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「日本を変える芝居」と期待
『原爆展物語』台本感想交流
               広島の心全国に伝わる喜び    2009年10月26日付

 広島市西区の三篠公民館で23日、劇団はぐるま座による新作『峠三吉・原爆展物語―広島、長崎、沖縄、戦地の真実』の台本感想交流会が開かれた。交流会には、原爆展を成功させる広島の会の被爆者や主婦、劇団はぐるま座団員など約20人が参加。広島、長崎をはじめ全国に広がってきた峠三吉の原爆展を振り返りながら、戦後のアメリカ支配の中で覆い隠されてきた第2次大戦、戦後社会の真実を歴史の表舞台に引き出し、日本全国に渦巻く独立と平和の確かな力を描き出した新作の内容に、「広島の本当の歴史を浮き彫りにしている」「この劇で日本を変えてほしい!」と強い期待が語られ、白熱した交流となった。
 はじめに劇団はぐるま座から、「原爆展がはじまった2001年以来、この運動を担い、これまで精力的に原爆展をおこないながら若い人たちと結びついてこられた広島の被爆者の皆さんとともにこの劇を作りあげ、全国に打っていく決意でいる。この公演で原爆展を全国に広げる責任は大きい。しっかり学びながらいい舞台にしていきたい」と意気ごみが語られた。
 また、『動けば雷電の如く』の全国公演の中で、「アメリカの占領政策に負けてはいけない」「戦後教育の中で日本の文化や歴史が教育されなくなり、このままではいけないと皆が気づきはじめている」などの反響が共通して語られ、現代社会を描いた『原爆展物語』の創作が喜ばれていること、「この劇は作り話ではなく、真実そのものを描いていかなければいけない。広島の心を学び、日本を揺り動かしていく運動を作っていきたい」と全国的な期待に応えていく決意をのべた。
 原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長が「原爆展を取り上げて劇をつくられることを大変光栄に思っている。これで広島の心も十分全国に伝わっていくと思う」と謝辞をのべ、参加者から口口に感想が語り合われた。
 80代の男性被爆者は、「この劇の冒頭に“禁か、協か”と広島市民の怒りが出てくるが、私の経験と重なって感激している。ちょうど原爆被害が隠された10年を経て原爆反対の運動が盛り上がっていった矢先に“いかなる核兵器にも反対するか、ソ連の核兵器を肯定するか”と公の場で論議されるようになり、原水禁と原水協に分裂していった経緯がある。その時期を思い返すといまでも憤激が蘇る。それをどこまで舞台で表現できるのかという思いとともに、峠三吉の詩に“差別用語”という指導を受けていたことなど私たちが知らないこともあった。この劇は、当時の社会情勢、広島の本当の歴史をむき出しにしてくれるのではないかと期待している」とのべた。
 被爆遺族の婦人は「原爆展スタッフの葛藤が自分と重なって心に食い込み、涙が出てきた。私も20代の頃、被爆者の方に被爆体験を尋ねたことで怒鳴られ、ケロイドを見せられた経験がある。それから60年間、原爆のことは絶対に聞いてはいけないと心に戒めてきた。広島でなぜ体験を語ることにこれほど勇気がいるのか知らないことばかりだったが、原爆展が広がる中で次第にはっきりしてきた。この劇で学びたいことがたくさんある」とのべた。
 80代の被爆婦人は「台本にたいへん感動している。“動けば雷電の如く”では舞台芸術と力強い演技にとても感動したが、今度の劇は、先の見えなくなっている現在の日本社会そのものを描いている。大いに上演して、日本の国を変えていっていただきたい!」と万感の思いを語った。
 80代の被爆婦人からは、兄が沖縄戦で玉砕し、両親を原爆で失った経験から「どんなにこの日を待っていたかわからない。無念に亡くなった家族のためにと、この会に参加して子どもたちに語り伝えてきたが、それが劇になって全国に伝えられることほどうれしいことはない。この8年間の経験でいただいた喜びがこの劇に詰まっている」と感無量の思いが語られた。

