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なぜ負ける戦争をやったか
第二次大戦の真実語ろう
             戦争体験者が本音語るとき    2006年9月15日付

 第2次大戦の真実をめぐって、80代から90代となった戦争体験者がほとばしるように語りはじめている。戦後61年たった日本の現状がとんでもないところへ来ており、戦争で死んでいった人たちがなんといって嘆くだろうという思いが押さえきれないものとなっている。とりわけ、1銭5厘の召集令状で戦争に引きずり出され多くの戦友を失った兵隊経験者は戦後犯罪者のように扱われ、戦争を引き起こした天皇や財閥、政治家や官僚、マスコミ指導者などは1部の軍部指導者だけに責任をかぶせて初めから平和主義者だったような顔をして、今アメリカのために国を売り、戦争をしようとしていることにいいようのない怒りを語っている。どうして、負けるとわかっている戦争に突入し、負けがはっきりしており殺されるのがわかっているのに戦争をやめなかったのか。この問題は、体験者の実際体験にもとづいて、若い世代とのあいだで大論議をしなければならない。体験者の意見を紹介したい。

    ”「日本軍がいる」と中国で無差別爆撃した米軍” 北九州市長原 久一
 わたしは昭和15年7月に徴兵検査で第2乙種合格となった。これは有事勃発で召集される補充兵なので当分、召集はないと思っていた。しかし昭和16年5月、会社の作業場で働いていたときに呼び出された。そこで渡されたのが1銭5厘の切手1枚で人の生命も自由にできる赤紙の召集令状だった。
 岡山の陸軍に入隊し、3カ月の教育を受けて外地に出発した。「スパイがいるから」と行く先も知らされなかった。完全軍装で岡山駅まで4`行軍したが、憲兵が両脇を護衛し面会にきた家族と話もさせない。囚人同様の扱いだった。軍用列車も車内は外部と遮断され上り線か下り線かも分からなかった。広島駅で下車し、翌朝、貨物船で宇品港から出港した。
 翌日、甲板に全員整列させられ、そこで輸送指揮官が「日本本土とお別れする。いつ敵潜水艦から魚雷のお見舞いを受けるか分からないから全員心の準備をしておけ」といった。しばらくして「山東省青島港に入港する」と行き先が知らされた。
 上陸すると補充兵受領に来た下士官が「占領地は点と線で結んだ大陸の1部で周囲はみな敵である。どこで襲撃を受けるかわからない」と実弾30発を支給した。
 はじめての戦斗は昭和16年12月。八路軍と斗うのだが、狙って撃つようなものではない。体は「ガタガタ」震え、夢中で撃ちまくるものだった。小銃は2時間以上連続射撃すると、銃身が焼けて使用不能になり、水をくんできて銃身を冷やす状態だった。
 その後は漢口、九江、岳州と揚子江近辺ではそんなにひどい戦斗はなかったが、大東亜戦争で変化した。敵の通常装備も兵器も米国式。日本軍は明治38年以来変わっていない38小銃で1発銃弾をこめて「パン!」とやるが相手は自動小銃。昭和20年代に入ると戦斗をやればやるほど犠牲者が出る状況になった。
 日本軍の補給も届かない。重要な作戦はパラシュートで銃弾や食糧が届くが作戦用の分量しかない。兵員が送り込まれてきても弾薬も食糧も不十分。武器は銃剣、食糧は現地調達、それでたたかえという状況だった。終わり頃は戦争より食糧探しが優先されていた。
 米軍機が飛び始めるのは日本軍がヘトヘトになってきた昭和18年頃だ。昼間は動けず、夜にご飯を炊いていたが、その煙が上がった地域一帯を無差別に爆撃する。アメリカは「日本軍がいる」といっては、中国のいろんな都市を民家もふくめ無差別に焼き払った。これはアフガンで「ビンラディンがいる」と全土を焼き払ったのと同じやり方だ。
 米軍は中国戦線で野戦病院も爆撃した。建物に赤十字の印があれば国際法上攻撃してはいけないはずだが、戦後「手前を狙ったが外れた。誤爆だった」とごまかしている。これもイラク戦争での「誤爆」とそっくりだ。「パールハーバー」などといって日本本土に空襲をやり、原爆を落としたことも言語同断だが、これがアメリカだ。第2次大戦はまだ終わっていない。
 最近、よく「アメリカに守ってもらう」というが、アメリカを信用することはできない。戦後の教育では「自由」といって日本人が骨抜きにされてきたが、日本は自分で守るしかない。若い人に本当に国を大切にする日本人の心を伝える必要がある。

