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熱気溢れる被爆市民との大交流
広島「原爆と戦争展」
             全国・海外の参観者と固い絆     2008年8月5日付

 広島市中区袋町のまちづくり市民交流プラザで開かれている第8回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)は5日目を迎え、近づく8月6日に向けて熱気のこもった交流がおこなわれている。広島市内から訪れる年配者、会社員、家族連れなどに加えて、次第に全国、海外からの参観者も増えはじめ参観者は1000人を超えた。被爆者や戦争体験者が連日、会場で体験を語り、若い世代に働きかけ5日間で新たに124人が賛同者に名を連ねている。「広島から戦争を阻止する運動を」という被爆市民の熱意は、全国の人人の切実な思いと強く響きあって結束をつくり出している。
 会場には、毎年来ている被爆市民をはじめ、中国や南方戦線、満蒙開拓少年義勇隊、沖縄守備隊などの戦地体験者など、夫婦や知人同士などが連れ立って訪れ、「広島の会」の被爆者や戦争体験者とお互いの体験を語り合い、交流を深めている。
 材木町(現・平和公園内)にあった自宅ごと家族を原爆で失った男性は、「自分は宇品の軍需工場に動員されていて直爆はまぬがれたが、家には姉が残されていた。燃え盛る市内を急いで家のある材木町まで走って行ったが、橋が崩れて元安川を渡ることができない。しかたなく中電本社から見ると辺りは焼け野原だった。一週間後に父と焼け跡を捜しに行くと、玄関付近で姉の死体が見つかった。ピカッと光ったとたんに伏せたままの姿で黒コゲになっていたが顔だけははっきりと残っていた…」と涙で声を詰まらせた。2人で木ぎれを集めて、遺体を火葬して骨を持ち帰ったことを語り、「この辺りの住民は全滅し、私が育った街はその歴史ごと消されたも同然だ。その怒りは忘れるものではない」と怒りを噛みしめるように語り、再来することを約束した。
 同じく平和公園内の中島本町で飲食店を営んでいた男性は、「五日市に疎開していた母と弟に配給の醤油を届けに行っていたため助かった。家は跡形もなくなっていた」と語り、被爆後に火の海となった中心部に入ったため大火傷を負い、今も膿むため包帯で巻いている両足を見せた。
 「中島本町ではマンホールをこじ開けて飛び込み、何人も頭を突っ込んで死んでいた。家族もろとも家を吹き飛ばされ、絶望して自殺した同級生もいる。戦後は進駐軍がジープで走り回り、父がバイオリンを弾けることを聞きつけて、宇品の凱旋館でのダンスパーティーに連れて行って演奏させていた。いくら屈辱でも、当時は占領軍に逆らうことも、原爆慰霊碑を建てることも許されなかった。街はまるごと平和公園として整備され、面影一つなくなっている。これも占領政策ではないか」と憤りをぶつけ、協力を申し出た。
 広島の会の婦人とともに集団で訪れた婦人の一人は、大竹から義勇隊として広島市内に動員された父親が「全身ジャガイモの皮がめくれた」ような姿で帰ってきて、苦しみながら亡くなったことを語った。「大竹義勇隊の一便目は電車内で全滅し、数十軒が一晩で大黒柱を失った。終戦前日には隣の岩国大空襲があり、“もう明日はない命だから”と覚悟して家にあった米を炊いて食べるほど疲れ切った生活で終戦を迎えた。父は、何度もABCC(原爆傷害調査委員会)に連れて行かれたが治療はされず、最後は自分で傷口にわくウジ虫を取り除きながら、“畜生! アメリカ人を連れて来い!”と叫んでいた。当時は、米軍の文句をいうと処刑されるといわれていたが、父の気持ちは痛いほどわかった」と話した。
 また、「戦争が近づくにつれて貧困化が進み、食べるものもなく、生活に追われるようになる。ただ飢えるという問題だけではなく、政治について考える余裕はなくなり、国民が口を挟む余地のないまま戦争に入っていく。貧困と政治はいつも結びついていると思う」「最近は、北朝鮮が攻めてくるから軍事力で対抗しようという雰囲気があるが、戦争で得する国民はいない。国民がどんな目にあったか考えるべきだ」「戦後は、田畑があったから食べ物を確保できたが、今は食料自給さえできない国になった。この政治から変えないといけない」と他の婦人たちとともに論議が広がった。

