トップページへ戻る

熱気帯びる読者の総括論議
               5月の記念祝賀集会に期待    2010年4月23日付

 長周新聞創刊55年、戦後65年を総括し5月16日の記念祝賀集会を、平和で豊かな日本をつくる新しい時代を切り開く出発点にしようという読者の総括論議が熱気を帯びている。今号では長周新聞創刊55周年記念祝賀集会実行委員会が2月に発足して以後、本紙紙上で掲載されてきた「長周新聞創刊55年、読者の総括意見」を特集する。

 日本動かす庶民の全国団結支える役割に期待   下関市彦島在住 河根金四郎

 私が長周新聞をとり始めたきっかけは峠三吉の原爆展パネルを見たことでした。もうじき3年がたちます。長周新聞というのは普通の新聞では書かないことを書いており、下関市政をとっても普通では流してしまいがちなことを「こんな風に見るのか」と知ることができます。また自分の考えていることがはっきり書いてあり非常に励まされる気がしています。私自身、下関市長選のとき、中尾氏に「本当に下関を変えていくんだったら応援する」といった身ですが、中尾市長の公約破りには本当に腹が立ちます。老人休養ホーム・満珠荘も今まで通り再開すれば良いのに、なにをぐずぐずしているのかと思っている間に新市庁舎の公約までひっくり返しました。市民の声に耳を貸さない、そんな者に市長をやる資格はありません。
 国政も同じです。政治家の献金問題ばかり騒がれて、基地問題ひとつとっても情けないです。徳之島、岩国、沖縄など移転場所でもめていますが、無くせばいいんです。しかし日本の政府というのはアメリカの機嫌ばかり伺って、傘の下からちょっと首を出して、ぬれるよりいいかというあんばいです。私たち戦争体験者からすればなにがオバマか!! というのが本音です。
 市政も国政も日本の政治家というのは親の七光で力も持っていて、庶民の意見も聞かずになにごともスーッと行きます。本当に庶民の気持ちを受けとってもらいたいものです。私たち庶民は力は小さいですが団結してやっていくことができます。この団結の力が祝島でも徳之島でも発揮され大きな政治や権力や企業もかなわない強いものになっているのだと確信しています。庶民の力は偉大です。こういう力を支えていくのがこの長周新聞の役割であるし、この力で日本を変えていかないといけません。
 私はこの度の『原爆展物語』をとりくみましたがもっともっと若い人に見てもらい、若者の間で広がることを期待しています。私も高齢になりましたが近ごろ、なにかできるうちにしておきたい、しないといけない、と考えるようになりました。
 これからも長周新聞を読み続けるつもりですし、この新聞の中身を一人でも多くの人に読んでほしいし、どうやって広げていこうか考えているところです。この先も長周新聞とともに頑張りたいと思っています。

