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日本変える質の運動大合流へ
               間近に迫る没10周年集会    2012年5月16日付

 福田正義没10周年記念集会(20日午後1時から、下関市・シーモールホール)が間近に迫っている。記念集会は、この10年間、なかでも最近の五年間でめざましく発展してきた原水爆禁止運動、沖縄や岩国の基地斗争、教育・文化・市民運動など、日本を変える質を持った新しい運動が大合流するものになろうとしており、関心と期待が非常に高まっている。今回は再度、各界から寄せられた投稿を特集的に紹介する。

 福田労働運動論の今日的意義            埼玉大学名誉教授  鎌倉 孝夫

 金融独占資本の利潤原理の下では、今や人間が人間として生きられない状況となっている。この体制を変えなければならない。労働者・人民が社会の主人公となり、人間らしい社会を築くことが現実の課題となっている。
 しかしこの体制を変革する主体でなければならない労働者、組織労働者(労働組合)の実態はほとんど瀕死の状況にある。独占資本の支配体制の維持が、労働者・人民に犠牲と負担を押しつける以外にありえなくなっているのに、連合(とくにその幹部)は、なお資本の成長=景気回復に期待している。税と社会保障の一体改悪を進める民主党政権をなお支え続けている。電力労組は、とりかえしができない原発大事故に見舞われているのに、なお原発再稼働・推進を図ろうとしている。それがもはや自らの雇用さえ守りえなくなっているのに、なお資本家的企業に頼ろうという。しかし日本共産党も、これだけの状況に直面しながら、相変らず一人よがりの独善を続け、しかも資本主義自身がこの腐敗・擬制の資本主義からより健全なそれに戻りうるかのような幻想に陥っている。
 日本労働運動は、その原点に立ち帰り、斗う意識と行動をとりもどさなければならない。福田没後10周年記念に掲載した『長周新聞』福田労働運動論(2012年3月7日)に接し、その労働運動論が、いまの日本の労働運動を立て直す上に、決定的意義をもっていることを、確認することができた。生かすべき点を何点か指摘しよう。
 第1に、情勢分析の鋭さである。「三池斗争の全人民的性格」の中で、福田は、「日本の独占資本は、アメリカ独占資本の命令と要求に忠実に従って、アメリカ独占資本の投下市場として最も便利なように、超低賃金制を維持し、勤労人民の民主的な権利をなくし、日本人民を半奴隷的状態におしつけようと必死になっている。…このようなアメリカ独占資本と日本独占資本の合作による日本勤労人民に対する攻撃の集中点」、それが三井三池の労働者の斗いに対する攻撃である、と指摘している。この指摘は、いまTPPの本質をとらえる上に的確に妥当する。日本独占資本は、まさにアメリカ独占資本に従い、日本の勤労人民の収奪の場を全面的に開放することによって、同時に自ら勤労人民の収奪を図ろうとしている。独占資本の本質は、勤労人民の生活や国土の保全、そして自立した国としての主権さえも自らの利潤追求のために投げ棄てるのである。
 労働者、勤労人民の生活難、生きる基盤の解体、それをもたらしているもの=労働者・勤労人民の“敵”それは米日の独占資本そのものである。その認識を、全勤労人民のものにしなければならない。
 第2に、福田は、原水爆禁止運動に、労働組合が消極的であることに関し、その原因が「経済主義」にあることを指摘している。「労働組合が、その運動を、経済主義的に狭く考えることは、組合の主観的意図に反して、労働者にとってきわめて不利益なことである」と。そして「平和運動」の重要性に関して、「それ自体の人類的任務からも、それが労働者の生活の安定と向上の問題と深く結びついていることからも、他の諸階層との固い統一をすすめる上からも、国際的な民主勢力との連帯を強める上からも、何にもまして第一義的な重要性をもっている」と指摘している。
 この指摘は、労働組合運動再生にとって 今日的重要性をもつものとして、生かさなければならない。原発と原爆の不可分離な関係、災害救援に名をかりた「トモダチ作戦」による米軍隊の日本自衛隊支配、そして朝鮮敵視、中国軍事力脅威の大宣伝による侵略的軍事同盟強化――それが日本の労働者の生活に密接に結びついている。狭い「経済主義」にとらわれ続けること、それは市場の弱肉強食の競争の中で、互いに足を引張り合い、同じ仲間と争いながら、互いに破滅することになるほかないこと、その自覚を確立し、これを克服しなければならない。
 第3に、福田は、失業問題に関連して、「とくに重要なことは、これらの失業者を組織し、その運動を成功させるためには、何よりも組織労働者が先頭に立ち積極的に支援することが重要である」と指摘している。失業の問題、失業者に仕事を保障し生活を保障する問題は、現に雇用されている労働者自身の、「自分の問題」としてとらえなければならない。労働組合運動は、労働者階級全体の運動でなければならない。組織された労働運動による失業者の組織化と連携、それこそが問題解決の基本なのである。
 さらにこの点に関連し、福田は、労働組合運動と住民運動との連携、協力についても、重要な指摘をしている。直接には自治労中心の自治研集会に関して、「一般市民の側から見た場合、…特権者の道具としか考えられない役所の、そこで働いている労働者たちが、その役所を真に住民の要求にこたえるものとしようとする真剣な努力がはじまっている」とし、「何よりも、全参加者が自分たち自身の中にある上向きの態度、官僚性、役人気質というような、知らず知らずのうちに身につけているものにきびしい自己批判を加え、住民に奉仕する公務員であり労働者の一員であるという自覚を高めること、また住民の要求を積極的に取り上げるための活動の仕方について…熱烈に議論された。…自治体労働者こそが先頭に立って、他の労働者や市民と手を握って、住民の要求を満たす自治体にすること、そのことが政治の民主化の何よりも重要なことであることを確認した」としている。
 自治体労働者が、この提起に即して、地域住民、勤労人民と連携して住民の要求を満たす自治体をつくること、それを地道に実行するならば、いま行われているような、公務員バッシングを完全に克服することが可能である。
 労働者、勤労人民こそ、社会の存立・発展の主体ととらえ、主体としての意識と組織的実践によってこそ、資本―独占資本の支配、収奪を変革し、真に人間らしい社会を築くことができる――福田のこの確信的提起は今日いよいよ輝きを増している。
                                      (2012年5月9日)

