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(1955年〜2000年)
 
 【その他】

戦争について 
高杉晋作から学ぶもの
   谷本四郎(福田正義)

 

福田正義長周新聞社主幹の業績を顕彰する論議が、ひじょうに多くの人人のなかで、新鮮な驚きをともなってすすめられている。本紙では、関係する人人からの聞きとりと、資料の収集、研究をすすめている。この進行のなかで、これまで集中したものを総合して、福田主幹の生涯の活動について、明らかになった概要をまとめた。

貧乏と家庭不遇の少年期、あらゆる本むさぼり読む
福田正義主幹は1911(明治44)年下関に生まれた。生家は北前船の寄港地での乾物問屋として栄えていたが、1901(明治34)年の山陽鉄道の開通によって没落した。福田主幹が生まれ育った時期はすでに没落した後であった。貧乏に加えて家庭的に不遇であった。父治良は商売にむいた人というより、書がひじょうにうまく清元や浄瑠璃などの達者な人であったという。母シナは農家の出であったが、優しい人で、幼い福田主幹によく歴史の話、歴史上の人物の話などをしてくれていたという。その最愛の母親が小学2年、7歳のときに亡くなった。継母がきて異母弟妹ができるが、そのような環境は、少年期をひじょうに苦悩の深い生活とした。9歳のときに祖父吉蔵が死亡、23歳のときには父治良も死亡、継母は再婚し異母弟妹も養子にいった。福田主幹はソ連映画「人生案内」の主題歌である「みなし子のうた」を愛唱していたが、それは自分自身の境遇であった。
 小学校の時期には、社会と教師の欺まんに怒る精神がおう盛であったとしるしている。この時期の様子について、福田主幹が長周新聞に書いたもので「幼友達」という随想があり、当時の教師であった平井寿一氏が書いた「思い出」がある。それは困難な生活のなかでがんばった友だちが早くして死んだこと、そのような幼友だちへの深い思いであり、また正義心が強く、けんかが強かったという。いろんな家の前をとおるとき「どんな家か、どんな生活をしているところかなどを観察していた」といわれていた。しばしば話に出ていたのは、夏には近所の友だちと毎日武久海岸に海水浴に行っていたことである。
 小学校では頭はよかったが、家庭の事情で中学校には行かず、高等小学校から、下関商業実践学校へすすむ。この12歳から17歳の時期、「文学書から雑多な雑誌、左翼雑誌など手あたり次第に読みまくった」といっている。「展望前後」のなかでは「あらゆる本屋で立ち読みをやるが、どこでもハエのように追い払われた。だが上山文英堂はきわめて寛大であった」とある。貧乏と家庭不遇という環境のなかで、まさに遊びやアヘンのようなものではない文学、自分の実生活の要求にこたえうる「生きる糧」「生きる喜び」をむさぼるように求めたのである。当時学校でもそういう文学などを論じたり、左翼運動の体験を伝える仲間がいた。当時発展していた近代文学、プロレタリア文学の最良のものを摂取したであろうし、藤原義江の歌曲は愛唱歌であった。長周新聞の勤務員の子弟の教育で、小さい時期から読書をさせることを強調していたが、それは自分自身のこの体験にもとづいていた。
 小学校に入った年はロシア革命の年であり、その影響が日本にも広がり、熱気に満ちた社会主義運動の流れは下関にもおよんでくる。それは本をつうじて、やがて外へ出て帰った友人の体験などをつうじて、知っていくことになる。      
組織壊滅後の戦闘開始、展望発刊と門司新報で
そして下関商業実践学校を卒業する1928(昭和3)年の時期は、昭和恐慌のまっただなかであり、倒産と失業者があふれ、社会的階級的な矛盾が噴き出している時期である。17歳になった福田主幹は、実践学校の助手にならないかという話もあったが、映画館「寿館」に入り映写係から宣伝部(看板書きなど)となった。1930年には大阪に出て金物屋の店員となるが、世界大恐慌のなかで、実体験として社会的矛盾にめざめていく。1931年には下関にもどって看板屋をはじめながら、社会活動に参加していった。
