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熱帯びる福田路線継承の論議
               没5周年記念集会に期待高まる    2007年5月23日付

 26日に下関市で開催される福田正義没5周年記念集会(午後4時から、シーモールホール)に向けて、その事業と精神を継承する論議が熱を帯びて発展している。今回は各界から寄せられた「福田正義没5周年に寄せて」の投稿を特集的に紹介する。

          福田路線をしっかりと握り労働者は団結し立ち上がろう
                 元山電労働者 吉田晋一郎
 長周新聞2007年3月14日付に「安保斗争と山電61年斗争」の大見出しとともに果敢にたたかった60年安保斗争と61年の分裂支配と「合理化」反対斗争と真正面からたたかい、その連続的なたたかいに対する福田主幹の労働運動社説が掲載されました。これには胸の高鳴りを覚え、当時を思い返し、この怒りを階級的な力に変えて、今日の戦争前夜の情勢に立ち向かっていきたいと思っています。
 先日、福田主幹の指導による労働運動について大いに語る座談会が開かれました。当時、肩を並べてたたかった斗士と時間を忘れるほどに熱の入ったものとなりました。本当に当時のたたかいがつい昨日のようによみがえり、「よし、これからだ」というように、たがいに福田路線を握り、勇気と確信を呼び起こすものとなりました。
 私は1960年、全国に燃え広がる日本人民の空前のたたかいとなって発展した日米「安保」反対斗争に、山電労働者として多くの仲間とともに一丸となって参加した1人です。
 山電労働者は、この「日米安保」については日米軍事同盟のなにものでもなく、日本を反共のトリデにする狙いを学習し、日常活動のなかで認識を深め立ち上がったのであります。山電斗争は、60年安保斗争を前に独占資本が労働者を「安保」反対斗争をたたかえないようにするために、労働組合に対する分裂支配を至上命令としたものです。
 山電資本が59年12月23日に、たたかう伝統を持つ私鉄中国山電支部の団結を引き裂く拳に出てきたものであります。この怒りが爆発し、60年「35春斗」、61年「36春斗」は安保斗争と結びついて、資本の分裂支配と「反合理化」のたたかいを2年連続して対決したものです。このたたかいは、規模と斗争の鋭さは、全国の私鉄争議のなかでもまれに見るものとなって、「私鉄の三池」といわれるようにたたかい抜いたものであります。
 これに恐れおののいたのは一方の独占資本であり、山電資本である。他方、労働者はストライキでたたかうなかで、支援労働者とともに仲間同士が夜通し語りあい、励ましあいながら団結できたことは、非常に大きいものがあります。まさに階級斗争の学校となり、この熾烈なたたかいのなかで労働者的な階級的な意識が眼を見張るように高まったことは忘れることができません。
 安保斗争後、池田内閣が登場し、高度成長・所得倍増のばら色ムードを撒き散らし、1964年東京オリンピックと、世はまさにお祭り騒ぎにして見せ、他方では政府、独占資本はアメリカ帝国主義の支配と指図のもとで、日米「安保」を固定化し、軍国主義を復活し、日本人民を支配し収奪するとともに、再び帝国主義的な侵略、アジア人民の支配に乗り出そうとしているのであった。
 そして、日本独占資本がアメリカ帝国主義の要求である石炭から石油へのエネルギー転換を強行することである。炭鉱を潰すことを追求した政策転換を炭労はたたかえず、炭鉱労働者の戦斗的な斗争にもかかわらず惨めな失敗に終わらせた。これを契機に全産業に合理化の嵐が吹き、私鉄では65年に私鉄総連が経営者になりかわって交通政策を持ち出す有様で、本末転倒する文句なしの体制内の労資協調・組合主義となって現れ、山電では、宮本修正主義にいたっては、「交通政策」には反対だが、しかし組合の決定には従うなどとまことしやかなウソを平気でいうようになったのである。
