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日本潰す意図的な低学力教育
座談会・教育キャンペーンの反響
                「自由」に問題、社会に規制し     2009年12月14日付

 本紙は下関市T中学校問題を契機に、市内の学校で中学生が暴れることの基本に低学力の問題があり、それをどう解決するかを連続して報道してきたが、それが全市的な論議として広がっている。低学力の問題は保育園から小学校、中学校、高校、大学と全般にわたっており、その解決に向けて動いていこうという意見が多く寄せられている。再度記者座談会を持ち、教師や親、地域のなかで論議されていることから今後の方向を考えてみた。
  当初、学校で暴れる生徒を警察に逮捕させ排除していることを問題にした本紙の報道に対しては抵抗感を持つ教師もいたが、「学力低下が根本問題だ」という提起には共感がすごく強かった。ある高校の教師は、「低学力はわざとつくられてきたものだ。一部のエリートを育てて大多数はバカでいいと意図的にやってきた結果だ」という。「高校教育でも、総合学科を導入して趣味や遊びのような勉強をし、好きな教科だけ選択して、嫌いな数学や英語などはやらずに卒業する生徒がいる。基礎学力を身につけていないから、分数のわからない大学生も出てくるし、社会に出ても役に立たない」「日本が戦後発展してきたのは全員が基礎学力をつけていたからだ。それが“画一化がいけない”といわれ“個を尊重せよ”とやってきて、結局個性すらなくなっている。20年来やってきたことをひっくり返すのは大変なことだが、日本の将来を考えると絶対にやらないといけない」といっていた。
 ある中学校の教師も、学力低下の問題について社会に出て働いた自分自身の経験から「労働するにしても化学や生物などの知識が必要だ。生産現場というのは、現物があるのが魅力で、おもしろい。学校の勉強がそうならないといけない」といっていた。もう一つの問題として、今の経済状態が子どもに反映し、家庭的に貧困な子どもが多い。それで内にこもる子もいるし、はじける子もいる。父親がリストラされるなど、一生懸命働いても生活できない社会の矛盾を子どもはすごく感じているという。「空空しく“頑張ればなんとかなる”といえない。この時代のなかでなにを教えていくべきなのか考えさせられている」と語っていた。
 B 小学校の教師は「学力と生徒指導は切り離せない。暴れたり不登校になったりする子どもは、低学力が根本問題だと本当に思う」と語っていた。例えば最近は、インフルエンザで一週間ぐらい休む子が多いが、学校に出てくるとき「自分は勉強が遅れているのではないか」と気にして教室に入りづらい子がいる。そういう子どもには授業の前に5分でも10分でも勉強を教えたらスムーズにクラスに入る、やはり学習と子どもの精神面とは密接にかかわっているという。また、塾に行けるような家庭環境の子より、家庭的に困難な子の方が学習意欲を持っており、それを素直に「勉強がわかりたい」と表現できる子はいいが、暴れたり不登校になったりして表現したりする。そこを教師が正面から受けとめないといけないといっていた。
 また強調していたのは「“個の尊重”といわれてきたが、個人というのは絶えず相手との関係であるものだ。“自分がしたくなかったら勉強しなくてもいい”というのは社会では通用しない。社会に出たら読み書き計算はどうしても必要だと教えないといけない」ということだ。学力が高いフィンランドでは、「自分たちの国をよくしよう、豊かにしようという目的意識で勉強しているから、子どもの学習意欲につながっている」という例も出して、「個の尊重」が子どもの意欲を削いでいるといわれていた。
 低学力の問題は反響がすごく、「時間がないから、体制が悪いから仕方がないと思っていたが、社会的な基準から見たら今の学校は九九を身につけさせることさえできなくなっているのだと、冷静に受けとめないといけない」という意見も出た。また、若い教師が大学で習ってきたマニュアル通りにやろうとするが、子どもや父母のなかに入れず行き詰まっている、このままでは日本はだめになると語られていた。