 この時期、下関でも社会主義運動がしだいに活発になっていた。はじめに社会民衆党のグループ、アナーキーな集団などがあった。しだいにマルクス主義グループが登場していくが、そこにもさまざまな色あいがあった。福田主幹は、下関ではじめてのメーデーをやり、第1回の普通選挙で市会議員になり、議場で暴漢に刺殺された熱血の社会主義者・山下富太の支持者となって活動をはじめた。山下はもとは右翼といわれるが空論ではなく、生命をかえりみぬ正義の行動力のなかに欺まんのない真実を見たのだと思われる。山下は左翼書房を開き青年たちが多く出入りしていた。福田主幹はそれらの本を読みまくった。「思惟が存在を規定するか、存在が思惟を規定するか」という唯物論の根本命題を理解するのにしばらく悩んだと、のちに語っていた。
 山下の市会議員選挙で街頭にくり出して応援演説をやったり、できたばかりのプロキノを招待して映画会を成功させている。そして1932年プロレタリア科学同盟の下関の組織に参加した。この時期、トーキーに移行する過程での弁士、楽士の首切りに反対する下関の映画館全館のストライキを組織して勝利し、特高に地団駄を踏ませている。自分がめだつのではなく陰にいるが実際的に大衆の要求をまとめて実現するように指導、援助する、そして特高も弾圧できない、というのはその後もつづく特徴である。東海製菓のストライキを組織したりしているが、おもに文化運動のグループを組織していった。そして「共産党こそ支持すべき最高のもの」と考えるようになったのは、1932年21歳のときだと語っていた。
長関共産党事件と展望の躍動的活動
 その前年の1931年には満州事変が起き、東北地方では大凶作で娘の身売りなどが起きる。1922年に結成された日本共産党は果敢にたたかうが、1928年の3・15弾圧、29年の4・16弾圧などがつづき、なおも再建の努力がされていたが、1932年の大弾圧により1500人が逮捕され壊滅的な打撃を受けた。再建された広島地方委員会も壊滅し、防府まできていた共産党はついに下関にはこなかった。
 下関では、1932年末から33年にかけていわゆる「長関共産党事件」(マスコミがつけた名称で、実際には共産党員はいなかった)により国鉄、貯金局、内務省、街頭分子など福田主幹をふくむ148人の左翼青年が根こそぎ特高によって逮捕投獄された。かれらが獄中にいる33年には、小林多喜二が虐殺され、共産党幹部の佐野学・鍋山貞親の転向声明が出、京都大学の滝川事件があり学生運動もつぶされ、思想弾圧が荒れ狂った。下関の左翼青年の組織は完全というほど壊滅させられた。
 こうして敗走と転向がとうとうたる流れとなり、目先派手だった部分もたちまちしおれていった。まさに共産党が壊滅状態になり、下関の左翼組織も壊滅したなかで、決然として立ち上がり、福田主幹の本格的な活動が開始されていくことになる。組織はつぶれているが、人民は苦難のなかにある、そこでどうたたかうかが福田主幹の活動の大きな特質をなすことになった。
 1933年「金があろうとなかろうと、なにがなんでもやらねばならぬ」という姿勢で青年グループとともに発刊したのが文芸雑誌『展望』である。その巻頭言は「雑誌展望は、芸術、映画、絵画、音楽、写真および科学をも包含するいうところの文化の、しかも、われわれ地方生活者の生活感情から、生活意識から生まれでたところの、正確なる反映体―いえば反射鏡としての役割を持って創刊された」とのべている。その目的は、左翼青年グループを結集するセンターの役割をはたそうというものであった。そこでの、多くの人人と深いところで切り結んだ豊かな活動の内容は、福田主幹の筆による「展望前後」にいきいきと描かれている。
 晩年にも当時の楽しい思い出として語っていたのが、展望社の青年たちが映画興行師のなかでは相手にされない「カリガリ博士」とエイゼンシュテインの「全線」を、1500人集めなければ採算があわない3階建ての寿館を借りきって大成功させたことであった。
日中戦争前夜の門司新報でのたたかい
