が語っていた。
 C 元看護婦をしていた人が、「永井は戦前、すごい軍国主義者で、看護婦を薄氷がはった水につけたり、ひどい仕打ちをしていた。それが戦後平和主義者のような顔をしている。そしてあることないこと書いてGHQに持ち上げられたんだ」といっていた。
 編集部 去年、初めて峠三吉の「すべての声は訴える」を四万枚市内に配布して、今年は昨年の原爆展で語られた長崎市民の声の号外五万部を配布した。そしてキャラバンで数万の人がパネルを見、原爆展だ。この一年でそうとうに市民相互の論議になっている。論議してみれば、みんなも同じことを考えていたというのがわかり、表面に出てきた。

  既存勢力の姿皆無 思い切って語る場に
 司会 いろいろな既存の諸団体のかかわりはどうだろうか。
 A 今年はキリスト教のシスター姿の人が一人もなかった。そのほか、原爆関係の既存の団体の姿もまったくなかった。去年はまだ「高校生もがんばっている」という声が出ていたが、今年はまったくといっていいほど出てこない。このとりくみへの妨害がなかったのも特徴だ。
 B そのような既存の原爆勢力の姿がなかったことが、市民が思いきって語ることとセットになっている。「原爆に感謝する」とか「加害責任を反省しろ」とか「許せ」とか「和解せよ」とか説教する勢力というのが、市民から本当に嫌われているし、そのような勢力の影がない原爆展というのが市民原爆展として信頼を得た結果になった。
 編集部 本島元市長とかは、今も全国に行って講演をしている。10年ほど前広島に行って「広島よおごるなかれ」という講演をした。広島にケンカを売りに行ったわけだ。右翼に呼ばれたのではなく広島の「平和団体」に呼ばれた。その中で峠三吉を名指しでけしからんと攻撃していた。それなら長崎市民に峠三吉の詩を見てもらわなければならない。結果は、長崎市民の大多数は峠を自分たちの本音を代表する原爆詩人だと見なした。本島氏は長崎市民からほとんど支持がなかったし、むしろ被爆者からは恨まれていることが浮き彫りとなった。これからは本島氏もあまり大きな顔をして原爆を賛美する講演などしにくくなったと思う。これは日本全体にとってひじょうによい成果だ。
 H 「広島よおごるなかれ」の講演で、「女、子どもまで殺されているではないか」ということについて、「当時の子どもは万歳といって兵隊を送り出したから加害責任がある」といって、原爆で死んでも仕方がないようなことをいっている。この加害責任論だが、「被害ばかりいわないで加害責任を反省しろ」というのは、キリスト教の本場であるアメリカ人にたいしてはいっていない。アメリカは60年たっても執念深く「パールハーバーを忘れるな」というばかりで、原爆の加害の反省はしない。キリスト教は国によって教える内容が違うようだ。ダブルスタンダードだ。
 編集部 バチカンと直結した本島氏は天皇の戦争責任をいって右翼からピストルで撃たれて、左翼の味方のような振舞をしているが、本当は右翼だと思う。国内基準ではなく国際的基準で見たらはっきりした右翼だ。世界一の右翼はブッシュであることを疑うものはいない。その基盤はキリスト教原理主義だ。バチカンも大統領選挙でブッシュに投票せよと指示した。バチカンというのは世界の右翼だ。ロシア革命でも中国革命でも武装斗争をしかけたほどだ。歴史的に見ても、十字軍遠征などでイスラム勢力をむごたらしく殺している。長崎ではバテレン文化とかいっているが、一時期イエズス会の領地にされ、秀吉が怒ってとり返したということがある。バテレン・宣教師はポルトガルやらの貿易商人と軍隊をバックにしていた植民地主義の先兵だった。いいことばかりではなかった。
 A 長崎では昨年、仏教や神社など宗教者が団体で教会に案内されてバチカン詣での旅をしている。神道は天皇をかつぐ右翼というわけだが、バチカンに頭が上がらぬというのでは日本の神道・右翼というのも地に落ちている。なにが民族派かということだ。長崎の神社はおくんちをやる諏訪神社をのぞいたらなんだかみな寂れている印象だ。
 H 「原爆を許しなさい」「和解しなさい」という。謝りもしない相手と和解するというのは、屈服するという意味だ。ああいうインチキを暴露して、原爆投下の目的の欺まんが引きはがされ、市民が本音を語っていった。