 背景画や音楽等も紹介

 つづいて、劇団はぐるま座の美術スタッフから各場の背景画とポスターの原案が披露された。平和公園の原爆の子の像、旧日銀広島支店、長崎西洋館、中央橋、下関・福田記念館などの各場を臨場感をもって描き出し、場面に応じて舞台に半透明の沙幕を引いて原爆や全国空襲の惨状、それを指揮したルメイ司令官の顔写真などを映し出す方式をとることも紹介。
 「さらに、厳寒の満州の吹雪の戦場や熱帯のジャングルの臨場感をどう出すのか、戦中戦後の苦難を乗り越えてきた日本人民の誇り高い歩みを舞台に塗り込めたいと高い意気込みで創造に挑んでいる」ことを報告した。
 また、音楽集団のスタッフは、プロローグや戦場場面、最終場面などに挿入する劇中音楽を披露。戦場シーンでは、戦場の重苦しさを彷彿とさせる低い旋律の中に「ここは御国を何百里/離れて遠き満州の/赤い夕日に照らされて/友は野末の石の下…」(戦友)の歌も挿入されており、参加者には一緒に口ずさみながら聞き入る姿も見られた。スタッフは、「私利私欲ではなく、人人のために奮斗する透明な思想、原水禁運動のもつ国際連帯性という幅広さを音楽を通じて表現していきたい」と抱負をのべた。
 兵役経験のある男性被爆者からは、「この“戦友”の歌は、厳しい軍律を犯してでも銃弾に倒れた友を助けに戻るという内容で、当時は“あまりにも女女しく、非国民の歌ではないか”という排撃を受けた。部隊によっては歌うことを禁じられていたが、この歌には当時の兵隊の心情があらわれていて私たちには親しみがあった」と共感が語られた。

 現代変革の糧にと論議
 論議では、この劇のテーマと関わって、広島からはじまった原水爆禁止運動が潰されていった痛恨の経験、その抑圧構図を取り払って峠三吉の時期の伝統をもって勢いよく盛り上がってきた原爆展運動の「私心のない純潔さ」を鮮明にすることの大切さや、労働運動をはじめ、現代を変革する運動の発展を期待する意見が語りあわれた。
 「原水禁運動の分裂から、運動に背を向けていた」という男性被爆者は、「当時は労働運動でもメーデーなど団体行動のときにはエライ人が壇上に上がって、被爆市民の感情にあわない特定の思想を持ち込むようになって分裂騒ぎにまで発展した。原水禁運動は、杉並の主婦がはじめた署名活動からだという見方もあるが、その前から広島市民の中には運動があった。その本来純粋な運動が分裂によって瓦解させられたことは広島にとっては大きな痛手になり、いまでも“禁か、協か”といわれるほど市民の不信を集めることになっている。いまの被爆者団体も市民からはかけ離れて、党派や個人の道具にしている」と強調。
 「あのころの労働運動に関わっていた若者たちの、国を変えるという熱気はすごいものがあった。警官に囲まれても物ともしない気迫があった。あのころの伝統を伝え、いまの若い人たちにあの熱気を味わってもらいたい」と期待をのべた。
 はぐるま座の普及スタッフは、『動けば雷電の如く』広島公演を取り組んだ人人から寄せられた新作台本の感想を紹介。「元食品メーカーの工場長だった男性は、労働運動に参加した経験から“あのころはまともな運動ではなかった”と振り返っている。台本を読んで“峠三吉のころの労働運動は、原爆反対が運動の中心であり、経済要求ではなかった”という部分に非常に共感し、“ここが根本的に違っていた。自分たちの物取りばかりやっている労働運動は瓦解しているが、みんなのために先頭に立つという方向ならたくさんの人が参加してくるのではないか”ととても喜んでいる。下関の元気のよさ、広島でこれだけ大きな運動を広げてきた組織力、私心のない運動の力に関心が高まっている」と報告すると、参加した被爆者たちも深くうなずいていた。
 活動に参加して7年になる男性被爆者は、「私も政党政派とは関係のない純粋な市民活動ということで加わり、夏の原爆展には“広島、長崎の本当の声を全国、全世界に伝えよう”のスローガンのもと毎日欠かさず出席してきた。同時に、これまで語ることのなかった兄弟、家族に自分の体験を語るようになり、最近では原爆展に来てくれるようにもなった。いまは体験だけではなく、自分たちの受けた辛い体験を子どもたちには絶対にさせてはいけないという思いをできるだけ多くの人に語っている。この劇はパネルに書かれている内容そのものでよく理解できる。劇を通じて私たち体験者の思いが伝われば光栄だ」と期待を込めてのべた。
 2年前から体験を語りはじめた婦人被爆者は、13歳にして母と弟を原爆で失い、ヤケドの足を引きずりながら親戚の家に行き、幼い2人の妹を育てるために学校を退学して家計を支えてきた戦後の苦労を語り、「ピカの病気がうつるといわれ、差別を受けるのでずっと被爆したことは黙ってきた。ずっと胸の中では悔しく、悲しく、母と弟を奪ったアメリカが憎くても心の持って行き場がなかった」と経験を振り返った。
 「この会ではじめて体験を語るようになり、はじめは手足が震えたが、親や兄弟や何十万人の犠牲者の代弁ができればと思っている。この劇にはとても期待をもっているし、広島の思いを全国各方面に広げてもらえることに感謝したい」と語った。
 最後に、はぐるま座から、さらに台本を練り上げながら年末から集中稽古をおこない、来年初頭には広島現地で公開稽古をおこなうことが提案され、被爆者たちも一緒に作りあげていくことで一致。来年3月の下関初演を皮切りに、四月の広島、長崎公演に向けて全力をあげていく決意が示され、全員の拍手で締めくくられた。

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