 そして1935年24歳のときに門司新報に入る。福田主幹は豊富な映画評を残しているが、「映画監督になるか新聞をやるかを考えた」といわれる。ここから新聞の道に入ることになる。はじめに校正部として入り、このなかで独学で新聞について習得し、整理部が欠員となったとき新聞整理をやってのけ、文芸欄の編集を担当することになった。虚構の権威ではなく自分の努力と実力で勝利していくのも一貫した特徴である。門司新報では、映画評、芸術論、政治評論、コラムなどをほとばしるような情熱と気概で書きつづけた。それは1936(昭和11)年を前後する時期であり、2・26事件があり、中国では張学良政変、翌年には日中戦争に突入する大激動の時期である。
 このなかで弾圧と転向の流れに抗してギリギリのところで熱情をこめた評論を書きつづけた。広田内閣の批判やヒットラーの批判など、それを頭からではなく当時の大衆の気分、感情をいきいきと表現するものとして遠慮会釈なしに書きつづけた。それは読者大衆の拍手喝采(かっさい)の支持を受けた。読者がいっきにふえ、大衆の支持を力にして書きつづけたのである。それは今日の情勢といかに類似しているかを痛感させるとともに、現代の問題としてもきわめて新鮮なものである。とりわけ芸術論はきわめて高い水準を持っており、阿南哲朗、火野葦平、柳瀬正夢、小津安二郎などの文化人との親交を深めている。
 このような活動は、あの時期は弾圧によって、なにもいえなかったというのが、敗北者のいい分であることを教えている。しかもその論点は、張学良政変の評論で「支那人民戦線の勝利はいまや必至」とのべるなど、きわめて大胆かつ新鮮である。それは生きた実際の問題を社会的歴史的な発展の必然として的確にとらえたもので、その後の歴史の経過に照らしてもきわめて高い水準の評論である。
 福田主幹は1955年に人民の言論機関として長周新聞を創刊するが、その路線の基本的な骨格は、この25〜26歳の青年の時期にできあがっていることを知ることができる。その特徴は、浮ついた空論や権威をべっ視し、いっさいの日和見主義とたたかって、大衆への激しい愛情と反動的なものへの激しい憎しみの立場に立ち、大衆とともに、歴史の進歩発展の方向で、みずからの奮斗努力によって、たたかいぬいていくという気迫に満ちた精神である。だが戦争にむかう反動の流れにたいして、孤軍奮斗ではいかんともしがたいものがあった。
 福田主幹はこの時期の心境について、1936年、東京に出かけたさいに、天達忠雄や柳瀬正夢と久保栄の「火山灰地」を築地小劇場に見に行き、夜更けまで話しあったことを書いている。「わたしは運動の潮のひいたあとの孤独なかたくなさに、自分をとじこめていた。なにもかもが戦時色であった。なにをするにしても自分の考えがどうであれ、戦争の手伝いをすることになるのではないかということに、数年のあいだ思い悩んだ。わたしは明るい朝をむかえたことはなかった。組織がすでに壊滅しているという条件のなかで、なにをなすべきかという問題で、わたしは反動的潮流の迫ってくる壁に押しつけられている感じであった」。門司新報での奮斗は、このような切迫観のなかでのたたかいであった。
 日中戦争に突入する1937年、思想弾圧の流れは門司新報にいることを許さなくなった。「昭和11年までは、戦争や天皇や軍についてふれなければ、ヒットラーの批判も、政府の批判もできたが、12年になると完全にダメになった」といっている。そして関門地域の新聞記者がつくっていた雑誌『話の関門』の編集の仕事をする。ここでは金子みすゞの母親からみすゞの遺稿のすべてを見せてもらって書いた「金子みすゞの詩と人生」などの評論があるが、残念ながらいまでは発見できない。やがて『話の関門』の活動も困難になり、映画館大新館の看板書きで生活を維持するが、「昭和14年になったら日本にいることも困難になった」。そして1939年大連に渡ることになる。
 家庭生活の面では、門司新報に入る時期に夫人ハツノが死亡、2カ月後には2歳になる子どもも死亡、3歳になる子どもをかかえ、その子を友人の家庭に預けながら育てた。たびかさなる家庭的な不幸を乗りこえての、まさに公私ともにぬきさしならぬところでの戦争前夜の戦斗であった。