 意欲や創造性まで破壊 大学や地域で危惧

  大学教員も低学力キャンペーンはかなり共感があった。大学の独立行政法人化の問題点が、低学力の問題まできてつながったという認識の発展がある。下関市の大学の英語教員は、高校で「英語ができなくても入れる」といわれて入学したが、大学では英語の授業が必修になっており「これは詐欺ですよ」という。高校の英語自体がわからないから、大学の授業ではわからないままじっとしている学生がかなりいるという。「ある私学では教えている全員がわからない」とも論議になっている。AO入試でとにかく受験生を集めて、基礎学力は見ないで、コミュニケーション能力があると認められたら合格させている実情が出され、「大学の危機だ」と論議されている。
 サルの研究をしている教員は、学生を連れてチンパンジーの「アイちゃん」の研究に行ったとき、チンパンジーが数を数えたり、棒を持たせると物をとるのを何度も挑戦するし、成功したら学習して次は簡単にとるようになるなど、時間をかけて一生懸命やる意欲と根気を持っているのを見てその教員は「もう学生はサル以下です」という。人間の学力というのは知識だけを暗記で詰め込むのではなく、意欲などの気分・感情を伴うものだが、最近の学生にはその意欲がないという。また、意欲を持とうと思ったら基礎知識がいるが、その知識もないんだという。
 大学の教員が知人の経営者や就職先企業に聞くと、とくにこの数年間に入ってきた学生で手を焼いているという話がかなり多いという。意欲的に物事にかかわってそれを実現していくという創造性がない。いわれたことしかしない。学力低下というのは社会に出たらそういうふうになっているんだといっていた。
  さまざまなところで低学力の問題が論議になってきたと思う。ある小学校の職員室で「20年前、“できないのも個性だ”といい始めたころからだんだんおかしくなって、子どもに力がつかなくなってきた」と論議されたり、ある中学校の保護者会で荒れる子どもの問題を解決するために「学力の面からも力をつけさせないといけない」と話されたりしている。
 また、地域のなかで「なにか行動しないといけない」という意見が出始めた。ある地区の民生委員のなかで、地域の人を集めて子どもの教育をどうしていくか論議の場を持とうと話されている。ある母親は「この20年のゆとり教育の負の遺産」といっていたが、小学1年生に1から10の数を教えてものみこみが悪い子が多いことや、我慢するとか努力する力がついていなくて勉強の途中で叫び出す現状があり、努力してわかることの喜びを教えてやりたいと話していた。そして「先生に頑張ってほしい。いろんな縛りがあり、病気になってやめる先生も多いが、負けないでほしい」と教師の奮起を期待していた。
 下関市内の退職教師のなかで、子どもが100円握ってきたら、日曜日に勉強も教えるし遊びも教えるし道徳も教えるという寺子屋をやろうじゃないか、そうでもしないと学校の先生は身動きがとれなくなっているという話も起こっている。
 A 幼稚園の教師がいっていたが、小学校から「子どもに落ち着きがない」という話が出始めて、幼稚園・保育園ではなにをすべきか話しあいが始まっているという。「集団生活のなかで、人間関係とか社会の状況に目を向けさせていくのが大事。遊ぶにしても、この時間になったら部屋に入るとか、規制を決めてやることがそれにつながる」と語られていた。
  