 こうしたたたかいのなかで1966年いよいよ反修決起である。左派党を先頭にして先進的労働者が立ち上がり、毛沢東思想を旗印として、敵・味方の関係と資本と労働の基本矛盾を明らかにし、その矛盾の集中点である山電資本の分裂支配とたたかう、新しい型の階級的な斗争として職場生産点を基礎にして、山電労働者は新たな斗争の火蓋を切ったのである。
 その第1が、1967年8月彦島営業所における掲示板斗争であり、第2は特牛営業所における身体検査拒否のたたかいであり、第3はバッチ斗争である。
 彦島掲示板斗争に対して、会社側は就業規則違反で処分をかけてきた。これに対して、私鉄総連、私鉄中国本部の名を借りて、山電支部の修・社民が口をそろえて、「彦島の掲示板斗争は跳ね上がり」といって攻撃をかけてきたが、職場の仲間の粘り強いたたかいで、山口地労委において組合活動に対する不当労働行為での処分取り消しで勝利したものである。
 また、組合執行部は、身体検査拒否斗争ではポケット検査を認め、毛沢東バッチ斗争はすばらしいとオチョクリ、このたたかいが勝利したのは毛沢東思想の勝利ではない、とケチをつけお茶をにごすのが精一杯であった。このように下からの職場を砦として大衆とともにたたかいが勢いよく発展し、資本と組合執行部に痛烈な打撃を与えると同時に、たたかいのなかで資本の共犯者である修正主義一派と社民一派を暴き出したことは大きいものがある。
 反修斗争は、敵・味方の関係を鮮明にしてみずからを変え、修正主義裏切り者集団と敢然とたたかい粉砕することであった。彦島職場の掲示板斗争は「1寸の土地をも必ず争う」という階級観点で激しくたたかわれたものである。壁新聞を会社が剥ぐ、これを分会は夜を徹して書き、貼りかえしたものである。このたたかいは並大抵のことではなかったが、そのとき長周新聞が創刊後、1日たりとも欠かしたことがなかった根本精神とその戦斗性を思い浮かべ書きまくったのである。この努力と奮斗が第1、第2の労働者を問わず圧倒的に支持され、大いに励まし、また大衆みずからがたたかうことによって勝利したことは貴重な教訓であります。職場斗争はこれから体系だった斗争へと前進する確信となったわけです。
 そして手を変え品を変えて、68年6月にまたぞろ私鉄総連と私鉄中国本部が、斗争路線の変更を求めて山電支部の修正主義集団と社民一派を使い、「山電支部の実情調査に伴う問題点の指導と是正勧告」なるものを押し付け、大量のオルグを投入してきたのである。なにか宮本修正主義一派が左派党にかけた脅しと似た手口であった。労働運動を「学問研究の対象としたり、思想を研究しているグループにすりかえてはならない」等といって、左派勢力を一掃する目的を持って、毛沢東思想を活学活用することを攻撃し、反革命・反中国を躍起になってやり、会社になりかわってたたかえないように、白を黒といいくるめるものであった。まさに体制内の経済主義・組合主義の屈服路線か、真に労働者階級の解放をめざす階級的・革命的な労働運動かという2つの思想、2つの路線の斗争は勢いを増して職場のたたかいは発展し、これを一蹴したのである。
 69年3月に党と先進的労働者が団結して山電労働者「安保」粉砕斗争委員会を結成し、公然と新たなたたかいに決起したのである。斗争の柱となった電車撤去反対斗争と70年「安保」粉砕・佐藤訪米阻止斗争に全力をあげた。70年の幕開け早早に第1組合の機関を占拠した修正主義と社民一派がグルになって、山電資本に「左派を除名しろ」といわせたように、斗争委員会のメンバーのうち12名に統制処分をかけ、統制委員会の招集には書記局、周辺には警察機動隊を配備する念の入れようであった。そして70年春斗後には山電資本が「企業再建220名の首切り合理化計画」を発表するや、6月には電車の全面廃止、7月には彦島職場の分会長をはじめ2名の解雇を含む10名にわたる懲戒弾圧は、職場斗争の圧殺を目的としたものである。
