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熱気帯びる被爆市民の交流
長崎「原爆と戦争展」
            戦争の危機に強い危惧   2009年6月17日付

 長崎市の西洋館で14日から開かれている第5回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)会場では被爆者や戦地体験者、被爆2世、若い世代まで熱心な参観が続いている。
 会場では、受付や案内などを担っている「長崎の会」の被爆者たちが市民を温かく迎え入れ、活発に交流を深めている。身近に接近してきた新しい戦争への危機感とともに、お互いに語ってこなかった凄惨な被爆体験を時間を忘れて語り合い、戦後60年にわたってベールに覆われてきた被爆の実態、市民の口を封じてきた構図について底深い思いが語られている。
 老人福祉施設から集団で訪れた年配者たちは、テーブルを囲んで盛んにお互いの体験を語り合った。
 被爆婦人の1人は、「私の家はたくさんの漁船を持っていたが、戦争が末期になると御用船としてすべて国に没収され、幼い兄弟たちを食べさせるために、13歳で女学校をやめて働きだした。原爆ではたくさんの友人が行方不明になり、市内に捜しに行くと電車の中で立ったまま黒コゲになった死体や真っ黄色になって唇を膨らませて死んでいる赤ん坊がイモのように積み重ねてあった。長崎市民はまるで虫のように殺されたんですよ!」と涙を押し殺して語った。
 「今は戦争を知らない人が増えて、田母神のような若造が“戦争は正しかった”などと平気でいっているのを見ると虫ずが走る。戦争になれば人権も、プライドもあったものではない。13歳で青春を奪われ、原爆で苦しめられた年寄りはまた搾り取られている。私たちは戦争という石の上で生きてきたが、柔らかい羽毛の上で生活してきた人間がまたくり返す。こういうときに若い人たちに現実を知らせないといけませんよ!」と激しく語り、最終日におこなわれる交流会に参加する意欲を示した。
 台湾で憲兵隊をしていた男性も、「台湾では、飛行機の燃料をつくるといってサトウキビ畑をつくっていたが、そこに米軍のグラマンが機銃掃射して隊員の半数が即死した。私は憲兵隊として全員を帰して昭和26年に帰国したが、戦後はその米軍が日本を守るといって幅を利かせている。そんなバカげたことはない」と胸の内を語った。
 夫婦で訪れた80代の婦人は、「弟は医専(現・長崎大学医学部)で授業を受けているときに被爆したが、まわりの生徒が黒こげになって死んだなかでも無傷で帰ってきた。でも10日後に母校の長崎中学校歌を歌いながら死んだ。内臓をやられていて口からは血の泡をカニのように噴き出して死んだ」と話した。市職員だった長兄は城山(爆心地から500b)の自宅で布団の上に寝たままの格好で白骨になっていたという。
 「叔母2人は松山町で床屋をしていたが2人とも膝から下が引きちぎられた姿で見つかった。私のいた伊良林小学校でも、毎日のように負傷者が運び込まれて焼かれていたが、今でも骨が出てくると思う。戦争を起こすのは簡単だが、罪のない人がいつも犠牲にされる。絶対にくり返したらいけませんよ!」と激しく思いを伝えて、賛同者になった。
 満州から引き揚げた男性は「日本に帰ればなんとかなると思って1文無しで父の実家に帰ったが、親戚が原爆で全滅していたので頼るところもなかった」と語り、「最近の政治を見ているとアメリカ寄りの政治が当たり前になって、また同じ目にあうのではないかという危険を感じる。北朝鮮問題が起きてからマスコミも戦争を煽るような記事ばかりが増えてきたので、朝日新聞に抗議の電話をしたところだ。アメリカに原爆を落とした責任があるというのなら、まずは日本に謝罪をして、自分から核兵器を廃絶するべきではないか」と思いをぶつけた。
 退職教師の79歳の男性は、「15歳で海軍士官学校に行き、戦地に行く直前に終戦になり、すぐ上の先輩たちは特攻隊で死んでいった。天皇陛下が神様だと教育されてきたが、戦後はコロッと変わって民主教育といい出した教育に対する不信感で1杯だった。今は日教組にも反骨精神はなくなって文科省と一緒になっている。かつては社会不安を煽って“戦争をすればいい”という空気がつくられて貧乏人が戦争に連れて行かれたが、今も経済不況がつくられて戦争熱が煽られている。この格差社会を解決しなければ戦争はなくならない。残された人生を戦争をなくすために尽くしたい」と話して賛同者となった。
 「毎年きている」という人や、深く頭を下げていく年配者も多く、「原爆と戦争展」を通じて真実を語る場ができたことへの喜びとともに、戦争をくい止めるために行動を求める思いが口口に語られた。賛同協力者として3日間で新たに41人が名乗り出ている。

 被爆2世や現役世代 事実のもみ消しに憤り
 また、被爆2世や現役世代の真剣な姿も目立った。
 被爆2世の男性は、「母の姉妹が山里小学校の教師で、いまだにどこで死んだのかもわからない。その姉妹を捜しに行った母は私が4歳のときに白血病で亡くなった。就職するときになって自分が被爆2世であること、実母は4歳のときに死んでいたことを初めて知った。伯父はビルマで戦死したが、いつも証言するのは一兵士ばかりで上層部はバックに隠れて常に事実をもみ消そうとしている」と怒りをにじませて語った。
 「戦後の長崎でも、原爆の真実はもみ消されてきた」と語り、「浦上天主堂も残していたら広島の原爆ドームに匹敵する象徴になったはずだが、すぐにカトリックが建て替えた。自分の通っていた稲佐小学校、長崎商業高校、爆心地近くの山里小学校、長崎工業高、渕中学校、新興善小学校もすべて新しい校舎に建て替えられて、被爆当時の面影はまったく消えてしまった。溶けた鉄骨が残っていた三菱製鋼所もすべて取り壊されて、長崎新聞が建てられている。カトリックや三菱がアメリカの意向を汲んだのではないか」と話した。
 また、「聖フランシスコ病院には、ABCCの黒塗りの高級車が毎日のように入ってきて遺体を持って帰ったり、被爆者の血を抜き取っていった。そうやって実験材料にしておきながら、被爆者からは奇形児が生まれるとか、70年草木も生えないという噂を流したので市民は被爆したことを隠すようになった。広島と長崎が切り離されてきたのもアメリカの戦略だったのだ。今そういう事実を伝えていかないといけない」と語り、カンパを寄せた。
 三菱の現役労働者(50代)は、「アメリカに頼らなければやっていけないという日本の政治自体に腹が立つ。アメリカは核を自分だけが持って他人には持たさないと主張して、イラクでも無差別殺人をしている。日本はアメリカの食いものだ。佐世保の米軍は高速道路もタダで、水や電気も使いたい放題。公にしないが空母に核兵器を積んで長崎にきている。原爆展を見れば見るほど、このままではいけないと感じる」と切実な思いを語った。
 また、大学生やアメリカから原爆について学びにきた大学教授、北海道、福岡、東京、栃木など全国から訪れた人人も熱心に参観していった。

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