 真実の報道で保育園児教育発展に本領発揮 北九州市・砂津保育園園長 佐藤良子

 長周新聞とは数年前、北九州市内の認可外施設・中井保育園で子どもが亡くなる事件が起きたときに出会ってからのつきあいです。中井保育園のときは私もまだ一歩引いていましたが、その後の「児童虐待」事件のときは当事者であり、いろいろ支えてもらいました。
 「児童虐待」事件は当園に通っていた子の親が現われないため私が二年間無償で育てたことを「児童虐待だ」と行政やメディアが極悪人のように騒ぎ立てた事件です。育児に携わる者としては親から「いらない」といわれた子どもをまのあたりにして「私もいらないといったらこの子はどうなるのか」と思い、預り育てたわけですが、行政は「児童虐待だと認めろ、園長が責任をとってやめろ」という態度でした。でも認可外保育所に来る子と母親たちの生活を見ていると、「育児放棄」は社会的な問題で私が園長をやめれば解決する問題ではありません。だから「児童虐待とは認められない。育児放棄の問題はもっといろんな方面から考えないと解決しない」と初めて行政に異議を申し立てたのです。
 けれどどの大手新聞社も「児童虐待だ」と行政のいうままに騒ぐだけでした。行政の立ち入り検査を報じただけで結果は報道せず書きっぱなしでした。でも長周新聞は冷静に事実を伝え、「児童虐待とは認められない」と突っぱねたまま、認可外保育施設としての証明書が発行された結果まで報道してくれました。くじけそうなときもあったけれど長周新聞のような新聞があって幸いでした。私の心のよりどころでした。
 最初は「こういう新聞があるんだ」という出会いでしたが、長周新聞と巡り会い、物の見方がだいぶ変わりました。今まではなにかあっても「わからない」で済ませ、「なにごともなく平穏無事でいければいい」と思って生きてきましたが、「わからないで済ませてはいけない」と思うようになりました。政治の見方も今までは単純にどの政治家が好きか嫌いかという感覚だったのですがそうではないと見るようになりました。
 「あきらめて黙ったらだめだ」「声を上げないと変わらない」ということも教えられました。「児童虐待」事件のときも腹をくくってはっきりとした態度を私がとれば園に子どもを預けているお母さんたちが行政にまで文句をいって応援してくれたし、全国からもたくさんの励ましがありました。いくら行政が権力を振りかざしてきても、地域やお母さんたちと一緒に頑張っていけば正義は必ず勝っていけるということです。私はメディアがどんなものか身をもって経験したことで、岩国や上関などで頑張っている人たちの苦労が痛いほどわかるようにもなりました。いろいろな行動はとても励まされています。
 長周新聞で出ている下関の市民運動などはとても参考になります。「これではいけない」「なにか行動したい。変えないといけない」と思っている人は案外たくさんいます。でもどうやったらいいかわかりません。私もその一人でした。でもそのやり方、つまり「こういうふうに運動したら団結して解決していけるんだ」というようなことを教えてくれるのは他にはありません。これは今後もっと必要になってくると思います。
 それと最近腹立たしいのは日本丸が沈没しそうになっている危機になぜ政府やメディアはこぞってアメリカの機嫌取りばかりするのかということです。若い子が結婚もできず、子どもも産めない状況であるのに行政は認可外保育施設に通う子たちには補助もしません。でも米軍には「思いやり予算」を出し、防衛費といって自衛隊がアメリカのお古を買い、基地までつくろうとしています。なぜ戦後六五年もたつのに、鳩山首相は「基地を移転させるところなどない。出ていってほしい」とアメリカにはっきりいえないのかと思います。当然、自民党はそれ以下ですが、なぜアメリカが相手となるとどこのメディアも批判するところはなくなって、「アメリカのいうことを聞け」と騒ぎ立てるのかと思います。長周新聞の読者は義理でとっている人もいるとは思うけれど、基本は正義感の強い人たちだと思います。大きなメディアが表のつらつらしたことしか伝えないなか長周新聞には、本質の問題、とくにアメリカの本質をもっと知らせてほしいと思います。大手メディアは日日の事件やバラエティー番組ばかりで戦争についても掘り下げた報道をしませんが、戦争体験を継承していくのは非常に大切なことです。最近も「切れた!」とすぐ人を殺すような事件が増えていますが、「叱ってはいけない」と保育園のときからバカにして深く考えさせないアメリカ型の教育が深く影響しています。いろいろな問題の根本にすべてアメリカの支配が関わっていることに気づかされています。
 また保育園児の教育の大切さを肌身で感じています。人間教育に欠かせない時期であることを行政は真剣に考えてほしいと思います。長周新聞にはそうした認可外保育園や教育をめぐる実情についても、もっと発信していただきたいと思っています。今後の活躍を期待しています。

