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日本立て直す行動意欲溢れる
広島・廿日市原爆と戦争展
               地元開催申し出る現役世代     2010年2月24日付

 広島・廿日市原爆と戦争展 広島県廿日市市のはつかいち美術ギャラリーで開かれてきた第6回廿日市「原爆と戦争展」(主催・原爆展を成功させる広島の会)は21日、5日間で約1000人の参観者が訪れる大盛況のうちに閉幕した。これまで体験を語ってこなかった戦地体験者、被爆者、遺族たちが多く来場し、地図や写真を持参して口口に体験や戦後社会への憤りを語り、政治、経済、文化、教育に至るまで荒廃した日本社会の現状や地域の疲弊を憂い、変革を願う若い世代の行動意欲と結びついて被爆地の運動をさらに広げていく展望を与えるものとなった。子ども連れの親や夫婦、近所で連れ立って訪れる退職者、現役世代の姿が目立ち、地元での原爆展開催を申し出たり、原爆展運動への参加を望むなど行動を求める声があいついだ。若い世代を中心に会期中に六八人が賛同協力者に加わった。
 旧郡部地域から来た30代の母親は、涙を浮かべながら参観し、「被爆体験を聞いたことがなく学びに来た。地域が高齢化していくなかで若い人と繋ぐことを自分たち世代の責任としてなにかすることがないかと思っていた。この展示や会場の雰囲気を見て、これをぜひ地元でやりたいと思った。普段はバラバラに見える人人も根底的な問題については一つになれる。ぜひ地域の活性化のためにも地元で開催したい」と申し出て、広島の会への参加を希望した。
 小学校で絵本の読み聞かせをしている母親は、「学校からは“原爆関連は、子どもが暗くなるのでやらないでほしい”と注意され、なぜ地元としてあたりまえのことが伝えられないか、子どもたちの関心は強いのになぜかとずっと疑問だった。これが戦争のはじまりだと思う。本当の歴史を教えていくのが大人の責任ではないか」と疑問をぶつけ、学校での開催を申し出た。
 2人の子どもを連れた母親は、「学校では現実から離れた教育になっている。原爆の悲惨な写真はトラウマになるといって見せない。プライバシーや人権といって、クラスメイトの親が亡くなっても希望者だけでお悔やみをやる。人の死について真剣に向き合うことがないまま大きくなっている。戦争については親の自分たちも知らないことが多いし、二度と戦争を起こさないためには真実を知らないと役には立たない。こういうことは強制してでも教えないといけない」と語り、学校に原爆展開催を働きかける約束をしていった。また、母親グループで被爆者を呼んで話を聞きたいという申し出もあった。
 在日外国人支援の市民グループを主宰する男性は、「アメリカのやることはすべて正義という定説はアジア全体を支配してきた。フィリピンでは、米軍の爆撃で地下十数bまで貫通し、水脈を絶って山林は枯れた。だが、戦後は日本による伐採のせいにされた。2、3年の日本軍の占領時代が強調され、数百年のスペイン、アメリカの残虐な植民地支配がかき消された。その歴史観がアジア人同士の対立を生んでいる。この原爆投下、第二次大戦の真実を、日本からアジア全体に伝えていけばお互いの偏見が取り払われる」とのべた。
 「ここに来るまでは“なにをやってもダメ”というあきらめや無力感があったが、原爆展を10年もやっていることや被爆者の方方の姿を見て元気が出た。自分にもできることがあるのなら協力したい」(30代母親)、「どこの職場もコスト削減のために人員を削り、後継者を育てられない。教育もおかしくなり、若い人に忍耐力がない。戦後社会のなかで日本はおかしくなっている。根底から考え直す節目に来ているのではないか」(製造業、男性)など、現役世代の強い関心が注がれていた。