 このように会社と組合幹部が、たたかう山電労働者に対する攻撃をかけてきたわけであるが断固としてたたかい、集会、デモ、座りこみ、ストライキなど独自の実力行動を思い切ってとりくみ、第1組合執行部をも、下から突き上げ、スト権をとりストライキをやらざるをえなくなり、これらを巻きこんで発展させることができたのである。
 このたたかいの真っ只中で「電車撤去阻止・配転反対!」の諸要求と佐藤訪米阻止を結びつけて、11・13の実力ストを、地域の勤労人民の支援のもとに斗争委員会を先頭にして彦島職場の第1・第2組合を乗りこえて労働者が団結して、始発から午前7時までの時限ストをたたかいとり画期的な政治斗争となったものであった。「左派はやるのうー!」と大衆の圧倒的支持を勝ちとった。
 会社はさらに労働協約の大改悪を打ち出してきたのである。労働協約とは、賃金、労働条件に関する労資の協定である。ところが会社は企業整備にともなう人員整理については、まとまるまで協議するとの労資確認を破棄し、一方的に団体交渉に移すとして、解雇同意権をはく奪し、「合理化」計画に労働者を従わせ、「企業再建220名の首切り合理化」への道を開き、日米反動派と結託して軍国主義政策に加担し、山電資本の延命のための攻撃であった。
 職場は騒然となり斗争委員会と第2組合の先進的労働者が団結し、大衆を信頼し、小集会、グループ会、協約学習をとりくみ、思い切って立ち上がり、臨時大会で執行部の受諾案を、ワンマンカー手当の増額や、バスガイドのカバンなどの経済要求とすりかえに人員整理の解雇同意権のはく奪を認める暴挙を、第2組合員自らの手で粉砕し画期的な勝利をたたかいとったのであります。
 会社は、60年の労協改悪「懲戒同意権のはく奪」を第2組合の御用幹部を抱きこんで強行した。第1組合は61「春斗」で、労協改悪反対を掲げて11日間の全面ストでたたかったが、その指導が改良主義であったため、懲戒同意権がもぎとられた。10年後の企業整備のための解雇同意権のはく奪は、その性質から見ても比較にならない。質・量ともに大「合理化」首切りの布石であった。だが、山電労働者は斗争委員会の指導のもとに、資本の分裂支配に対する怒りを階級的な力に変え、第1、第2組合の御用幹部と修正主義、社民一派の労資協調路線と真正面から立ち向かい、たたかいのなかで団結をいっそう強め、資本の横暴を許さなかったのである。これは、35・36「春斗」をも上回る質を持った歴史的な勝利であった。
 われわれは、このようにして職場の労働者としっかりと団結して連戦・連斗してきました。たたかいは決して順風満帆ではありませんでした。困難な時こそ、その奮斗が団結と喜びとなるものであり、この力こそ階級性がにじみ出た力であることが核心であると思います。労働者が実践を通して自分自身を変え、われわれも敵とどのようにたたかうべきかを教えられ、たたかうなかで階級的な認識を培い、階級斗争として自分自身が確固として立つならば、恐れるものはない。これが1番大切でありました。いずれのたたかいにおいても、たたかいが発展すれば敵は恐れるが、味方を大いに激励して団結がいっそう強められ勝利し、労働者の根本的利益を代表し広範な人人と団結できることを誇りにして、確固としてやりぬくことができる保障となりました。
 福田さんの生涯を歴史的に学ばなければなりません。階級的・革命的ということを多く語ってきましたが、福田さんの人間としてあるべき姿を知り、その歴史において苦難をものともしない生涯を生き抜かれたことに深い感慨を覚えます。