      ”模造飛行機が並び残飯あさりをしていた戦地” 下関市河野 宏逸
 自分は昭和19(1944)年12月に、山口の315師団に入隊、たった1週間の教育訓練を受けただけで博多から釜山へ、朝鮮から旧満州、北京を経て、京漢線を南下、南京郊外の下関の部隊集結地に着いた。
 毎日、玄武湖周辺の駆け足訓練や演習などでさんざんしごかれた。南京の陸軍航空隊に使役にもいったが、そこで見たものは、模造の飛行機が並んでいるだけで、自慢だった戦斗機「隼」の影すらなかった。すでに腹一杯食べられるほどの食糧もなく、残飯あさりをする兵隊も少なくなかった。
 1カ月ぐらいがたって、揚子江沿いの完全武装の強行軍が始まった。雪の中、雨の中、空襲を避けての夜間だけの鉄道線路行軍など、新兵の自分などには難儀なものだった。次次にくたばるものが出て、ロープで結んだり、3人で騎馬戦形の上に乗せたりし、銃と装備は他人が運んだが、それは全体をくたばらせたので1日で止めた。まさに、「落伍は死」を意味した。4つの省を経て旅団本部のある咸寧に到着したときは、入院による脱落、戦病死で3割の兵士を失っていた。
 ここで旅団長の訓辞があって解散した途端、米軍戦斗機P51一機が飛来、低空から機銃掃射をしてきた。幸い犠牲者は出なかったが、こんなところに米軍がいるのかと驚いたものだ。米軍といえば、このあと南京に駐屯していたときに、毎日午前10時頃、定期便のように爆撃機B29が10機1編隊で上海方面に向かい、1機が12発ずつ爆弾を投下するのを見た。あとで聞いたことは、米軍は軍需関係の工場や施設には爆弾を落とさず、民間の住宅や施設を狙って落としたという。
 1200`の強行軍を終わって、白霓橋に着いてからは、通山方面の八路軍討伐の連続だった。それは戦死や負傷の多い激戦となった。勝ったこともあったが負け戦は惨めだった。戦斗が終われば夜明けを待ってまず負傷者の後送、戦死者の遺体を1カ所に集め油をかけて焼く、そのくり返しにうんざりしたものだ。
 なにせわが方は、中隊といっても40人ばかり(通常の編成なら約90人)、しかもそのうち古参兵は10人程度、あとは自分のような新兵だった。それに軽機関銃も1挺だけ(普通は1個中隊に3挺)、小銃も命中率の高い38式銃はもうなくて、99式だった。
 相手の方は自動小銃を持っていた。それに「7度死んで8度生きる」というのか、死を恐れなかった。そして、負傷者や戦死者をわが方に残すこともなかった。敗戦になって自分らは八路軍に武装解除され、翌年上海から復員するまで糧秣の供給を受けたが、昨日までの敵に対してもきわめて紳士的で、恨みを買うようなことはなかった。
 日中戦争は盧溝橋で、中国軍が発砲したから始まったといわれていたが、実際に侵略戦争だった。何でよその国に軍隊を送りこんで戦争しないといけなかったのかとつくづく思う。それがアメリカとの戦争までいった。自分は戦前丸山町に住んでいて、仲の良い4人で出征前に写真をとったが、うち1人は鹿児島から「○○方面に行く」と葉書を1枚くれたのが最後、他の2人も生還しなかった。戦争で殺されるのはいつも自分ら労働者や庶民だった。
 自分はこのあいだ、原爆投下について「アメリカに謝罪を求める」署名をやった。あれだけむごい形で女や子どもを殺したのだから、頭を下げさせんとだめだ。なのに小泉はどうか、次は安倍とかいうが、みんなアメリカにまかれて文句の1つもいえない。戦後61年もたっているのに本当に情けない。明治維新の高杉晋作のような若い人が、イギリス領にされようとしていたこの彦島を守った。大したものだ。「現代の晋作出てこい」といいたい。
(彦島在住)