 若い人達と肩を並べ長崎で原爆反対の運動広げる  原爆展を成功させる長崎の会
                                                吉山昭子
 長周新聞社の福田正義さんの没10周年にあたって、新聞に掲載されたさまざまな文章を読ませていただき、この福田さんという方は日本の貧乏からはじまる戦中、戦後の時代に、私たちと重なるさまざまなものを背負って生きてこられた人だと感じております。お会いしたことはありませんが、みなさんの意気込みを通じて、今回の没10周年の集会はまさにその遺志を継いだ「日本をつくる大運動の起点」そのものだと思います。
 私は、2006年に長崎市内の馬町バス停付近で、原爆のパネル展をやっている若い人たちに姉が偶然話をしたことをきっかけにおつきあいがはじまりました。
 それまで、私たちは原爆について一切隠していましたが、暑いなかで原爆展のチラシ配布をしている若い人たちを見ていると、当時のことを思い起こし、亡くなったお友だちのためにも私たちが語り継がなければいけないと居ても立ってもおれない気持ちになりました。それから六年がたち、第一回目から八年間、長崎で原爆と戦争展を続けてきたことによって、長崎市民の意識はずいぶん変わってきました。原爆展は市内の小中学校、大学にも広がり、今では毎年恒例となった西洋館での原爆と戦争展の開催を心待ちにしている人もたくさんいます。また、一緒に行動してきた長崎大学の学生さんが今年、劇団はぐるま座の一員になったこともわがことのようにうれしく感じます。これもみなさんとともに長崎でとりくんできた努力の成果だと思っています。
 戦争、被爆から六七年がたち、だんだん世の中が変わっていくなかで、私たちの苦労が「戦争だからしかたがなかった」といって片付けられる反面、私たちの心の底では原爆による悲しみ、悔しさは消えることはありません。私たちの年代の人たちは苦労に苦労を重ねて、食べ物一つない時代を生きてきましたが、今の若い人たちにはそれはわかりません。また、被爆したことによって縁談も次次に断られ、差別にもあい自殺を考えるほど苦しみましたが、そのぶん自分の力で乗り越えて、今では人一倍の強さ、優しさをもっていると思っています。今の日本がどれほどの犠牲や苦労のうえにあるかということを若い人たちに伝えていくことはこれからますます必要になると感じています。豊かな時代に育った人たちも、このような苦労を知らなければ、これから大変になってゆく世の中を生き抜いていくことはできません。
 日本は、戦後、アメリカに占領され、いいなりになって食べ物から教育まですべて押さえつけられ、日本の本来の姿が崩れ、すべてを吸いとられていくように感じます。私たちに残された道は、「しかたがない」といってそれを受け容れるのか、それに立ち向かうのかの二つに一つです。政治家にいくらアメリカかぶれが増えたとしても、私たちは日本人魂を捨ててはいけません。とくに私たち、広島、長崎の人間は「しかたがない」といって諦めることは絶対にできません。だれがなんといおうと戦争を繰り返させないために、命をかけてやらなければいけません。私も八三歳になりますが若い人たちと肩を並べて、長崎で原爆反対の運動を広げていくことをお約束します。

