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日本を変える出発点へ
              長周創刊55周年集会実行委が発足   2010年2月22日付

 長周新聞創刊55周年記念祝賀集会の第1回実行委員会が21日、下関市田中町の福田正義記念館で開かれた。各界の実行委員が集い、創刊五五周年の読者運動の開始を確認する場となった。長周新聞の55年の歩みと合わせて、戦後65年の総括論議を新聞紙上も使って巻き起こすこと、全国から読者・支持者が大結集して、今後の展望を語り合う記念祝賀集会への参加を呼びかけていくこと、記念公演として取り組まれる劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』の大成功を勝ち取ること、読者による読者拡大を進めていくことが呼びかけられた。参加者からは長周新聞との出会いや、生き方とかかわった思いが旺盛に語られ、いかなる権威にも屈することのない人民言論紙をさらに強大なものにしようと、やる気に満ちた発言が相次いだ。
 はじめに実行委員会呼びかけ人代表の柳田明氏が開会挨拶。「長周新聞55周年は、日本の将来のため、民族の将来のためにやるんだ! という新しい現代的な事業の具体化がはじまる年でなければならない。下関なり全国において、いい加減な政治をまかり通らせないような根を張っていくことが求められている。日本社会の転換期に長周新聞の活動が更に発展し、人が変わり、子どもが変わり、地域が変わる力にしていければ。今日はこれだけの人が集まり、ひじょうに今から楽しみだ」とのべた。
 続いて、長周新聞社を代表して森谷編集長が挨拶をのべ、55周年記念集会実行委員会の活動についての提案を事務局の安村直行氏がおこなった。自己紹介の後、討議にうつった。はじめに創刊当時を知る人人や古くからの読者である実行委員たちから、55周年に寄せる思いが語られた。
 下関市内に住んでいる退職教師は、「長周とは長い付き合いになるが、普通の新聞だけ読んでいても世の中の事はわからない。長周を読んでいたおかげで、大きな間違いもせず生きてこれたことを感謝している。昔インチキ教師だと叱られたこともあった。それで購読を止める人もいたが、わたしは読み続けてきた。いま思うと正解で、わたしの友人でまともに話ができる人はみんな長周を読んでいることに気付く」と語った。
 そして、「最近、記者座談会や教育座談会が多かったように思う。内容が細かくてわかり易かった。思い切って更にやってほしい。非正社員の座談会などもやってもらいたい」と要望をのべた。
 創刊当時から長周新聞を知っている劇団はぐるま座の男性は、原爆展物語のエピローグのなかで、活動家が“大衆の側から見るか、自分の側から見るか”を論議する場面があるのを指し、「まさに60年前の朝鮮戦争当時のたたかいのなかで、教えられたことだと思った。ストックホルムアピール署名のなかに“原爆を最初に使った者を犯罪人と見なす”という一文があり、朝鮮戦争に突き進む情勢のなかで、占領政策違反になるので署名が恐いという意見があった。それへの対応を悩んでいると、“人人の戦争体験や戦後の体験はどうなのか、じっくり話し合っていくことが大切だ”と教えられた。大衆の側に立って物事を考える、この創刊精神が一本につながって、岩国基地斗争、豊北原発や上関原発の斗争に引き継がれていると思う」と話した。
 下関原爆被害者の会の男性は「1961年当時、大丸に勤めていた時に労働運動をしていた。鮮明に覚えているのは、労働組合が斗争するときには自分たちの主張を通すために支援を求めるのだが、福田さんはそうではなく、下関の労働者の利益を守るためにたたかっているから、みなさんも団結してたたかおう、と運動を進めるべきだ、そうでなければダメなのだと指導された。大丸の持ち主である大洋漁業がいかに下関全体や労働者、市民を支配しているか実態を紙面で暴露してくれ、そこと結びついて大丸の労働者の運動が勝利していった」と振り返った。