      ”なぜ原爆投下まで戦争をやめなかったか疑問” 下関市傷痍軍人
 私は昭和12年、21歳のときに召集されて入営した。まもなく支那事変が起こった。中国の桂林、上海、南京、漢口、長沙などにいった。
 はじめ自動車部隊に配属になり、前線に食糧を運ぶ仕事などしていたが、戦場というものは哀れなものだ。日本軍は後退は許されず、前進あるのみ。あるとき、戦斗中に隣にいた戦友に「いくぞ」と声をかけた瞬間、全く動かなくなった。見ると鉄兜から脳にまともに弾が貫通し、そこから脳ミソがでていた。語れば語り尽くせないが、それが戦場だ。
 第2長沙作戦で荊門(けいもん)にいたとき、胸に弾が貫通し、肩に弾が入り、恥骨もやられ野戦病院に運ばれた。野戦病院には前線で負傷した人たちが次次に運ばれ、凍傷を起こしている者、爆風でやられた者などが多数いた。被弾したとき弾と一緒にガスがつくと、その場合はガス抜きをしないといけないが、手遅れであればふくらはぎの傷であっても膝上くらいから切断しなければいけない。そうして切断される兵士もいた。
 私は、漢口の第1陸軍病院に送られ、その後小倉の第1陸軍病院で手術を受け、大津海軍病院、東京第1陸軍病院を経て習志野隊に配属になったが、しばらくして除隊となった。昭和14年ごろのことだ。
 そのころの日本は、まだまだ勝ち戦といわれていた。しかしそのうち、自分たちの出征のときには皮製だった、鉄砲を提げるものも皮でなくなった。1番驚いたのは水筒が竹筒になって出征していく兵隊の姿を見たときだ。日本は戦争に負けると思った。
 日本はサイパン島陥落や各地で玉砕がいわれていたのになぜ、戦争を止めなかったのか。
 最近、「天皇メモ」ということがいわれているが、天皇陛下はあんまりだ。みんな、天皇の命による赤紙で出征し、「天皇陛下のため」「お国のため」と死んでいったのではないか。それでは亡くなった戦友、兵士たちはどうなるのか。
 開戦のときに御前会議がもたれ、そこで“戦争をする”と決めたのではないか。それならばなぜ、そのときに“戦争はしない”といってくれなかったのかと思う。そしてまた、アメリカが原爆を落とす前になぜ“戦争をやめる”といってくれなかったのかと思う。
 アメリカは東京でも大空襲をやり、各地で空襲をやった。日本の外地でのことも知っていたはずだ。それなのになぜ、女、子ども、乳飲み子をも関係なく無差別に標的にした非人道的な原爆を落としたのか。さらに実験であれば広島だけで十分であったはずなのに、なぜ長崎にまで落としたのか。日本人を見下している。牛肉輸入でも、日本人には何を食べさせても構わないと思っている。アメリカは日本のことは考えていない。
 イラク戦争も、フセインが悪かったということはあるだろうが、大量破壊兵器は結局なかった。石油などの地下資源が欲しかったのだろう。核兵器も自分が1番持っているのに、他国は持つなというのはおかしい。
 今の日本は情けない。特に政治と教育が問題だ。小泉首相は外国に何億jという戦費を差し出すが、すべて税金ではないか。政治は本来みんなのためにあるものだが、国会議員を筆頭に自分たちの金がなくなれば国民の税を上げて搾り取ればいいとなっており、本末転倒だ。そして教育も崩されてきている。こんな日本は見たことがない。日本はこんな国ではない。みんなで協力し合い助け合って、日本の国は日本の力で立て直さなければいけない。

        上関でも怒り共通 “いつでも国策で痛い目に”
 【上関】 60年前の悲惨な戦争の経験は、上関町の人口の半分を占める年寄りの胸にも忘れてはならない体験として深くきざみこまれている。近隣では、米軍岩国基地の再編・強化問題が持ち上がるなどふたたび戦争のきな臭さが強まるなか、平和を願う強い思いとともに、アメリカの植民地のようにされている日本の現状とあわせ、「なぜ負け戦を突っ走ったのか」「無駄死にした意味はなんだったのか」との共通した怒りが渦巻いている。
 南方にかり出されていた80代の体験者は、「上関は、戦中も戦後も国策で痛い目にあってきた。戦争はエライさんたちには、痛くもかゆくもないもの。敗戦の何年も前から負けるのははっきりしていたのに、なぜはやく終わらなかったのか。無念のうちに死んだ戦友や部下は数えきれない」とはがゆさを押し殺して話す。
 「ミッドウェー海戦に参加し、その後は南方を転転とした。何の効果もないのに毎晩アメリカの機関銃に向かって、数10人ずつ切り込み隊もやった。最後の2年ほどは、武器、弾薬どころか食糧もなく、猿の食べ残した木の実やヘビ、草木を食べて飢えをしのいだ。栄養失調で死ぬ者は、1週間ほど前から足がたたなくなり気がつけば息をひきとった。部隊の中はぐちゃぐちゃで、名前も出身地もわからぬものがほとんどの状態だった」と語る。
 「今の日本は、アメリカの属国以下だ。親が子を殺し、子が親を殺す乱れた世になったが、よその国に愚弄されているのに黙って従う政治のせいだ。原爆を落とされた広島湾岸にアメリカの空母が入り、戦斗機が我が物顔で飛び回るのを許してはいけない。アメリカが日本を守るわけはないんだ。兵隊にいったものは、悪者扱いでずっと黙っていたが、日本人の誇りも歴史も捨ててはいけない」と強い口調でいった。
 陸軍にいた80代の体験者は、「昭和18年(43年)には、はっきりと負けとわかった。護送船はなく、油もない。その上南方にいく船は撃沈されるばかりだ。鉄砲もなく、内地と同じ竹槍戦法みたいなこともいっていたが、補充されてくる兵隊も、40代や50代の徴兵検査で合格しなかったような年寄りばかりをひっぱりだしてきた。軍隊と呼べるようなものではなかった」と体験を話した。
 「戦後は、“天皇陛下万歳”と叫んで突撃しろと教育された若い兵隊たちは、物陰に隠れることもせず死んでいったのに、上の人間は、手のひらを返したようにアメリカに従っていった。内地に帰ってきた兵隊は、まともに職にもつけず苦労した人もいる。無駄死にした戦友にたいし申し訳ないとの気持ちで生きてきたのに、最近では、天皇は平和主義者だったような話もされ、また戦争が近づいているように感じる。2度と戦争を許してはならない」と話した。

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