 創刊以来背骨曲げぬ長周新聞と共に進む民主主義と生活を守る下関市民の会 川端美佐子

 長周新聞創刊55周年おめでとうございます。
 私は三十数年前の豊北原発阻止斗争の頃、長周新聞の印刷工場で働いていました。その頃は鉛の活字を一本一本ひらっていました。どうしたら活字が早くひらえるか、その部署で話し合ったものです。長周新聞を少しでも早く発送するために若い人たちと一緒に頑張りました。短い間でしたがそのなかで多くのことを学びました。今でも私のなかにあるのは、何か行動するとき、頭の中であれこれ考えるのではなく、まず行動すること、そして困難が起こればそれを解決しながらやっていくこと、これまでこのように行動したように思います。長い間主婦でいて、工場で働くことが本当に新鮮で生きる喜びを感じながらの毎日でした。
 少し前から市民の会の運動に参加するようになって、市議会開会中、毎日市民の会の行動として9時から1時間、「満珠荘再開」と「市民の雇用と生活守れ」の署名を市役所玄関前でおこなうことに参加しました。毎日出て行くには粘りがいります。30万人市民のために堅持するかどうか、市民の会の根本精神にかかわるところだと思います。
 私は市民の会に参加するようになって、この「市民のために頑張る」という立場を学んでいます。
 また、『原爆展物語』は公開稽古を見ましたが、下関公演には本当に感動しました。一番印象的だったのが戦地の場面でした。極寒の満州で負傷した戦友を支えながら行軍した兵士たちを見て、私は自分の父のことを思い起こしました。父は中国で戦病死しています。きっと父も戦友に支えられ死んで行ったのだろうと悔しい思いがわきました。玉砕の場面には、死ななくてもいいのにこうして多くの兵士が無惨に殺されていったのかと怒りがおさえられませんでした。
 沖縄の場面は、カチャーシーを踊って終わりという公開稽古から、「沖縄戦の仇をうつ気持ちでやらないと、いまに沖縄に原爆が飛んで来るぞ」というように変わって本当に良かったです。だが、自分には命をかけてたたかう気持ちがあるのだろうか。高齢なのに学校を何校も回り友だちたちに訴える被爆者の方方の姿に比べると、そうなっていないのではないかと思います。
 あと10年頑張ればもっとすごいことになるなど今からの展望がわき、元気が出ました。
 市民の会の事務所にいると、高齢の方がわざわざ会費や『月刊しものせき』の代金を持ってこられます。この会員さんたちは市民の会を信頼しておられて、そのような会員さんを裏切ることのないように、市民のために私利私欲なく奉仕すること、これからは先輩の会員さんと団結して市民の会の活動を盛り上げて会を発展させることを全力でやっていきたいと思います。
 私は今、30年前に長周の印刷工場で働いていたときと同じように新鮮な気持ちで、生きる喜びを感じながらの毎日です。
 長周新聞は創刊以来、「人民に奉仕する」の背骨を曲げず頑張っています。何か起こるとすぐに長周は取り上げ、私たちにどういうことなのかを教えてくれます。これからも長周新聞とともに市民の会でやっていきたいと思います。