  白熱した下関・広島との交流
 A 去年からやられている下関・広島との交流も大きい。ああいうふうに形にしようという意欲が強くなっている。今年はカトリック関係がこなかったぶん、市民が来て、いいたいことをいうという雰囲気だった。
 B 13日、14日におこなわれた下関と広島の被爆者との交流は、とくにいいたいことを語り、白熱した。広島との交流会では、広島の被爆者から「平和推進協が政治的発言の自粛を求めたことを長崎の人はどう思っているのか」という質問が出た。そこに平和案内人の人が一人来ていて、「そんなことはいっていない。マスコミの勘違いだ」という発言を何度もしていた。ところが長崎の人たちから「戦争がなぜ起きたのか、原爆がなぜ落とされたのかというのが問題なのに、被爆地でそういう圧力がかかることに憤慨している」とか「本島市長のときに長崎は語らせない圧力がかかってきた。広島よおごるなかれといって、原爆を落とされたのは国民が悪いといっているが、当時戦争反対をいえば憲兵が出てきて弾圧されたではないか。国民は黙らされて殺されていったんだ」とか「子どもが山里小学校に行っていたが、原爆投下の目的などを話すと学校で圧力がかかる。そういう体験をしているんだ」とすごい勢いで語られた。
 A 飛び入り参加の被爆者も、そのやりとりを聞いていたが、関係なしに自分の体験を語りはじめ、そういう存在は完全に浮いてしまった。みんな「いい交流会だった」と喜んで帰っていった。
 編集部 長年の重しになってきたインチキを突き破った迫力だ。長崎市民のなかで、そういうことが公の場で論議されて勝ったというのは初めてかもしれない。これまではそういうふうにいわれてきたら黙ってきたが、いまは黙らなかった。広島・下関とも激励し合って、覆すことのできないような迫力が出てきた。これは一つの到達点だ。
 
  全市民の本音結ぶ
 司会 こっち側の活動も、長崎の市民から見たらそうとうの力量を感じていると思う。
 A 平和関係のジャーナリスト基金・長崎の運営委員という人が来た。キャラバン隊も住吉や観光通りで見ていて、「あれだけの期間と人とお金もかけてやっている。どうやってまかなっているのか」と聞いてきた。長周新聞のホームページも見て、本も買ったが、一新聞社がこれほどのことをできるわけがない、と驚異を感じていた。
 編集部 スタッフの動員規模で見ても、40日間のキャラバン隊、市内のチラシ宣伝要員、開会後の運営要員など、山口県から参加したのはのべ500人をこえる。下関に残って、準備したメンバーも含めるとさらにすごい人数だ。泊まり込みものべ300人にはなる。会場だってあれほど大規模なホールだ。常識的に見た費用は数百万円ではきかない。われわれの場合無償の志願兵だが、そうとうなものだ。
 H そういうものをボランティアでやり、いわゆる長崎の原爆団体という既存の組織には依拠せず、直接に無差別の市民のなかに入り、チラシを手渡し、聞き取りをしていった。そうとう大きなスケールの活動だ。そんな活動はこれまで見たことがないと思う。
 I あっというまにポスターが貼り巡らされ、去年より広がり、がんばってくれ、と会場に来た人もいっていた。
 編集部 インチキと一切妥協せずに、まったく独自に市民と結びついて、正論で断固やりぬくと同時に、力量を持った勢力という印象を残していると思う。理屈だけではなく力を持っている、それが市民を激励して、またたくまに運動をつくってしまい、市長もメッセージをくれるようになった。マスコミにしても、去年は開幕前に紹介していたのに、今年は開幕して取材に来た。無視できない存在になったし、市民権を得たことは疑いない。
 A 開幕してからも、市民の世論は広がっていった。全駐労の退職者の県の会議で、会長が見に行くよういったり、賛同者の人が自治会の会合で呼びかけたり、病院の先生にすすめられて来たという人もいた。こちらが知らないところで、世論が動いていった。会場の雰囲気としても、後半、そういう論議が広がっていることが感じられた。
 編集部 2回目まで来て、市民自身の運動になってきた。だれはばかることなく語る状況が出てきたし、自分たちの要求として行動しないといけない、となってきた。こちらがそういう手助けをしたということだ。やはり峠三吉が広島だけでなく、長崎市民の心も代表していたということだ。長崎が峠三吉を知らなかったということは、当時の共産党が占領軍をおそれて知らせなかったということだ。五〇年問題のとき、九州地方委員会は宮本顕治だった。広島から何度も声をかけるが、長崎は結局来なかったといわれていた。51年にはモスクワ放送で中国地方委員会は解散し、峠はすぐに抹殺される。だから長崎には峠が伝わっていない。戦後60年目にして初めて長崎の目にふれると、様相が変わって、60年来の市民の本音が表面に出てきた。