 補習始める学校も 日本の未来かかる問題に行動広がる

 E T中問題をとりあげた初めは、現場教師たちのなかで「現場は頑張っているのに、わかってくれない」という意見が出された。しかしやっていることは、あらわれた結果に対する目前の個別対応で、もぐらたたき状態だった。とにかくあれが悪い、これが悪いといって教師と子どもは対立するし、親とも対立するし、教師同士も対立して疲れ切っている。
 しかし、学校で子どもが暴れたりガラスを割ったりするのにも原因がある。なぜそうなっているのか。いつからそうなっているのか。九九や分数がわからない、漢字がわからないまま小学校低学年から何年間もじっと教室に座っていたら暴れるのも当たり前だろうと、低学力の問題を全体の諸関係から描いて返すと、事態を客観視して見れるようになってきた。そして、20数年来の教育改革で「個性重視」「興味関心第一」を基本とし、「頑張らなくていい」「嫌なことはしなくていい」「今のままの君でいい」といって好き放題をさせ、サルのような状態を称揚してきた。幼稚園や小学校のときから意欲そのものを破壊し、意図的に学力がつかないようにしてきたわけだ。
 だがここまできて、「教育を立て直すのは大変な事業だが、それをやらないと日本はつぶれてしまう」「日本の危機だ」という世論になってきた。暴れる子の低学力問題からエリートの低学力が明らかになり、日本社会をどうするかの重要問題として論議され始めた。
 D ある小学校では、去年くらいから低学力がかなり問題になり、それを克服しようと夏休みに補習を始めている。別の小学校でも、今年初めて冬休みに補習をしようという話になっている。教育委員会からは「放課後に残してはいけない」といわれるが、力をつけて送り出さないとあとで子どもが困るからと、必死の思いでやっている。
  ある中学校でもテスト前の土、日などに教師が出てきて希望者を募って補習をすると、生徒が2、30人参加してきて、生徒同士で教えあわせているといっていた。その中学校は塾に行けない子が他校区より多いので、教師の側は自主的にそれをやっている。
  「わからない子どもに勉強を教えよう」という実践的な動きが始まり、以前からやっているところは確信を持ってやり始めている。学校に勉強しに行っているのに、それができていないというのは世間から見たら驚きだ。
 親や祖父母の世代から見ると、どんな子どもでも九九はわかるまでやらされ、できるようになって卒業していた、それが学校と思っていたら今は全然違っているのでびっくりしている。そして「このままいったら日本はどうなるか」というのが問題意識だ。
 自分という個人の外側に社会があって、世の中はその社会の法則で動いており、それに規制して個人は生きていく。生産活動を基本として人と人との関係があり、そのなかに個人がいる。とくに生産現場というのは客観的な工程に自分を規制しないと、爆発事故を起こしたりして大ごとになる。その社会的な規制を取っ払って、小さいころから「好き勝手にやれ」「自由だ」という教育にして、日本人をバカばかりにしようとしてきた。
  
 生産の破壊と照応 社会と切り離し愚民化

 B 低学力の問題は「社会と切り離したからだ」ということが論議になっている。読み書き計算ができなければ社会に出ても通用しないのに、それを「嫌ならしなくてよい」といってきたことが間違っていた、と。
  それを文科省の新学力観はやってきたわけだが、意図的な愚民化政策だ。それで実際に社会に出てみると自由でもなんでもない。仕事はないし食っていけない。経済政策としては金融立国論と照応している。それは農漁業という食料生産を破壊し、製造業も破壊し、技術立国つまり国の財産である人材も破壊しつくすというものだ。
  ある商店主も「日本が金融を中心に行く方向に舵を切ったのが間違いだった。ホリエモンのような、居ながらにして金を右から左に動かして金儲けをする人間を持ち上げた。それが教育を崩したし、道徳も崩した。団塊の世代の自分たちは“日本は技術で生きていく”とエンジニアをめざしたりしたが、それを否定した。そうして格差がうんと開き、“こんな状態では社会主義の方がいい”という人もいる」といっていた。
  20年前の米ソ二極構造崩壊後、「資本主義の勝利だ」とやった資本主義というのがこの金融立国であり、社会を崩壊させてしまう生産破壊だった。数学であれ理科であれ、社会であれ国語であれ、生産現場が知識の源泉だ。人と人との関係に規制されて、社会に有用な役立つ人間になるためには努力して勉強しないといけない。その人間社会の基本を否定している。
  数学について見ても、実際の生産活動で現実に物が動き、それを具体的に数えたり測ったりすることとしてあるが、それを離れて数字だけの世界でやらせる。現実と結びつけて数学の興味を持たせるのではなく、抽象的なゲームとか遊びで興味を持たせようとするから失敗する。それは大学も同じで、昔の数学者は数学史を勉強し生産活動と生き生きと結びついて学問が発展してきたことを理解していたが、今はそれを全然やらず、幾何なら幾何だけ、代数なら代数だけのオタクになる。そういうなかで論文を出しても後追いの研究しかできず、創造的な研究ができないと論議になっている。学生だけでなく研究者でも、基礎的な知識や教養がなくスッカラカンになっている。
 E 大学では学問の崩壊だ。新自由主義による大学民営化で、大学が大企業の付属研究機関のようになった。自然科学や社会科学の歴史的に蓄積されてきた骨格が崩壊している。
  学問がオタクの世界になっている。社会との結びつきは関係なしに、趣味というか自分の興味・関心だけで追求する。東大で「オタク文化」論がやられたり、マンガとかアニメが研究対象といった風潮だ。それが文学とか歴史とか、経済学など骨格のある学問、科学を崩していった結末だと思う。人間の歴史の遮断だ。