日本の党が壊滅し中国が勝利した違い
 その時期は、中国革命をめぐって蒋介石軍と八路軍(のちに人民解放軍)が内戦に入っていく過程であり、旧満州にもソ連軍が入るとともに、八路軍と蒋介石軍が争奪戦をくりかえした。この内戦にともなって八路軍とともに長春(新京)、ハルビン、ジャムスなどを移動した。日本人もはじめはソ連軍や国民党軍の方を尊敬していたが、実際にはかれらはでたらめをやり、それまで軽べつしていた八路軍が入るとみんなが安心して町に出るようになった。つまり、「人のものは針1本、糸1筋とらない」「借りたものはかならず返す」として、バケツを借りるとそのなかに卵を入れて返すというような行動、八路軍は民主人士を連れているが、床にはかれらを寝せて自分たちは土間に寝る、など人民に奉仕する思想が行動のうえで徹底していたこと、したがって人民の深い信頼を得たことなどを、福田主幹は戦後つねづね語っていた。
 旧満州における活動は、戦前の日本の運動にたいする最大の問題意識に回答を与え、戦後日本における確信に満ちた活動をくり広げる重要な経験となった。その中心の問題について福田主幹はつぎのようにいっている。
 「戦前の日本共産党は強大であった。とくにインテリが多く、インテリで共産党でないものはバカかアホといわれるほどであった。ところがその共産党は戦争が苛烈になるなかで、敵の弾圧もあるが消滅してしまう。人民の困難にたいして手助けできなくなる。中国共産党は、果敢にたたかうが何度も破れて最後に長征をやる。事実上は逃げて敵の影響の弱い延安に本拠を移すのだ。そこでそれまでの革命斗争を総括して、理論上、路線上の整頓をする。だから今度は無敵であり、全中国の解放までいった。なぜ日本共産党は重大な時期につぶれてしまって、なぜ中国共産党はあの広大な中国で人民の政府をつくれたのか。その中心をなすものは『老三篇』、つまり徹底的に人民に奉仕する思想である。中国の勤務員の活動などを見ていても、人民の事業のためには刻苦奮斗するということが、言葉のいいまわしというものではなく徹底している。だから人民のいるところではかならず人民を団結させて勝利していく」。
 そしてこのような路線は、中国共産党にふれてはじめて知ったまったく新しい世界というものではなかった。日本の人民をどうするかが基本にあって、国際権威主義のいわゆる「中国派」といわれるようなものではないのである。それは組織が壊滅したもとでの、『展望』から門司新報にいたる福田主幹の孤軍奮斗ともいうべき活動の方向に確信を与え、そのような組織が建設されれば壊滅するようなことはなく、日本の人民解放事業は勝利するという鮮明な確信を与えたものであるといえる。そして戦前の共産党について、基本的に正しい綱領を持ち勇敢にたたかったが、大衆と結びつくことができなかったという教訓を得た。戦前の下関の左翼青年のなかでは、共産党員を「偉い人」と表現していたが、実際の生活と行動に貫く思想の問題があったと語っていた。
 旧満州での経験はまた、中国共産党がまたたくまに全中国を解放していく過程、そして日本帝国主義が敗北していく過程、アメリカが支援する蒋介石軍との国内革命戦争、また日本帝国主義の敗北に決定的な役割をはたしたソ連など、身をもって体験することになる。そのなかで独ソ戦に英雄的に勝利し東欧などで一連の社会主義国をつくり出したソ連であるが、その一方では「日露戦争のうらみをはらす」といって帝政ロシアの植民地であった大連・旅順などの領土化をはかったり、また蒋介石軍を支持して中国革命を流産させるような民族主義の傾向、大衆路線ではなく米英仏帝国主義に幻想を持った日和見主義的な要素もつぶさに見ることとなった。
 そのような第2次大戦と戦後の世界を構成する、矛盾に満ちた大激動を身をもって体験することになった。戦後、第2次大戦の性質をどう評価するか、アメリカをどう評価するか、ソ連の修正主義をどう評価するかなどが大きな問題となるが、この時期に身をもって戦後世界の基本構造にかかわる重要な政治的経験をしていたのである。