  生きた怒りを発動
 司会 こちら側の活動の教訓としてはどうか。
 D みんな現代の問題意識を持ってきている。たんに原爆だけでなく、今とつながっているという、こちら側の問題意識が問われる。「パネル見てどうですか」では引き出せない。被爆者は介護から年金、保険、郵政まで全部米国に行くではないか、という怒りを持っている。そこにぐっと突っこんでいかないと、体験もなまなましく語ってくれるときと、一般的になるときと、こちら側の姿勢次第だと思った。
 I 人人が思っていることをどう引き出すか、というところだと思う。敵を鮮明にすることが大事だと。最初はあまり語らない人も、アメリカに謝罪を求める署名を訴えると、怒りを語っていく人もたくさんいた。
 編集部 戦後すぐの広島も、風呂屋に行ったら当時のことで大話になるが、一歩外に出れば表面にあらわれない。そこには「戦争終結のためにやむをえず投下した」「原爆のおかげで数十万の命が救われた」という敵の宣伝が被爆市民を抑えつけていた。直接にも原爆について語ってはいけないと弾圧もした。長崎ではその状態が60年間続いていたということだ。
 広島では1950年に、「原爆投下は戦争終結のためではなく、ソ連や天皇を脅して日本を単独占領するために落とした」ものであり、「人類に対する許し難い犯罪だ」と真正面から暴露し、抑圧をとり払っていった。原爆写真を初めて公表し、市民の生きた怒りを発動した。そのなかで峠三吉も原爆詩を書いた。大衆のなかにそういう怒りがあるが、敵がじゃましている。インチキをとっ払って、大衆が本音を語れるようにしていくのがこちらの仕事だ。
 それを突き破れないなかに、敵の宣伝と同時に、アメリカ軍は民主勢力だというソ連指導部などの修正主義の影響があった。国際共産主義運動のなかに「米英仏はファシズムとたたかった民主勢力」という評価があり、日本の共産党中枢部は「アメリカ占領軍は解放軍」という規定をしていた。だが被爆体験の実際から出発して、「アメリカは日本人民の敵であるし、原爆を許してはいけない」という確信で断固やったら、激しく歓迎された。
 I 今もこのままアメリカのいいなりになっていけば、また原水爆戦争の戦場になると、植民地的な日本社会の現状とあわせ、怒りが語られていた。グアム移転3兆円への怒りはよく出た。
 A 「アメリカの半植民地政策は変わっていないと思う。長崎港にも米軍の空母が入り、市民には秘密で核兵器を持ちこんでいた。腹が立ってやれない」という50代の婦人もいた。
 D アメリカが日本を守ってくれているという意見はほとんどない。なんでここまで吸い取られないといけないのか、というのが圧倒的だ。

  国際連帯の重要性が高まる
 G 原爆を落とされて占領され、でたらめな社会になった。この社会を平和で民主主義で独立した国にするため、今原爆の犯罪をいわないといけない、となっている。教育がグチャグチャなこと、中国や韓国と仲良くしないといけない、など国際連帯もよく出た。
 編集部 長崎は中国との友好運動の歴史がある。華僑もたくさん住んでいるし、仲がいい。五〇年代の岸内閣の時期に長崎国旗事件があり、日中関係が緊張した。それまで結んでいた民間漁業協定もだめになり、以西漁業者はすごい運動をした。以西漁業ができなければ長崎の町はなりたたない。岸内閣とたたかって日中友好漁業を成り立たせた。日中友好の運動は60年「安保」斗争の重要な戦線となった。今も小泉が靖国などで挑発をやっているが、当時とそっくりだ。
 G 原水爆戦争を絶対にくり返させてはいけない、という強い思いとアメリカの植民地的支配にたいする怒りを持って、行動を求めている。こちらが信頼されたということと、この一年の情勢の発展がある。「原爆を語らせない力が、日本をでたらめにしてしまった」と、現状変革の意欲は高まっている。
 編集部 運動路線として禁・協勢力はつぶれていく。自分たちの損得ばかりを追い求めて被爆者を利用していくのはダメだ。やはり人民に奉仕する思想だ。大衆のなかに深く足をおき、その生活と斗争を学ぶこととともに、大きな歴史発展の方向と結びつけていくということだ。とくにアメリカの戦後支配の欺瞞を取り払って、そのような人民の敵を正面から暴露していくことがもっとも広範な団結をつくることになる。長崎の勝利にたって、今年の八・六広島集会を大勝利させることが重要だ。米軍再編による原水爆戦争の基地とし、日本を隷属の鎖に縛りつけたうえに、再び原爆の火の海に投げ込もうというようなことにたいして、それに立ち向かう本当に力のある運動を再建しなければならない。

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