 のべ70人参加で体験聞く会

 20、21日には午後1時から被爆体験を聞く会が開かれ、看護学生として広島日赤病院で被爆者を救護した林信子氏、広島西部二部隊の衛生兵として基町の兵舎内で被爆した川端義雄氏が体験を語った。
 当時17歳だった林氏は、看護婦も赤紙(召集令状)によって多くが戦地の野戦病院に引っ張られ、「戦況悪化につれて、内地の大病院では資格をもった看護婦は少なくなり、すべて学生だけで回していくという厳しい状況だった」と前置きし、昭和20年8月5日の夜は二度も空襲警報が鳴ったため、院内では患者を地下室まで上げたり下げたりの作業で一睡もせずに被爆当日を迎えたと語った。
 早朝、責任当番だった林氏は、ガーゼを洗うために汚物処理室に行ったとき突然、なんともいえぬ色の強い光を感じ、頭に強い衝撃を受けて気を失った。「気が付いたのは昼過ぎで、とっさに入院患者を助ける責任を感じて階上へ上がって行くと、窓側に座って食事を待っていた患者はそのままの姿で死んでいたり、ザクロが実を出したような頭、口が斜めに開いた顔、体中にガラスが突き刺さった人など、あの姿は忘れることはできない」と惨状を語った。
 また、「病院めがけて市内中の負傷者が詰めかけたので、日赤の玄関周辺からロビーに至るまで足の踏み場もないほどの人で埋まり、病院にたどり着いた安堵から次次に息を引き取った。夜になるとひしめくような負傷者たちが足にしがみついて“水をくれ”といった悲痛な声は今も耳から離れない。そして、翌日になればみんな死んでいる。その屍がうずたかく積み上がり、重なり合っている光景は見るに耐えなかった。治療しようにも薬もなく、包帯もなく、全身ヤケドでさすってあげることすらできなかった」と無念さをにじませた。
 西練兵場からもトラックで次次に遺体が運び込まれ、看護婦の手で一人一人並べて油をかけて火葬したこと、骨はレントゲンフィルムの箱に入れて棚に並べるとぼう大な数になったことを語り、「死体を踏み分けて作業をしたので、夜になると靴裏に燐が燃えていた。一週間は中庭で野宿し、カやハエが大量発生して、患者の傷口にどんどんウジが沸いた。あまりの無残さに気が狂っていく看護婦もいたが、同級生たちみんな家に逃げ帰ることなく、強い責任感で責務をまっとうしたことは誇りだ」とのべた。
 だが、「戦後、顔の傷を中傷されて自殺した同級生もいて心が痛んだ。犠牲者のおかげで平和があるはずだが、戦後はそういう悲劇もたくさんあった。原爆が使われればなにもかも焼き尽くされる。戦争をやるにも止めるにも教育が大事だ。この平和を守るのがみなさんの役目であり、強い使命感をもって生きていってほしい」と亡くなった看護学生の思いを重ねて託した。
 爆心地から一`以内の陸軍兵舎内で被爆した川端氏は、とっさに机の下に潜り込んだ瞬間、地面へ叩きつけられ、必死でけが人を連れて避難した経験とともに、その後も白血球が激減したり、肺ガン、肝臓ガンを患っていることをのべた。「アメリカ軍は偵察を繰り返して緻密な計画に基づいて原爆を投下した。戦前は昭和恐慌から満州事変となり、一時的に景気を回復させたが、その後は支那事変、大東亜戦争につき進んで最後に国土は壊滅した。今も不景気でそっくりになっているが、戦争へ進む動きはよほど注意しなければいけない。明治維新では、江戸幕府を倒してペリーと結んだ不平等条約を30年かけて撤廃させたが、今の日本はアメリカ軍の治外法権が戦後六五年たっても続いている。日本の現状をどう捉え、これからどうするのか、歴史のなかから学ぶことが必要だ。私たちにも伝えていく責任がある」とのべた。

 『原爆展物語』にも強い期待

 市内の被爆者や被爆二世、親子連れ、学生、留学生、小学生などのべ70人の参加者は、真剣に耳を傾け、活発に質問意見が出された。
 父親がフィリピンで戦死したという男性は、廿日市駅から焼けただれた遺体をこもに包んで大八車に乗せ、河井川の沖で毎日火葬していたことや、小学校で亡くなった遺体を担架に乗せて裏山の竹やぶに運んで焼いていた記憶を語り、「あの光景が脳裏から離れない。調べてもその遺骨の行方を知っている人がおらず、市役所も“名前、住所が判明した人は遺族に渡した”というが、ぼう大な遺骨がそのまま海に流されたり、山に葬られたのではないか。このままでは浮かばれないし、遺族会として合同で慰霊祭をやりたいと思っている」と語った。
 70代の婦人は、「私も廿日市から広島へ送り出し、帰ってこなかった女学生たちのことが悔しくてならない。廿日市でも救護作業をしたが、体育館は焼魚のように死体が並べられていた。被爆した主人も50年間ずっと沈黙してきたが、最近語り出した。私たちの世代は“御国のため”といって洗脳されたが、戦後の教育も人間をバラバラにさせている。また戦争がいつ起こるかもしれないという危険を感じる。このままでは戦争犠牲者にあわせる顔がない。自分も残された人生を使って体験をできるだけ語っていきたい」と意欲をのべた。
 また、劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』への期待も強く、広島の会の被爆者たちが「若い人も年寄りもこの劇を見て、ともに日本を変えていく運動を起こそう」と呼びかけると、「ぜひ見たい」「家族を連れて行きたい」とチケットを買い求めていく参観者もみられた。


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