 家庭生活ではこの時期に光子夫人と結婚、2人の子どもが生まれる。とくに戦後の国共内戦のなかで、福田主幹は多くの日本人の安全な帰国をはかる任務のために、家庭をかえりみる余裕もなく奮斗した。幼い子が死にかかるような病気をするなかで、急に自宅の荷物はいっさい捨てて駅でおちあい、最終列車で移動するようなこともあった。
 1946年9月の帰国にあたっては中国共産党東北局が福田主幹や日本人活動家とその家族を招き晩餐会を開いて歓送をしてくれた。そして危険な蒋介石軍支配地域をさけて朝鮮経由で1947年1月、出発から4カ月をかけて佐世保に帰国した。朝鮮では歓待を受け金日成とも会見している。
 こうして戦後出発は、きわめて高いレベルでの見識と指導性を持った出発であった。それは戦前の党がもっとも重要な時期に瓦解して苦難にある人民を導けなかった、それを乗りこえるという確信に満ちた出発であった。共産党の幹部のなかにあった、「獄中十数年」を売りものにして、人民を導けなかったことへの責任感と反省がなく、人はみな戦争協力者のようにみなすような、唯我独尊の態度とは根本的に立場が異なるものである。戦時下の十数年におよぶ人民の苦難を共有するかどうかは戦後の大きな分かれ目になったといえる。
戦時下での敗北に回答与えた旧満州での活動
 大連に渡るとき、中野重治と弁証法的唯物論の2冊を荷物に忍ばせていった。旧満州ではブルジョア民主主義的な独特の支配形態をとっており、当時満鉄調査部などには左翼分子が多くいた。1942年には満鉄調査部事件という思想弾圧事件があるが、知識人たちは戦時下におけるギリギリのところでの抵抗をつづけていた。福田主幹は、満鉄社員会の機関紙編集部に入り、そのなかで左翼分子を組織していくが、41年7月解雇される。解雇反対の斗争によって、同年9月満鉄が大連日日新聞を紹介して整理部に入った。43年には、奉天(瀋陽)にある本社の満州日日新聞に移り、44年には満州新聞と合併して満州日報(長春)となるが、敗戦時には新聞編集の責任者である整理部長になっている。
 この時期ある人は、福田主幹の家で天井板をひょいとあけると「資本論」が出てきたと語っている。きびしい戦時下であるが、人人を組織し、抵抗をつづけることは一貫していた。この時期の知人たちが、文学や社会的な見方を教えてもらったこと、また出征のときに「この戦争は長くない。絶対に死ぬなよ」と激励されたこと、「この戦争は負けるから工場は引き揚げた方がよい」とアドバイスされた人などが、戦後も長く親交を深める関係となっている。
 1945年8月、ソ連軍が旧満州に進攻をはじめると、関東軍は自分の家族をひき連れて一目散に逃げ出した。そして侵略政策で送りこまれた数十万の日本人がとり残され、難民となって苦しむことになる。福田主幹は敗戦になると、ソ連軍に呼び出されるがすぐに帰り、ただちに八路軍や中国共産党東北局民族部と行動をともにし、戦時下の仲間、同志とともに在華共産主義者同盟、日本人民主連盟に参加し、「民主新聞」を発行した。そして難民となった数十万の日本人を安全に帰国させるための工作に献身した。このなかで行動をともにした友人の1人はチフスをわずらって死亡する。その夫人は「福田さんが来て天下国家のことを論じると、主人は元気になっていた」と書いている。
 「家や農地は捨てて都市部に引き揚げなさい」と、旧満州の奥部まで行き家家を訪れて働きかけたといわれる。それにたいして植民地略奪のうえにいることが自覚できず、「自分は中国人をいじめていない」といって動かなかった人人は不幸な結果になり、説得に応じた人たちが助かったといわれる。敗戦後ラジオ放送の「たずね人」で、福田主幹をさがす人が何人もいた。それは安全に帰国できたことを感謝するものであった。
確信にみちた戦後出発、下関から広島へ運動発展
 列車に乗った活動家の多くは東京にむかった。満州日報での新聞人としての実績を持った福田主幹が安易な個人生活の方向に行くなら容易であった。だがまっしぐらに下関で下車、焼け野原になった下関で、駅に家族を待たせて真先に訪れたのは共産党の事務所であった。生活か革命かの分かれ目のとき革命を優先させるのである。敗戦後日本人民は苦難のなかにあり、戦争の荒廃のなかから必死に立ち上がろうとしていた。このいく千万大衆とともにすすむ道をつきすすんでいった。