 各地で原爆展広げたい 全国の参観者も意欲

 全国から訪れている学生や親世代も、パネルや被爆者の声に衝撃を受け、各地の居住区で行動していく意欲を示している。
 大阪から子どもを連れて参観した母親は、涙を拭いながら被爆者の体験を聞き、「子どものための平和学習と思って連れてきたが、親として知らないことの多さに衝撃を受けた。苦しみを乗り越えて、二度と戦争を起こさないために行動している被爆者の声を全国に広げていくためにできることをやりたい」と語り、帰省後に子どもの通う学校で原爆展を開く意欲を語った。
 東京都内の大学から毎年訪れている男子学生は、広島の戦後史について研究していることを明かし、「毎年、被爆者の方の熱気に圧倒される。大学では、企業と連携して金儲けに結びつく理系には研究者としての道があるが、文化系は大学院でも道が閉ざされており精神疾患になる人も多い。被爆者の話を聞けば聞くほど、日本の戦後史にいかに隠された事実が多いかがわかる。ぜひ、これからも学んでいきたい」と意欲をのべた。
 アメリカから京都の大学に留学している学生は、「帰国する前に絶対に広島に行きたいと思ってきた。第二次大戦の性質について自分の知っていることと実際があまりにも違い、衝撃を受けている。とくに日本の都市空襲についての資料はアメリカではまったく手に入らない。沖縄でも住民が隠れている洞窟にガソリンをまき、火炎放射器で焼き殺したことなど知らないことばかりだ。こうした事実はアメリカでも知らせるべきだ」と語り、スタッフに握手を求めた。インド人やドイツ人、オーストリア人の大学教授など各国から来広した外国人も一様に共感を表していった。

 被爆者と若者の交流も 原爆展会場内で

 4日には、会場内で被爆者と若い世代の交流会が開かれ、学生や被爆二世、社会人青年、外国人など約15人が参加した。
 体験を語った被爆者の野間知枝氏(80歳)は、女学校3年生で広島駅前郵便局に動員され、原爆の光を右半身に受けて、生死の淵をさまよった経験を語った。
 「朝礼が終わって外に出ようとしたとき、上空をB29が音もなく不気味に飛んでいるのを見て、“あれ”と口にした瞬間にブルーの閃光が目の前を走り、ドンッという音とともに真っ暗になって気を失った」こと、ガレキのなかから助け出されて運ばれた東練兵場では「魚を並べたように死体や怪我人が寝かされ、スイカのように頭が丸く膨れた兵隊さんなどが“水をくれ”“助けてくれ”と口口に叫ぶ生き地獄としかいえない情景だった。母に見つけられたときは髪も焼け、全身ヤケドで皮がまくれ上がり“こんな姿なら死んだ方がましではないか”と思うほどの姿だった」ことなどを語り、必死で食べ物を探して食べさせてくれた母親への感謝をのべた。
 「父は川内義勇隊で中島本町の建物疎開に行ったきり他の町民と一緒に全滅し、遺体を捜しても見つからなかった。おそらく本川に飛び込んで流されたのだと思う。戦争中は、国内では“勝った、勝った”と騒ぎ立てて提灯行列までやらせていたが、日本政府は実際には武器も食糧も持たせずに兵隊を戦地に送っていたし、背後では三井や三菱など武器商人が戦争を迫っていたことを知った。アメリカも真珠湾攻撃をさせるように仕向けて、日本を占領した。日本が平和を守るためには、このような会をたくさんつくって、団結していけば戦争を阻止できるのではないかと思っている」と話した。
 参加者からは、「どうして体験を語ろうと決意したのか」「どうやって苦しみを乗り切ってきたのか」などの質問や、「戦後の広島では世界で最初の“原爆反対”の集会が開かれたとパネルにあったが、運動のなかでどんな妨害があったのか」などの質問が出された。
 参加した被爆者からは、「広島では占領軍によって“原爆については語るな”というプレスコードが敷かれ、市民が被爆体験を語ることや怒りを発することは抑えつけられていたが、五〇年八月六日に市民が命がけでそれに反対して突破口を開いた」「その後、世界大会まで開かれるようになったが、共産党系の原水協と社会党系の原水禁に分裂して、党利党略で運動を利用したり、右翼と慰霊碑の奪い合いをするなどして市民とかけ離れていった。平和式典も形式だけのものとなり、市民は運動から離れていった」ことなど内部から崩されてきた歴史についても論議された。
 男性被爆者は、「当時は、学校でも原爆を教えてはならないという通達が国からおろされていたし、被爆者援護も12年間はまったくなかった。これはアメリカの機嫌をうかがって日本政府が原爆後遺症の苦しみを公表することを恐れたからだ。最近では、国民保護計画などといって、核攻撃にはカッパを着て風上に避難すればよいなどのバカげたマニュアルを作って戦争準備をしている。アメリカ追随の政治に問題がある」と語った。涙を拭いながら体験を聞く学生や「これを仲間にも伝えていきたい」と意欲を語る社会人など、それぞれの思いが交流され、「全国と結んで広島で活動を広げていこう」と締めくくられた。
 「原爆と戦争展」は7日までおこなわれ、5日の午後1時からは被爆者を囲んだ交流会、午後4時からは会場ロビーで全国被爆者交流会が開かれる。

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