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長崎・中学生の幼稚園児誘拐・殺人事件
弱肉強食社会を鋭く反映する子供
            文科省「興味関心」教育の産物  2003年7月12日付

 4歳の子どもを12歳の中学生がいたずら目的で連れ出し、ビルの屋上から突き落として殺すという痛ましい事件が起き、人人を震撼させている。これより先には沖縄で、中学生がいじめていた中学生を殴り殺して埋めていたという事件が起きた。6年まえには神戸で中学生が、小学生を猟奇的に殺害して誇示したいわゆる「酒鬼薔薇事件」が起きたが、その後西鉄バスジャック事件、大分の一家惨殺事件など少年の凶悪事件があいついでいる。
 それぞれの事件にたいして、事件を起こした少年、およびその家庭、学校の個別の問題というだけではなんの解決にもならないし、また少年法を改定して刑罰を強めても、それは結果にたいする対応にすぎず、これらの事件を起こす原因を解決するものにはならない。深刻なことは、この種の事件がいつどこで起きても不思議でないと多くの人が感じていることであるし、同じような事件が全国的に共通して起きていることである。つまり個個の家庭や学校に共通した社会的歴史的な産物としてあらわれているのである。もっとも生命力にあふれた未来社会の担い手である青少年のこのような荒廃は、この社会が行き着くところまでいったことをあらわしている。
 子どもたちは時代をもっとも鋭く反映する。この時代はまさに犯罪社会である。親が子を殺し、子が親を殺す、最近だけでも一家を惨殺して海に捨てた事件、保険金を人にかけて殺す事件、または金づるにして親兄弟をも殺した事件など、目を覆うような事件が起きている。さらに人人の通常の生活をめぐっても、「自由競争」「自己責任」の名で、倒産、失業、犯罪、自殺などがあふれて、弱肉強食の殺しあいが襲っている。
 そしてもっとも大きな犯罪は戦争である。なにも攻撃する理由がなく、もっぱら自分の都合だけで、アメリカはイラクにたいして爆弾の雨を降らせ、子ども、老人など市民を無差別に殺した。このような話しあいもなにもなく「力こそ正義」という野蛮な戦争犯罪が公然とやられ、日本の政府がそれに臆面もなく加担し、日本の若者をその人殺しに派遣するというような大犯罪を正義といってやろうとしている。犯罪が正義とされ、人間ならぬ動物の世界と化したこの社会状況が現代の青少年の目にどう映るか。青少年の是非判断基準がマヒし、まねをする子があらわれるのも不思議ではない。

  社会進歩を目指す教師・親世代の斗い不可欠
 とくに近年の文科省による「個性重視」「興味と関心の尊重」という教育改革をへて、学校と子どもの様子が極端に悪くなったことはだれもが指摘していることである。祖父母、父母のなかでつちかわれてきた民族的で人民的な健全なイデオロギーを破壊し、子どもたちを腐敗させるということが、意図的な政策としてやられてきており、このなかで残虐な人殺しが育っているといわなければならない。
 長崎などの事件は、性的な「興味と関心」で、見境ない攻撃をするという排撃的な自己主張のあらわれである。文科省は「個性重視」といって、「自由と人権」を叫び、「出来る子も自由」「出来ない子も自由」といってグループ分けをして露骨な差別選別をしたり、「子どもの自主性を尊重して教師は指導してはいけない」などと指導し、教師が乱暴な言葉を使ったり、殴ったりしたら「暴力教師」「虐待」と騒ぐ、一部の生徒や親の主張を商業マスメディアがとり上げ教師を袋だたきにするといった状況がある。そして「勉強さえ出来ればなにをしても良い」といった調子で、子どもが好き勝手をする「子ども天国」にし、学校の教育機能を無残に崩壊させているのである。
 いわば動物状態から人間に成長する過程の子どもを教育するのではなく、放し飼いにして、幼児的な大人、すなわち大人の動物をつくろうとしているのである。それが「アメリカのすすんだ教育だ」というのである。そして一世代前の世代、とくに戦争を体験したような祖父母、曽祖父母の世代には想像がつかない人間が育ちつつある。他人の痛みがわからず、自分の興味、自分の利益のために平気で人殺しをする人間、それこそ安上がりなアメリカ下請軍隊をつくる方向である。
 人殺しか平和の担い手か、それは現代の子どもをめぐる鋭い対立となっている。そして地域、父母、学校現場では、自由放任の教育崩壊ではなく、人民的なモラルを教えなければならないという力は確実に大きくなっている。教師が平和で豊かな社会を願う勤労父母、戦争体験者など地域の勤労人民と深く団結して、人民的な思想を教育する使命がきわめて大きい。同時に、勤労父母、現役の世代が戦争への道、弱肉強食の生活破壊とたたかい、社会を正しく進歩発展させる労働者的、人民的なイデオロギーを勝利させるためのたたかいを再建することが待ったなしの課題となっている。そのために、「自由、民主、人権」というアメリカ・イデオロギーをかかげて、平和運動、民主運動、労働運動を破壊してきた労働貴族層の抑圧をうち破ることが不可欠である。


                 少年の凶悪事件をめぐる声

      「成績」だけでなくまともな人間育てる教育を
                               下関市被爆者 佐野喜久江
 わたしは毎日毎日起きる殺人事件にあきれてものもいえない思いです。被爆者として言葉にあらわせないような心境です。最近は「勉強、勉強」ばかりの子にかぎってよく事件を起こしています。とにかく人を思いやる心が欠けています。自分のことだけで相手のことがわからなくなっているのでしょう。自分の興味だけの世界で動いていて、4歳の子どもを12歳の子どもが殺して、人間ではなくなっています。
 なぜあのような子どもが生まれるのだろうかと心が痛みます。こんなことをして親、兄弟がどんなふうに見られるかなどまったく考えられないのでしょう。そんな人間ばかりふえたら世の中がダメになっていきます。
 わたしは、親の教育もたいせつだと思いますが、それ以上にいまの社会が自分さえよければ人はどうでもいいという社会になっているではないですか。失業者はあふれて、倒産はあいついで、いまから日本がどうなるのかもわからなくなっています。そのなかで学校教育も、子どもは先生や親を友だちくらいにしか思わず、尊敬するという気持ちがありません。だから先生を殺したりという事件もありました。わたしたちに思いもよらぬ事件が毎日のように起こっています。
 昔は、先生のいわれることは神様以上でした。先生と親の仲がよく、問題の子でも連絡をとりあってやっていました。先生が親の生活や子どもの気持ちをよく知って、自分のお弁当をあげたりしていましたが、いま先生もそんな余裕もなくなって、いまの子どもの気持ちもわからないのだろうと思います。
 これから学校ではまともな人間を育てる教育をやってほしいと願います。下関の小中高生平和の会のような、戦争体験者や被爆者の体験を学んで思いやりのあるいい子どもたちを育ててほしいと思います。あのような活動がもっと大きくなったら、平気で人を殺すような事件など起こらないと思います。学校でも1+1=2という教育だけではなく、平和の会のような勉強をどんどんやっていってほしいと思います。
 いままでわたしは原爆展やいろいろな場所で被爆体験を語ってきました。いつもこれが最後になるのだろうかと考えながら、体験を語ってきました。話をするたびに涙が出ます。はやくまともな社会になってもらわないといけないし、そのために体験を語り伝えることは残されたわたしたち被爆者の使命だと思っています。


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