 下関に帰った福田主幹はめざましい活動を展開することになる。すぐに共産党に入党、はじめに下関長府の進駐軍の労働組合の指導に、逮捕された友人の頼みで入ることになる。この年のはじめ2・1ストがマッカーサーのGHQに弾圧されるが、年末には全国はじめての進駐軍労働者500人以上のストライキを組織した。飛び上がったGHQにいったん逮捕されるが、大衆のだれ1人として指導者について口を割らず、大衆の支持のもとで即日釈放された。この指導力で、全駐労の岩国、防府分会を組織、県支部の書記長になり、中央執行委員になる。また下関地区労の常任執行委員になり、山口県西部地区委員長、県常任委員となり、神鋼、三菱造船、林兼造船、日東硫曹、三井製煉などの主要工場につぎつぎに共産党細胞を組織した。
 当時福田主幹は自転車でこれらの工場がある彦島へよくかよった。それは労働者のところに足を運び、その要求、怒りなどを聞き、ビラにまとめて訴える、その反響を調べて労働者を立ち上がらせていく、そして組織をつくっていく、という大衆路線に徹したものであった。また市内の街頭や寺で、時局問題などの講演会を数多くやっている。
 そして1949年には中国地方委員会常任委員として広島にいった。中国地方委員会の実質の中心指導者として、共産党内のいわゆる50年問題(アメリカ占領軍を解放軍とみなすか、人民の敵とみなすか)をめぐる中央部の修正主義勢力の妨害をうち破りながら、画期的な斗争となる1950年八・6平和斗争を組織した。朝鮮戦争のもとで、幾度となく発行停止の弾圧を受けながら「平和戦線」「平和の斗士」「民族の星」を発行した。峠三吉はこの新聞に「8月6日」「墓標」などの代表的な原爆詩を発表した。
画期をなす1950年8・6平和斗争を組織
 1950年8・6平和斗争こそ、福田主幹が中国革命で回答を得た問題意識を日本の斗争に具体化して突破したものであった。そして「人民に奉仕する思想に徹して、人民の苦難を調べ、その手助けをしていくならばかならず勝利する。それがわたしの政治信条になった」と語っており、のちの長周新聞の創刊の路線につながる重要な経験であった。亡くなる直前に、峠三吉の詩と写真を使った原爆展が東京に広がり、広島で大成功したことについて、感無量の喜びであった。みずからが心血を注いで突破したこの原点がふたたびよみがえり、当時できなかった東京や全国に広がってきたことを心から喜んでいた。
 当時広島の風呂屋に行けば、みんながケロイドを見せあいながら原爆の話をしている。だが一歩外に出れば表には出ない。「戦争を終結させるためにやむをえなかった」という占領軍の宣伝が押さえつけており、そして共産党指導部のなかでアメリカ占領軍を解放軍とみなす誤りがあって、原爆に抗議することが歴史的に積極的な意義があるという確信を持てなくさせていた。だが「そんなバカなことがあるか」として「アメリカをどう見るか」について中国地方委員会では、福田主幹が広島に行った49年ごろから論議がはじまった。
 アメリカが朝鮮戦争を開始した1950年、はじめて原爆の惨状をあらわす写真を新聞「平和戦線」や街頭で発表。街頭や職場での多くのビラや平和署名などをつうじた圧倒的な広島市民の支持のもとで、またいっさいの集会禁止という戒厳令のような弾圧体制のなかで、中国地方の戦斗的な労働者、朝鮮人などの犠牲を恐れぬ行動によって突破したのである。それはまた、共産党中央指導部のアメリカ支配を擁護する右翼日和見主義の潮流からの激しい破壊、妨害活動をはねのけて実現したものであった。この原水爆に反対する運動は、翌年には全国的な運動となって合法集会を開くところまでなり、8・6集会は北は北海道、南は沖縄から平和行進をして参加するなど広大な大衆的な広がりを持ち、55年には世界大会が開かれるまでに発展した。