 山電斗争のなかで、長周新聞の社説「山電をめぐる緊急情勢」(1961年5月10日付)でいわれているように、分裂支配は「労働者の団結を裂き、労働者同士を対立させいがみ合わせることで」「分裂支配という策がどんなに非人間的であり、下劣であるか」、ここから階級性の多くのことを教えられました。また、福田さんは、「あらゆる斗争で孤立感を感じたことがなかった」といわれている。このすばらしい気概を深く学ばなければなりません。
 今、60年「安保」斗争以後、経済主義・組合主義がはびこり、政治斗争が破壊されており、今では労働組合は会社の労務のようになってきており、組織率が20%を切っている。連合の労働官僚が労働支配の道具になっている。また、宮本修正主義集団や社民一派もこの後押しをやっている代物になり下がっていることは誰でもが知っている。敵は強そうに見えるが、60年安保斗争から見ると独占資本は追い詰められ日本人民を養えないようになっており、なにが起こるやら分からない社会になりはて、階級矛盾は一段と激化している。この弱い環を突き破らなければなりません。
 60年安保斗争をたたかった勤労人民から、「労働運動がどうしてこんなに足腰が立たないようになったのか悔しい。どうして今の戦争策動に逆らう勢力が現れないのだろうか」ともいわれている。「なにかやるなら僕らも力を出したい」といわれている。この社会を動かす力を持っているのは労働者であり、団結してその先頭に立って先進的な政治集団を結集してたたかう日は近いと思っています。身は生産点におき、心は祖国を思い、目を世界に向けて福田路線をしっかりと握り、人民に奉仕する思想に徹して人民の苦難を調べその解決の手助けをする立場に立って、ともに奮斗しましょう!

          福田路線線と礒永精神導きに人人励ます文化運動めざす
                      劇団はぐるま座 鬼池規理子
 戦後62年、福田さんの50年8・6路線を継承し全国に広がった原爆展運動は、第2次世界大戦の真実と戦後の日本社会がどのような社会だったのか、戦後語ることをできなくさせられてきた戦争体験者、被爆者の真実の叫びを引き出し、日本社会の矛盾を暴き出して、今度こそ戦争を阻止して新しい社会をつくっていこうという要求が格段に高まってきているなかで、私たちは現在、『礒永秀雄の世界』の公演をおこなっています。
 昨年の礒永詩祭は戦争体験者の平和へのほとばしる思い、青少年の祖父母や働く親の願いを受け継いで前に向かって進んで行きたいという願い、働く多くの人たちの、人間としてのあたりまえの心を取り戻し、まっとうな社会をつくっていこうというものが大合流した感動的な集会でした。人人が本当に求めている文化は、植民地的な商業主義にどっぷりとつかったものではなく、人人のなかにある、発展的な生き方を励まし、社会を変えていく力をたたえたものであることを示し、礒永作品で日本を変えることができるという展望を示したものでした。
 公演の中でも、「このような文化があったのか」「戦後、自分たちが思っていたことを礒永さんが命がけで書いてくれた」「これまでの生き方に確信をもった」「悪は滅び、正義が必ず勝つ」「天狗は民衆の良心の象徴。民衆は権力者にだまされていても最終的には真実をつかみ天狗を支持する。民衆は愚か者ではない」など、人間として尊厳ある生き方を描いた礒永作品に寄せられた圧倒的な共感の声は、社会を発展させる力が人民大衆の中にあるのだということをありありと示しています。
 このような作品が生まれたのは50年代の長周新聞紙上で展開された、文芸座談会、福田さんの文化・芸術論の方向を実践的に追求してきたからに他ならないことが福田顕彰運動の中で鮮明にされてきました。長周新聞創刊の訴えの精神が礒永さんの作品のなかに貫かれており、それが戦後半世紀以上経っても現代を生きる人人の切実な要求と響きあっているということの中に、戦後一貫して日本の社会の構図は変わっていないこと、人人がなにを根本的に求めているのかということが表れていると思います。