 民衆にとって決着が着いていない第二次大戦   萩市・退職教師 鬼池道世

 『原爆展物語』の下関公演を見た。公開練習のときには、全体にまとまりがなく、見ているとなぜかいらいらするような出来だった。それが、下関公演では見違えるような作品に仕上がっていた。この作品には特定の作者はいないという。何度かの公開稽古を積み重ね大衆の意見を取り入れてつくり出されたものだ。登場人物や、劇中で語られる一言一言が、実際のままだという。運動の原則、「大衆から大衆へ」によって、劇団はぐるま座の久久の現代劇が誕生した。永きにわたってこの原則を忘れていた。芸術の源は目の前にあったのだ。原則を忘れたことから劇団は大衆的な支持を失い、経済的にも行きづまりを来していたようだった。劇団員である私の子どもの行く末を案じない日はなかった。こんなことをやっていて、人並みの生活もできない人生を送る値打ちがあるのだろうかと。
 『原爆展物語』はこの疑いを払拭してくれた。こんな劇をやるなら誇りを持って貧乏をやっておれると思った。
 毎年この原爆と戦争展や8・6に参加してきて、あらためて思うことがある。
 この「原爆と戦争展」は、民衆の側からの第二次世界大戦の総括運動ではなかろうかと。敗戦後、ひどい目に遭いすぎて呆然としていた民衆を置きざりに、勝手に決着をつけ、民衆をだまし続けてきた者を暴き出し、謝らせなければ気がすまないという思いが湧き起こりつつある。
 私自身は敗戦時、小学2年生で、お役人の子どもで、飢えとも爆撃とも関係なく、満州から引き揚げる途中、父がシベリアに抑留され、長春で足止めされ一年間を過ごした思い出くらいしか持ち合わせはない。駅にくずの石炭を拾いに行ったこと、塩お萩をつくり、机の引き出しに並べて吉野町で売ったこと、机の引き出しに煙草を並べ売り歩いたこと、そして国府軍と中共軍の市街戦を見たこと、中共軍が勝利し、われわれ日本人の住む家に一泊したこと、そのときの中共軍の礼儀正しさ、シベリア軍の女あさり対策として、若い女性のためにその女性の子どものふりをしていたこと等等。
 しかし、日本国内での被爆体験や空襲体験、飢え、鉄砲も持たされず兵隊として連れて行かれた体験を聞くと、私なんかの体験は体験とはいえないと思っていた。
 ある日、私はぼんやりと考えていた。「中国とイギリスは99年という約束でホンコンを借し、99年で返還された。一体日本の基地はいつなくなるのか? もう戦後65年だぞ」と。
 その数日後の長周新聞に「あと何十年基地を置くのか」が掲載された。
 戦後65年、日本中に基地を置かせる支配者が日本民族としての誇りの一かけらも持ち合わせていないのが腹立たしい。
 第二次世界大戦は、われわれ民衆にとって終わってはいない。敗戦間近の学校ではよく一億玉砕で脅かされていた。子ども心に死にたいとは思わなかった。敗戦後、私はいつ自殺させられるのかという恐れをずっと持ち続けていたのを思い出す。
 まず、原爆を落としたアメリカに謝ってもらいたい。それは当然として、日本の最高責任者が、あの戦争で犠牲にした民衆に対して、なんの責任もとっていないことに怒りを感じる。それどころか、日本の責任者が大歓迎して基地を置かせ、しかも沖縄だけに負担をかけられない、みんなで分かち合おうとかいわれ、基地を全国にばらまこうとするに及んでは、考え方が逆ではないか。
 日本の民衆はもう基地はいらない。日本民族の誇りを取り戻したいと切望しているのだ。
 私たち民衆にとって第二次世界大戦の決着はつけられていない。はぐるま座の『原爆展物語』のなかの民衆はそのことをはっきりのべている。“アメリカはいらない”“天皇はいらん”と。
 そういうことをやっといえるようになった。
 