 また、原爆被害者の会の発展とかかわって「一九九四年に被害者の会は長周新聞の援助で再建され、今日まできた。2001年に会のなかで被爆体験を語り継ぐ活動を放棄する動きがあらわれた時、誤りを新聞を通じて明らかにしてくれて、導いていただいた。私心なく子どもや孫、未来のために語り継いでいく使命感で現在まで活動することができた。峠三吉さんのパネルによる原爆展運動が全国で発展してきたことと、長周新聞の支援は無関係ではないし、被害者の会にとっては長周新聞がもっともわれわれの活動を信頼し、援助してくれる存在だ」と話した。
 下関のサンデン交通で60年安保時期の労働運動をたたかってきた男性は「“私鉄の三池”といわれるほど大規模なストライキだった。右も左も分からない青年期に、斗争をへて階級性を鍛えられた。長周新聞は当時から職場にベッタリと付いて、記者の方が専従のように活動していた。サンデン資本は反動的だったが、それに文句をいうことができない状況のなかで、斗争を通じて労働者の団結を強めていった。60年以降は運動が急速に萎んでいくなかで、組合主義、経済主義の問題が指摘され、階級的な労働運動をするべきだと教えられた。わたしたちは奮斗をよぎなくされたが、団結すれば労働者は強いのだと経験でつかんでいった。斗争のなかで“何か自分にできることがあればやるぞ!”と声をかける労働者は多く、わたし自身も身体を張ってやることができた」と振り返った。
 そして「一つの斗争で一寸の土地を争う気概が求められ、敵と味方の関係を明らかにすることの大切さを教えられた。長周がそのような真理を信念を持って貫いて来たことは重要なことだ。私の人生のなかで、目の色が変わるほど真剣になれた経験だった。労働者といっしょにたたかえたし、団結こそ力になっていくことが人生の確信であり誇りだ。長周をさらに全国に発信していくことが、日本の針路に深くかかわってくると思う。全国を席巻していくことを期待しているし、心を弾ませている」と思いをのべた。
 下関の戦争体験者の男性は「わたしは八五歳だが、戦争体験者は年配で多くが亡くなっている。わたしたちの時代は中学校に銃器庫があり、陸軍から来た派遣将校に教育されていた。軍人になることが運命付けられていた。軍国主義で個人ではどうにもならない時代だった。あの時代がまた迫ってきているのではないかと感じる」と現代への危惧を語った。
 そして自身の戦争体験に触れ、「サイパン、テニアン、グアムでは向こうは空母がいて200〜300機でくるのに、われわれは12機ほどの戦斗機でたたかっていて話にならなかった。ガソリンも弾もない状態のなか、黙って一生懸命たたかっていた。そこに出た命令が、サイパン島では“玉砕せよ!”だった。手を挙げないとどうにもならない状況で、不利だとわかっているのに、なぜ早く手を挙げなかったのか。なぜ天皇陛下は“止めろ”と言わず、南方へ兵隊を送り続けたのか。弾に当たって死んだ人は3分の1もいない。ほとんど赤痢や病気、さらに食料がなく餓死していった。一銭五厘で突然引っ張り出されて戦地に送られ、悲惨な死に方だった」と壮絶な体験を語った。「他の新聞は肝心な点を弱めて書くが、長周は何事においてもはっきりと書く。さらにがんばってもらい、民主的な世の中にするために書いていける新聞にいっそうなっていただきたい」と期待を込めた。
 下関原爆被害者の会の婦人は「誰にも遠慮せずに書いているから、長周新聞を読むと胸がすく。もっとがんばってほしい」と語り、別の婦人は「戦争のない世の中にするためにと思って語ってきた。長周やはぐるま座のみなさんが暑いなかでも寒いなかでも一生懸命やって下さる。わたしたちが年をとって動けないところを動いてくれて、とても感謝している」と気持ちをのべた。
 防府市の小学校教師は「祝島に行って、原発を阻止するたたかいの中心におばちゃんたちが座っているのだと強く感じた。故郷の生活を壊すものへの怒りであるが、自分の為ではなく子や孫の為であるし、瀬戸内海のみんなの為、日本のみんなの将来の為を思っていることに感銘を受けた。わたしたちも教師として、子どもたちを立派な未来の後継ぎにするために力を尽くさなければと決意した」とのべた。さらに、「長周新聞の教育座談会で、20年来の教育改革が何だったのか、どうして教師が下を向いて元気なくさせられているのか、どうして子どもたちが暴れるのか、問題を突きつけられた。国策として教育破壊がやられてきたことを痛感した。叱咤激励もされた。長周新聞をもっと多くの仲間教師が読んだら、職場が変わり、学校が変わると思う」と語った。