 現在、各戦線で福田路線を学び、貫き、大衆と結びついて情勢を切り開き、人人の意識も大きく発展しているなかで、矛盾の根本的な解決を求めている人人の心底の願いと切り結べず、周りをウロウロし、弾き飛ばされている実際があります。福田さんの芸術論や礒永さんの評価を読み直していると、そもそもの立場、観点が全然違っていると痛感します。
 矛盾の激化を恐れて、自分の傷つかないところで都合よく事が進んでほしい、その願望のところから「現実」を見ようとし、思い通りに行かないとあれがだめ、これがだめと結局敵が大きく見え、人民大衆の力が小さく見え、日日流動し発展している現実にかすりもしないか、それがだめだとなると観念的に大衆は素晴らしいと抽象的な観念にすりかえていく、それを行ったり来たりしているのが実際だと思います。
 礒永さんは、客観世界をあるがままに主観世界に反映させること、といっています。求心力と遠心力、死滅するものと限りない生命力に満ちたもの、美と醜悪、古いものと新しいもの、科学的なものと原初的なもの、これらの矛盾に満ちたものの統一的把握。社会発展の側に立ち、現実にさまざまにある矛盾に切り込んでいくなかで、初めて描くべきものが生まれてくるのだと思います。
 福田さんは、文化・芸術論のなかで、「歴史は火花を散らして錯綜し、揺れ動いて発展している。読者―大衆はその中を生きているのであり、そのような歴史を創造しているのでもある。それが、新しいテーマと表現をもち得ないか。問題は、現代詩人たちが、巨大な流れを知らず、あるいは知ろうとせず後ろ向きになって、流れの片隅のよどんだ溜りにうずくまって仲間同士で慰めあっていることである。現代と、それが見とおし得る最大限の未来への展望に立って、詩人が歴史の創造者としてあらわれることを読者―大衆は求めている」と書かれています。
 福田さんの文芸路線と礒永精神を導きにして社会の発展方向で人人を励ますことのできる、本当に力のある人民文化運動をつくっていけるよう学んでいきたいと思います。

         大衆の決起促す第2次大戦パネルの様な役割を果たす
                 名古屋・原爆展を成功させる会 矢神繁
 この6年余りパネル「原爆と峠三吉の詩」を使った原爆展を開いてきたが、その場で戦争体験世代から当時の痛切な経験がせきを切ったように語られるのが大きな特徴となっている。
 この春のお彼岸に開いた名古屋・東別院での「原爆と空襲展」でも「はじめて自分の体験を話せる場に出会った」と感激し、一気に当時の痛切な体験を話しはじめ「ぜひ文章にして残してほしい」という79歳の婦人がいた。焼夷弾の直撃を受けて今も肉がもがれたままの腕を差し出し「さわってくれ」といいながら、そのケガで入院中に父親が空襲で殺され、母親は戦後の食料難のなか栄養失調で亡くなったと語った。
 戦後60年余り、こうした体験を自分の子どもに話したことはあるが、それ以外はなかったという。この婦人のように、みずからの戦争体験を子どもや家族以外には話してこなかったという人が圧倒的に多いことも原爆展のとりくみをとおして知った。話してこなかったのはあまりに凄惨で思い出したくないこともあるだろう。聞いてくれる人がいなかった、ということもあるだろう。「戦争だから、負けたのだからしかたがない」とのあきらめもあるだろう。これらもふくめて日本軍閥の無謀な戦争の結果である、とのアメリカ占領軍からの抑圧もあった。
 しかし、凄惨な事実をかき消すことができないように、悔しさ、怒りを静めることはできず、犠牲者への供養、鎮魂もこめて、先の戦争についてなんとしてもケジメをつけたいとの思いも打ち消すことはできない。それは戦後60年余りがたとうと、現在のアメリカ一辺倒の日本の将来への不安とも重ねて思い起こされるのである。