 この敗戦後の時期に下関から広島にかけてともに活動した人はつぎのように語っている。「福田さんの方針は、大衆の意見を忠実に集めて方針にしていくというものだった。党中央は戦後は右往左往していて、方針が定まらない状態だった。“獄中18年”といっても実際状況はわけがわからない状態だし、インテリ出身ばかりで頭のなかからああもいいこうもいう状態だった。しかし下関の運動はいつも確固としていた。“党と大衆の関係はいかなるものか”ということについて、整風文献をよく学習させられたものであった。そのような福田さんの運動が、山口県に広がり中国地方に広がっていったのだ。中国地方委員会の代表は原田長司でいいかげんな男だったが、各県の幹部はみな福田さんを信頼して結集していた。会議をリードするのはいつも福田さんだった。最高の指導者の位置にいるが、夜に寝ずに自分でビラを書いたり看板を書くこともやっていた。8・6斗争をはじめ、行動は非合法で先鋭であるが、そのまえに相当のビラをまいており、圧倒的な市民が支持するなかでやっているのだ」。
 当時宮本顕治が国際派の代表で、広島に来て会議をしていたが、「大衆運動の経験も、組織をつくった経験もなく、中国地方委員会に乗っかっていただけで、われわれはたいしたことのない人物とみなしていた」と当時、福田主幹の周辺にいた人たちは語っている。
 当時作家の中野重治や金達寿も広島に来たことがあった。朝鮮人の宮島集会のときであるが、中国地方の運動に力があるのにびっくりしていた。「かれらはせいぜい朝鮮人の生活要求の斗争程度だったが、中国地方では堂堂とした民族運動だった。これも福田さんの指導があったからだ」。またその場で中野が宮本顕治をもちあげるものだから、福田さんが「おまえはあきめくらか」というようなことをいって、中野重治がえらく感服したこともあったという。1951年に、中国地方委員会は「分裂主義であり、解散せよ」というモスクワ放送、つづいて人民日報社説があって、中国地方委員会は解散せざるをえなくなった。「当時ソ連の権威はものすごいものだった。自分たちは教条主義があったから大動揺したが、福田さんだけはまったく動揺しなかった」。
 この時期も、家庭生活の困難はいうまでもなかった。警察はしばしば「福田はどこに行ったか」といってくる状態であった。光子夫人は失対に入って家計を助け、4人の子どもたちを育てた。福田主幹は「個人の生活は、社会全体がよくならなければできないのだ」と説明していたという。
国際的現代修正主義とのたたかいへ
 広島における50年8・6平和斗争は、福田主幹の戦後の活動の画期をなすものであり、人民がいるところではかならず勝利するという確かな確信を得るところとなった。それはモスクワ放送がなければそのままずっと発展していたものであった。ここで壁となってあらわれたのは国際的な潮流であり、ソ連共産党指導部を中心とした現代修正主義であった。それは当時、社会主義国の指導部として絶大な権威と影響力を持っていた。それは孤立を余儀なくされ、ひじょうな困難をもたらしたが、しかし戦前と第2次大戦、中国革命のみずからの経験から見て驚くことではなかったと思われる。
 「アメリカ占領軍は解放軍だ」といっていた側は、福田主幹らを「悪質分派」「階級敵」などと攻撃し、除名処分などで排除しながら、その後火炎ビン斗争など極左の方向にはねていく。この重大な困難のなかで、福田主幹はひるまなかった。もっと大きな決意に立って、大衆のなかに深く根をおろし、いく千万大衆とともに新たな困難にたちむかう道をすすんでいった。戦前に「なにがなんでもやらねばならぬ」といって『展望』を発刊したが、もっと大きなスケールで再開することになる。
 広島から帰ってまずやったのが下関での回覧雑誌であった。それは苦労のいる仕事であったが、幹部という肩書きではなく、自転車で回覧雑誌を家家に届けて回り、裏口から人民の生活とかかわり、豊富ななまの人民生活を知り学ぶところが多かったといっていた。
1955年、人民の言論機関「長周新聞」を創刊