 広島の会に入り原爆の体験伝え残す今が青春 原爆展を成功させる広島の会 上田 満子

 原爆展を成功させる広島の会に参加して5年目に入りました。4年前、呉市の友人からの紹介で原爆展を成功させる広島の会の事務局の方が訪ねてこられ、「ぜひ体験を話してほしい」と頼まれましたが、そのときは「私は語りません。私の眼と胸に弟と母の無残な形相が焼き付いています。戦争はもうごめんです」とお断りしました。ですが、いろいろと世間話を聞かせてくださるうちに、人様の役に立つことならと、納得半分でお受けしました。はじめて体験を話したときは人前に立って話をすること自体が生まれて初めてで、マイクを持つ手もぶるぶると震えながら必死で話しました。それから四年間、今ではあちこちの原爆展や修学旅行生や小中学校、大学にも出向いて原稿もなく体験を語ってこれたのも、自分が体験してきたありのままのことだから続けてこれたのだと思います。
 私は、13歳のときに原爆で母と弟を亡くし、その後、県北の親戚に預けられましたが、被爆したことや乞食同然の貧乏生活であったことからたくさん差別を受け、本当に苦しい思いをしてきました。友もなく、青春もなく、ただ「負けるものか!」と歯を食いしばってがむしゃらに生きてきました。本当は語りたくはないけれど、私が生かされている以上、原爆の体験を後世に伝え残していくことが私の使命であり、母や弟をはじめ亡くなった人たちへの供養ではないのかと思い、広島の会に入りました。それから活動にはできるだけ参加させていただいてきましたが、学生さんから大人の方方まで真剣に聞いて下さり、私も元気をもらってきました。学生さんたちは「平和教育を受けてきたけれど、実体験者から話を聞くとよくわかる」といわれ、これまで学習していたことと事実との違いに驚かれる人が多くいます。
 日日の生活に追われ、世間知らずだった私も、活動のなかでさまざまな情勢を教えていただき、世の中を見る目も変わってきました。最初は体験を話すことで精一杯でしたが、今では戦争や米軍の問題、東北での原発事故などにも触れて、絶対に戦争を起こしてはいけないとお話ししています。会に参加することで人生は180度変わり、人づきあいの範囲も広がり、笑顔も出るようになりました。本当に今が青春です。
 貧乏のどん底のなかから生きてきた私は、世間のことはなにも知らず、広島の会のなんたるかもわかりませんでした。なぜ、下関や長崎にも行かないといけないのだろうかとも思っていましたが、この運動の本元が長周新聞であり、全国の人たちと繋がったものであること、福田正義さん、礒永秀雄さんにもお会いしたことはありませんが、この方たちが先駆者となって、私たちをここまで引っ張ってきて下さったことが今さらながら理解できるようになりました。今を生きている私たちがその志を継いで、それぞれに力を合わせてたたかっていくことが、これからの日本のためであり、みんなのために力一杯頑張らなくてはならないと思います。
 長周新聞は年間を通じて原爆について力を入れておられ、私たちにとって身近なことから、戦争に関わるさまざまな問題や岩国米軍基地、上関原発のことなど、これまで耳にすることのなかったことを真っ先に教えてくれる新聞であり、いつもポストに入っているのを楽しみにしています。下関や長崎の人たちとの交流では団結することの大切さを教えられ、実体験はなくても私たちと一緒に献身的に協力してくれる若い人もおられ、毎月二回、学生さんや下関のお力を借りてやっている平和公園での原爆展は大変な反響で、「資料館にはない展示だ」と口口に評判が広がっています。みなさんの協力に本当に頭が下がります。一人一人の力は小さくてもみなで力を合わせていけば変えていける。人のために生きていくことが最大の生き甲斐であり、生きる希望です。80歳を迎えましたが、命の続く限り、私に与えられたこの仕事をみなさんと団結して頑張っていきたいと思います。