 そして峠の原爆展が戦争体験者にとって、みずからの痛切な経験、打ち消しがたい怒りを表明できる場となっている。このことの意義は大きい。福田路線にもとづいて作成された峠の原爆展パネルが広範な日本人民の歴史的社会的経験を引き出し、明らかにし、敵と味方の矛盾関係を大きな観点からはっきりとさせ、怒りの矛先を定め、立ち上がりを促しているからだ。
 そして原爆被害者にとどまらず沖縄戦体験者、空襲体験者、そして戦地の体験者の真実の声を引き出し、第2次大戦の真実を浮き彫りにしつつ、それぞれの団結を促している。従来の保守対革新は色あせ、根拠をもって真の対抗軸を明らかにし、広範な大衆を結集しつつある。その路線の持つ生命力についてあらためて思う。
 日本帝国主義の戦争犯罪を糾明し、アメリカ帝国主義の日本単独占領の野望を明らかにすること、そして真に日本の人民的で民族的な誇りを打ち立てる立場を対置し、戦争を阻止する力を強大なものにする。この立場が福田路線にもとづくとりくみのなかで1つ1つ明らかにされ、第2次大戦の全体像を明らかにするパネルもつくられ、大衆を励ましている。
 福田氏が著作のさまざまな個所で語っていることでもあるが、大衆のもつ光を束ねてたいまつのようにしてさらに遠くを見通すことができるようにすること、大衆の思想を舞台にイデオロギー斗争をすることが不断に問われている。このことが峠のパネルに結実し、第2次大戦の真実のパネルとなって広範な大衆のなかにある真の原動力にふれる力となっている。こうした役割をさらにはたしていかなければならない。

           社会を変革する点部に立った婦人解放の道を歩む
                    婦人解放新聞社 川村なおみ
 病弱な両親の世話をしながら子どもを育て、夫とともに汗を流して家業を営む若い母親は、福田さんの文章にふれて、現在の婦人たちの状況が50年前と何ら変わっていないことに驚くとともに、その状態を1つ1つたたかって変えていかなければいけないと感想をのべた。また、安倍内閣が憲法を変えるため国民投票法をむりやり成立させ、戦争へもっていこうという中で、福田さんが人民を断固守る立場で改憲の動きにずっと立ち向かってきたことに感動し、「男の人はいろんなしがらみでできない分、婦人がしっかり勉強して子どもたちを戦争に行かせないためがんばらなくてはいけませんね」と決意をこめて語っている。
 私はこれほど熱く、実践的に福田さんの文章を読んでいるだろうかと恥ずかしくなった。
 いま福田さんの社説や婦人問題の記事を読み返すにつれて、身を削りながら子どもや家族のために奮斗し、戦争にさせてはならないとひたすら立ち向かう婦人への深い愛情と、彼女たちが主人公となって婦人解放と社会変革を実現する、その展望をきっぱり示す堂堂たる戦略観点に感動するとともに、それを私自身が思想にし身につけなければなんの責任もはたすことはできないことを肝に銘じて考えさせられている。
 4年前、ゴミ袋値下げ運動が始まったとき、私は正直、あれほどの婦人が動き出すとは信じられず、また婦人たちをつき動かしている根拠の重さを理解できなかった。傍観者の冷めた無責任な態度であったと思う。
 このときの下関の婦人たちの立ち上がりは、ことは有料ゴミ袋反対だが、その背景には、若者に仕事を与えず、子どもらは給食費を持っていけず、老人を生活できなくさせながら、市長や安倍、林がらみの企業は市の箱物事業で億単位の利権をふところにする、そんな市政で下関はどうなるのか、これ以上黙っておれないという深い思いであった。だからこそ、その後の市民運動はつぎつぎに勝利的に前進してきた。婦人たちの置かれた実際が日日敵としのぎを削るたたかいそのものだからである。私には、このあふれるような怒りや戦斗性がくみとれなかったのである。