 そして1955年、福田主幹がつくった最高の傑作というべき人民の言論機関・長周新聞を創刊する。共産党は分裂し瓦解しているが、それでは人民が困る、人民のためにどうするかということについて、当時共産党から排除されている山口県の有志のなかで論議がくり返された。そして「いかなる権威にも屈することのない真に大衆的な言論機関」として「独立、民主、平和、繁栄、民族文化の発展」の編集綱領をかかげて、まったく新しい人民のジャーナリズムを創造する、そのような高い意気ごみで長周新聞の創刊となったのである。
 それはいっさいの国際権威主義・政治主義・官僚主義の俗物路線とたたかい、また「大衆的」といって卑俗な常識主義のとりこになっていく流れとたたかい、地方現実の方向、地方に生きる人民の生活と斗争を歴史的社会的に描きあげていくという方向を断固としてすすんでいった。それはまさに徒手空拳のなかから、みずからの路線の正しさと大衆の支持を確信して、政治的経済的なあらゆる困難や妨害を乗りこえて心血を注いだ活動を展開することとなり、印刷工場を持つ長周新聞社をつくりあげ、人民の統一戦線をまたたく間に発展させていった。
 1955年の6全協以後、福田主幹たちも共産党に復帰することになる。福田主幹のある友人は、当時指導的な地位についた宮本顕治が「アカハタの編集長をやらないか」とエサをまいたという。だがそのようなことは歯牙(が)にもかけるものではなかった。当時宮本は、赤ジュータンを敷いた党本部にいて、ジャンバー姿であらわれた福田主幹を「そのかっこうはなにか」となじったという。
必然的な反修決起、人民解放の道筋を開く
 福田主幹のそのような路線と活動はその後必然的に、ソ連修正主義との斗争となり、1966年の宮本修正主義裏切り者集団にたいする反修決起と1969年の日本共産党(左派)の結党となる。1970年代にはベトナム革命を売り渡してアメリカに投降した中国修正主義との斗争となった。それは必然的に、おびただしい血を流してうち立てられた戦後の一連の社会主義国を瓦解させ、革命を流産させてきた現代修正主義について、それが第2次大戦にむかう過程でソ連指導部のなかで支配的となった民族主義に原因があり、ソ連一国を守るために世界の人民の解放事業を従属させ、アメリカ帝国主義に屈服してきたという、国際共産主義運動の歴史的な検討と解明へとすすんだのである。福田主幹の生涯の活動は、レーニンの死んだあと第2次大戦にむかうなかでソ連を中心に発生した現代修正主義の裏切り潮流とたたかって、人民解放事業の道筋を切り開いてきたものだといえる。
 福田主幹の活動について、戦後のいわゆる左翼勢力のなかでは多くの偏見ないしは過小評価が支配してきた。そこには今日総崩れとなっている、戦後支配した国際権威主義と現代修正主義の影響が作用しているのである。その一方で、戦前から戦後の今日にかけて、福田主幹とのまじわりはわずかの期間であるが、ひじょうに信頼を寄せ、感謝してきたという人人は数かぎりないものがある。保守的といわれ、政治的な立場は異なっている人人が福田主幹の革命活動を物心両面から援助してきた例も数かぎりない。ある人はいっている。「うちの父親は自民党のゴリゴリの市会議員で、共産党が大嫌いでした。しかし福田さんだけは心から尊敬していました」と。福田主幹はあらゆる斗争で孤立感を感じたことはないといってきた。福田主幹の活動を正当に理解することは、現代修正主義の影響を払拭(しょく)することと深くかかわっている。
 福田主幹の生涯は、戦前、戦後の全生涯をかけた実践のなかで、人民のために献身しつづけてきた人生であったし、いく千万大衆とともにすすんできた人生であり、いっさいのまやかしとたたかい、修正主義裏切り者集団とたたかいつづけた、真のマルクス主義者、真の共産主義者の一生であった。その人民解放の革命路線は、今日ひじょうに新鮮な輝きを持って、多くの人人に展望を与えることは疑いない。告別式で古い友人の1人は独特の表現の仕方でいった。「釈迦もキリストも死ぬときは小さい集団でした。あなたはいまから生き返る人です」と。福田正義主幹の生涯をかけた事業とその精神が、現代に生きる青年たちに受けつがれ、社会の正しい進歩発展と人民解放の巨大な力となっていくことは疑いないであろう。

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