 「皆のため」の本物の教育を同僚教師達と共に  山口県教師 宮田 美紗子

 私は前任校でご一緒した先生がきっかけで4年前、初めて平和の旅に参加しました。あのときの感動は今でも忘れません。初めて出会った子どもたちが、自然と仲良くなる。自己紹介のときは小さい声でしかいえなかったのに被爆者の方のお話を聞いた感想発表では、堂堂と大きな声で発表する。リーダーを中心とした大きい子が、小さい子を気遣い面倒をよく見る。小さい子は、お兄ちゃんお姉ちゃんに甘えながらもいうことをよく聞く。構成詩の発表では、全員が声をそろえて響く声で発表する。市中行進では、きつくても最後まで歩き通す。
 たった2日間ですが、この2日間で子どもたちはものすごい成長をします。最後の解団式のときは、どの子も自信に満ちたすがすがしい顔をしています。それは、子どもたちの集団の力と、子どもたちのために一途に熱い指導をする教師の力、この旅を支えるスタッフの方方の力からだとわかりました。それ以後毎年参加していますが、子どもたちの目を見張る成長に、毎年たくさんの感動をもらっています。
 平和教室にも参加していますが、そこでも子どもたちは成長します。初めて参加してもじもじしている子どもたちに、リーダーは優しく声をかけ手をつなぎます。子どもたちはあっという間にうち解け仲良く遊びます。活動の最後では、必ず全員が感想を発表できるようになります。またカンパ活動でも数時間のうちに、見違えるような大きな声で呼びかけます。頭を下げてチラシを配り地域の方方に訴えるようになります。平和教室でも、教師は一致団結して、子どもたちのためにときには厳しく、ときには優しく指導をします。
 私が数年間平和の旅や平和教室で学んできたことが、参加した子どもや教師の学校現場で生かされるようになります。学校現場につながるようになります。私たち教師はなにがあろうと、子どものために一心不乱にとりくみ、同僚の教師と一致団結して、子どもたちの成長のために、全力で突き進んでいます。毎週の合同体育を中心として体や精神力を鍛えます。行事を含め、さまざまな活動においても、学年の子どもたち全員が一緒にとりくみます。そのなかで、必ず子どもたちは、共に協力し励まし合いながら集団的に成長し、私たちに大きな感動を与えてくれます。
 福田路線を学習し福田路線に貫かれた教育だと気づかされました。みんなのためにの集団主義や働く者の後継ぎを育てることが、本物の教育なんだと強く思いました。 さらに福田路線を学んで、本物の教育を同僚教師たちとともにおこなっていきたいと思います。