 福田さんは、大衆は1人1人みんな松明のような光を自分のゆく手に向けて持っている、問題はそれを集めて灯台のような大きな光にして遠くまで見えるようにできるかだ、と人民に奉仕する精神についてくり返し語っている。
 私に欠けているのは、この思想・世界観である。つまり、必死になって子どもを育て、家族を支え、生活をやりくりする婦人たち一人一人が社会を支え、変革していく主人公であるという世界観、同時に、婦人解放の明確な戦略を具体的実際と結びつけて奉仕していくという雄大な戦略観点である。
 70年代後半以降、婦人運動にはアメリカ留学をしてきた知識女性たちから“男は仕事、女は家庭という男女の役割分業の固定化が女性差別の原因”だとするフェミニズムや女性学が持ち込まれた。その流れは、生命の生産・再生産を婦人の肩に押しつけ搾取・収奪するブルジョア的個別家族制度をなくし、家事・育児を社会化して婦人が能力をいかんなく発揮できる社会にする、その過程で婦人自身も隷属思想を克服する、という婦人解放路線を否定し、現体制の中で男女の分業が見直しされればよいというものにすり替えた。その結果は、下層の婦人たちがアメリカによるグローバル化や規制緩和・構造改革によってどれだけ低賃金のパートや派遣に転落し、「男女平等」の名で母性保護を奪われ、介護も保育施設も民営化で利用できず、むき出しの搾取にさらされていても、アメリカと独占資本を敵としてたたかうことを排除し、官製の枠内で「男女共同参画」を叫ぶだけという無力さを露呈している。
 この誤った路線に口先では反対してきたが、婦人たちの煮えたぎる怒りや願いが見えず結びつけなかった私は同じ穴のむじな、深くおかされていたのである。
 福田さんは「婦人解放の基礎的条件」(60年社説)の中で、「問題は、家庭の民主化や、男の女にたいする態度というところには根本的にはない。婦人の解放を決定づける最大の問題は、第1は、婦人の経済的自立の問題。婦人が男子と平等の人間として、働くことによって生活が完全に独立できるという条件がなによりも重要であり、このことを社会が保障することが婦人解放の基礎条件であろう。第2は、婦人が男子の享楽の対象物として、すなわち男子から見て“商品”“売物”視される考え方との決定的なたたかいが必要である。膨大なマス・コミ、映画、ラジオ、テレビから、今日横行している道徳説教のたぐいは、全体として、こういう思想をふりまいているし、アメリカ的生活様式の婦人観は、基本的にこの立場に立っているのである」と書いている。
 婦人大衆の願いは、先の母親やこの間の市民運動で力を発揮する新しい婦人活動家たち同様、狭くちっぽけなものではない。子どもたちが自己中心や享楽主義、“金がすべて”におかされるのでなく民族の子どもとして育ってほしいと心を寄せ、本当の敵はだれかを見すえ、そこに火のように立ち向かう戦斗性を持っている。
 1961年、山口県の母親大会の成功を祝した社説で福田さんは、小児マヒから子どもを救い、託児所を要求し、アメリカ式退廃文化から子どもを守り、戦争によって夫や子どもを奪われまいと「安保」反対をたたかってきた婦人たちを、子どもを愛する上でひとかけらのごまかしも許さない母親たちは、空しいおしゃべりでなく、具体的に要求を実現することだけを考え、そのひとすじのためにたたかっているのだ、とその実践性と戦斗性を心から称えている。
 私は、圧倒的多数の婦人たちの中に身を置き、その具体的実際を婦人解放という戦略にしっかり結びつけ、婦人の苦しみも悲しみもかならず社会変革を実現することでなくしていくことをひとときも忘れず、実践、実践、再び実践と前進していくつもりである。

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