 自らの親米思想鋭く射抜いた『原爆展物語』  大阪・高校教師 日置輝夫

 『峠三吉・原爆展物語』の初演を見た。私はいつのまにか身を乗り出して見ていた。リアルだった。舞台はぐっと胸に迫ってきた。だがそれ以上に、劇は《今立ち上がらずにいつ立ち上がる、今こそたたかうときだ。お前は何をしている》と私を叱咤激励し、私の思想を鋭く射抜いた。劇はこの10年間の原爆展運動のアメリカとのたたかいを描いていた。理屈では分かっていることだったが、被爆者や戦争体験者の叫びは、体験を凝縮した塊(かたまり)となって舞台から投げつけられた。何かの感想をのべる時には大抵さわりの場面や印象に残った言葉をとりあげるのが定石だが、この劇はそんなことは許さなかった。思想そのものが問われた。
 長周新聞が今創刊五五周年記念運動のなかで戦後65年の総括運動を呼びかけているのはまことに時宜を得ている。私は70年安保の世代で、ベトナム反戦運動に参加してアメリカ帝国主義とたたかってきたと思っていた。しかし、それは50年8・6平和斗争とはまったく異質のものであった。
 親米の思想は幼い子どもの脳髄に焼きつくように仕組まれていた。小学校では英語クラブがあり横文字に対する憧れが醸成され、中学では『ジャック アンド ベティ』という英語の教科書で、アメリカの中流家庭にはプールがあり、庭で芝刈りをしている様子が描かれ、そうした生活に対する憧憬が醸し出された。覚えたての英語を使いたくて外国人を港に訪ねた。高校も英語ができなければ駄目だという雰囲気だった。大学ではESS(英会話クラブ)が脚光を浴びていた。
 戦後、アメリカの民主主義が謳歌され、民主教育の名のもとで日本民族の魂が抜かれ、すべてがアメリカナイズされていった。高度経済成長期のもと、ケネディ・ライシャワー路線の影響を受け、親米の反体制不満派が育つ土壌が準備された。だから、「民族」といえば右翼だという偽の進歩派が闊歩した。これがアメリカナイズされた歴史である。『原爆展物語』で描かれている歴史の真実は封印されていた。
 長周新聞と原水禁・原爆展運動は、50年8・6平和斗争の伝統を継承して、とりわけこの10年、広島、長崎、沖縄をはじめ日本を覆うアメリカの抑圧を引き剥がし、人民大衆こそが力を持っており歴史を切り拓く主人公であることを明らかにした。
 米ソ二極構造崩壊後、アメリカが単独行動主義をとっていた時にこれと真っ向からたたかいをいどみ、他の潮流がなだれをうって瓦解していくなかで人民大衆が勝利する局面を切り拓いてきている。長周新聞は米ソ二極構造崩壊を「米ソ二極構造が崩壊する、つまりアメリカ帝国主義が衰退し、ソ連が修正主義で衰退する。アメリカとソ連という二極構造、これが世界を支配する力を持っていたが、崩壊するという状況を、われわれは政治的に米ソ二極構造の崩壊といっているわけである」と極めて的確にとらえている。戦略観点が確固としていて実践も人民大衆とともにある。
 僕は長いこと長周新聞の読者だが、本当の読者になったといえるのはここ2、3年のことだ。それまでは知識を得るだけだったが、最近は読み方が変わった。運動がどのように発展しているのか、どのように人民大衆が運動をつくっているのか、どうしてそれができるのか、を学びたい。それは70年安保世代の親米愛私の路線とのたたかいである。『原爆展物語』は被爆者や戦争体験者の体験から現代を問い、《このままでは日本は潰れる》、《アメリカは核を持って帰れ》と心の奥底からの叫びを伝えている。その叫びは、親米思想と個人主義イデオロギーを射抜き、これを焼き直してくれる。
 長周新聞創刊からの55年の歴史は、アメリカとのたたかいである。教育の戦線でも、長周新聞や原水禁・原爆展運動が歴史の真実を暴くまでは平和教育の先進は広島や沖縄で、長崎は「祈りの長崎」と思わされていた。アメリカの抑圧によって歴史が断絶されていた。
 それを暴いた長周新聞の根本精神は、中国共産党の経験に学んだ《人民に奉仕する》、つまり人民の根本的利益を守るということである。『原爆展物語』でも中国の八路軍は「人のものは針一本、糸一筋とらないという規律が徹底していた。こんな態度で何億人もの中国の民衆と一体になったらとても勝てるものではなかった」と描かれ、「ベトナムやイラクでアメリカ軍がどんな新鋭兵器を持って行っても打ち負かされるのは経験したわしらが一番知っておる。日本でもみんながその気になったら、侵略者を追い出すことができるということですよ」と喝破している。この精神さえあれば敵に勝つことができる。ここが肝要なのだが、言葉でなく、思想にしたい。
 たくさんのすぐれた詩やエッセイあるいは童話を長周新聞に寄稿している礒永秀雄は、「人民大衆に学ぶこころが/いつのまにかどこかですりきれていて/うきうき楽しく歩いていたら/袋小路に出てしまったのだ/よくあることだ/君にも/ぼくにも/うっかりゆだんのできぬ話だ/まだまだ祈って/動いて/話して/背負わねばならぬ異(ひと)の苦がいっぱい/瞬間瞬間その中にとびこみ/真金(まがね)になるまで戦うのだ/きょうも」(「真金になるまで」抜粋)と教えている。
 長周新聞創刊五五周年記念運動のなかで、私は人民大衆に学び、自分を鍛えあげ、「思想のうらぶれた告白から民衆の幸福を讃える側へ」(「民衆文学の序章」)と変わっていかねばならない。

トップページへ戻る