 人民感情にあふれた舞台こそが現実を動かす  劇団はぐるま座 為貞 卓也

 中学校2年の春、山口から下関に移り住んだ先に福田さんが住まわれていた。当時はたまに近所を散歩されているときに挨拶を交わす程度のかかわりであったが、いつもニコニコとした温和な表情で中学生だった自分たちにも丁寧に挨拶を返してこられるその姿が印象に残っている。今にして福田さんの愛情の深さを感じるが、その愛情は圧倒的多数の民衆の上に注がれていたし、だからこそ敵に対しては非妥協でたたかう姿勢と共にあったということを没10周年に際して改めて教えられている。
 自分が入団した当時の劇団は、福田さんをはじめ、多くの県民・支持者の方方の危惧(ぐ)の声を無視して無謀な会館建設に突入していく時期だった。東京あたりの文化人に色目を使う「偉い」演出家先生が劇団を私物化して振り回し、思いつきのように役者を振り付け罵倒する、役者陣はブルジョア俳優に劣等感を持たされながらも、ただその要求にあくせく応えていれば現実社会がどうなろうと飯が食えるという世界だった。現実の外に机をおいているのに、やれリアリズムだとやっているうちに人民感情とどんどんかけ離れていき人民性は失われ劇団は破たん状態へ突入していった。
 そのなかで自分自身の人民性をも失っていた。世間から孤立した稽古場と、劇場の往復だけの生活にけっこう満足して、演技となればひたすら観念でつくられた設計図どおりの演技を舞台の上で再生産していればそれでよしとする安住思考が根深くはびこり、それで人民大衆への愛情などといったところで話にならない状態だった。
 人民劇団の再建に立ち上がって五年、各劇団員の奮斗努力で劇団の様相は一変している。
 舞台創造では、一片のつくりものも許さない「真実」で勝負する、本当のリアリズム演技の追求が始まっている。俳優陣一人一人も寸暇を惜しんで公演準備で地域を駆け回り、現実の激動のなかに生きる人人の感覚から見て何をどう打ち出すのか、セリフの一つ一つの言葉が語りだされる根拠、瞬間瞬間のしぐさ、表情、目の輝きに至るまで厳密に突き詰め、日日発展する情勢に相応した毎回新しくその場で生まれるものとしての演技の追求が始まっている。それはそれらしくやるつくりものの 「お芝居」を断固拒否し、役の世界、作品の世界に接近するために自分を日日改造していく覚悟を迫られるものだ。それはかつて劇団代表だった藤川さんが説かれていた、はぐるま座の正統なリアリズム演技創造路線の再建の道だった。
 かつて藤川さんが礒永さんの詩『十年目の秋に』の朗読に挑まれたとき、「自分にはこの詩は読めない」と深く葛藤されていた姿を自分も見てきた。自分にはアメリカへの本当の怒りがないと苦悩され、その感情世界を改造され、多くの戦争体験世代の人人のもつ感情世界をつかんで創り出されたその朗読は、圧倒的な感動を与えるものだった。そんな突き詰めも葛藤もなく、与えられた役のセリフをそれらしくこなして矛盾もおこらなかった自分自身の生き方の抜本的な変革なしには時代の要求には応えられない。
 今公演中の『動けば雷電の如く』でも、『原爆展物語』でも、変革を望む多くの人人の願いをつかんで自分たちが革命を起こすのだという気概が舞台の生命だと語り合われている。そこには俳優自身の生き方があらわれる。本当に多くの人人に深い愛情を寄せているのか、己の生活に充足して大衆を忘れていないか。入団してから十数年の旧世界で身に着けていた古い創造路線、演技感覚、芸術観は思想・作風として相当に染みついていて、総合芸術の演劇では少しでもそういう要素があれば舞台を損なってしまう。これを一つ一つ引き剥がし、常に人民大衆の中に身を置き、人人の時代意識に学び、人人が何に怒り、悲しみ、喜んでいるのか、その喜怒哀楽を共にしてはじめて、豊かな人民感情にあふれた舞台が創造できるし、大衆もそれを願っている。福田さんが懇切丁寧に指し示されていたリアリズムの道を体得するにはまだまだ自己の私心を削り落として人民大衆への愛情を培わねばならない。
 しかしそうして創り出した舞台は激しく現代と響き合い、その地その地の人人が「自分たちにも何かできるのでは!」「この町を変えていくのは自分たちだ!」と、観た人人の魂を揺さぶり行動にかきたて、若者たちは原爆展のスタッフにも参加してくるなど現実を動かしていく実際の力へと転化し、目の覚めるような威力を発揮しはじめている。大衆の沸き立つ時代意識の中に身を置いて初めて描ける人民感情にあふれた舞台こそが現実を動かす、大衆の中から大衆の中へのリアリズムの創造路線は確実に打ちたてられ始めている。
 長周新聞四五周年の記念集会の席で車イスのまま福田さんが舞台に上がられ、劇団員一人一人に固い握手をされて回った。その驚くほどの力強さのなかに福田さんが劇団に託されようとしていたものが、今はっきりと理解できるようになってきた。劇団60周年の今年、その思いを受け継ぎリアリズム芸術の創造の先陣に立っていけるよう自己を鍛えていきたいと思う。

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