 沖縄からきた男性は「1971年、沖縄復帰の1年前に山口に来ていて長周と出会った。当時は沖縄返還斗争のさなかで、運動の高揚のなかでどう生きていくか模索していた時、先輩から長周新聞を渡されて目を開かされた。“沖縄は日本社会の縮図である”という観点で、本土と沖縄は切り離されてきたが全国民的問題なのだと。また、ニクソンドクトリンなど世界情勢から沖縄を見ていく点が新鮮だった。生き方を変えられた」といった。
 そして、2004年に原爆展キャラバン隊が沖縄に行った時、「長周新聞が『沖縄戦せずとも戦争は終わっていた』の号外を出し、パネルには『沖縄戦の真実』が加えられた。わたしたちが考えていた沖縄戦観はガラリと変えられた。号外を5万枚まいたら衝撃的な反応が出た。すでに戦争は終結しているのになぜ沖縄戦をやったのか、それはアメリカが基地をつくるため、無謀な戦争をアメリカと天皇が結託してやったのだという内容だった。はぐるま座の『原爆展物語』でこの内容が全国に知れわたるとすごいことになるだろうし、沖縄でいつ公演するのか待ち遠しい」と語った。
 さらに名護や普天間基地の問題に触れ「昨年は全国民が自民党政府を倒して、影響は沖縄にもあらわれた。自民党代議士はみな落選し、名護市長選でも勝利した。振興策などの欺瞞は吹き飛んでいる。政権についた民主党政府が裏切り、これにも怒りが高まっている。沖縄の思いは基地はアメリカに持って帰れだ。このたたかいは全国の人人と団結しなければ勝利できない。長周新聞が果たす役割は大きい。五五周年を期して大飛躍することを期待している」とのべた。
 劇団はぐるま座の婦人団員は「はぐるま座の創立五五周年を契機に、長周新聞の全面的な援助をもらい、180度考え方をひっくり返して再建に立ち上がってきた。三十数年来、それがいいことだと思ってきたことが自分中心で、大衆に寄生していかに傲慢だったか気付かされた。相当な葛藤があった。しかし節節で、そっちは間違っている、こっちが人民の利益になるのだと叱咤激励され、大衆と深く結びついて、もう一度一から出直そうとがんばってこれた。新作の『原爆展物語』は、この10年間の原爆展運動を掴み直して、活動を点検して改造しなければ描ききれない。五五周年の総括論議に学んで、人民の役に立つ舞台につくり上げていきたい」と決意を語った。
 岩国からきた男性は「全国津津浦浦で日本の真の独立と世直しを求める機運が沸き上がっていると思う。これを本当に大きくするために、いかなる権威にも屈することのない人民言論紙・長周新聞を全国津津浦浦に広げていくのが重要な時代になっている。岩国では米艦載機部隊の移転問題にたいして、市民が立ち上がってきた。アメリカや売国政府は権力、金力を動員して抑えつけようと躍起になってきたが、子や孫の為、愛する郷土の為に譲れない思いで困難をはねのけ、斗争が前進している」とした。
 そして前日に民主党主催で防衛大臣と市民との討論が行われたことを報告し、「500人収容の会場に1000人が押し掛けた。欺瞞に満ちた答弁にみなが怒って解散した。9・11以後は岩国が厳戒態勢に入り、銃口が市民に向けられ、米軍や家族が脱出訓練ばかりしている姿をみなが見てきた。その実際を長周新聞が書き、さらに第二次大戦は何だったのか、戦後のアメリカ支配の現実と市民の経験とをつなげていった。号外を読んで認識がはっきりしていった。マスコミは嘘ばかり書くし、市民の声をねじ曲げることへの怒りも強い。人民言論紙が全国津津浦浦に広がれば日本は変わる。55周年を期していっしょにがんばっていきたい」と決意をのべた。
 その後、実行委員長に柳田明氏を選出し、事務局長に安村直行氏が就くこと、事務局を長周新聞社に置くこと、第2回実行委員会を3月28日に開催することなどが決定了承された。
 最後に柳田氏が「今日のみなさんの話のなかで、全国の人人の意識が変わってきていることを改めて実感した。世の中は新しい歴史発展の方向を目指して動き始めている。このなかで55周年運動が取り組まれる意義は大きいし、全国民の胸をスカッとさせるような、今後に向けた画期的な機会にしていきたい。みなさんがんばりましょう」と閉会挨拶をして会を締めくくった。

 

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