 戦争や侵略の常套手段 アメリカの手口

  ある雑誌でイスラエルのガザ侵攻の問題を取り上げていたが、イスラエルのやり方が「占領によって計画的にそして意図的に既存の経済を破壊すること、つまり開発の基礎を破壊し経済の成長しようがない構造におき、パレスチナ人を疲弊させてしまう」と記されていた。日本社会の現状を見ると、経済も人材も意図的に破壊して日本社会が成り立たないようにし、惨憺たる属国にしてしまうというアメリカの政策が貫いているとみなさざるをえない。
 第二次大戦で日本人をイエロー・モンキーとみなし、原爆や空襲などによる皆殺し作戦を実行したことと共通している。アメリカは歴史的に見て、先住民のインディアンを全滅させ、アメリカ大陸を分捕って、メキシコを占領しハワイ王国を併合しフィリピンを支配した。日本をハワイのような合衆国の一州に、しかもアメリカ人とは認めない劣等民族として支配するというのも、アメリカとしては歴史的にやってきたことだ。
  だから日本の歴史的に蓄積された文化とか歴史とかをみな破壊してしまう。日本では教育は歴史的に相当の蓄積や伝統を持っている。関孝和という和算学者が江戸時代にいて、その当時から西洋数学と同じレベルの数学を研究していたといわれる。数学者らがいうには、日本の寺子屋時代のソロバン計算は世界一だった。数ケタの計算を一度にできる社会というのはなかったらしい。それで明治維新になると、西洋数学もすぐに受け入れていけた。
  人材破壊という面でいえば、鳩山内閣の事業仕分けで「日本の学問研究の基礎を破壊するもの」と、各大学から多くのアピールが出されている。産学連携などといって市場原理主義で学問をつぶしてきたことに怒っているし、学問に対して100年、200年を見とおした政策をもって臨めという要求が共通している。知識人の中では共通の世論になっている。

 教育の立て直しへ 日本をどうするか教育者の情熱を

  「民族の危機」という問題意識だ。アメリカが要求し、一握りの独占資本がボロもうけして国をつぶしてしまう。しかし、やはり農漁業など食料生産は立て直さざるをえないし、技術立国、物づくりは立て直さないわけにはいかない。人間の存在というのは生産力の発展を基礎にしているから。その基礎を破壊するというのだから、アメリカの市場原理主義改革というものは歴史的な大犯罪だ。今、人類の発展にとってそういう邪魔なものを取り除くというテーマが大きな課題になっている。教育の立て直しというとき、こうした日本社会の現状を抜本的に考え直さないといけない。そこを見据えた上で、目の前の子どもたちをどう育てるかだ。
  ある母親が強調していたが、「教師が子どものために身を挺してという精神を取り戻してほしい。組合というのが本来は子どもの教育のために勤務条件も勝ち取ってきたはずなのに、今では子どものためがなくなってサラリーマン教師が増えた」という。教師のなかにある「多忙化で仕方がない」「教育委員会が残したらいけないというので放課後に残せない」という意識への批判であり、激励だと思う。
  「仕方がない」と人のせいにする傾向が強いのが教組活動家タイプの教師だ。根底に「個人の解放」の路線がある。アメリカによる戦後民主化を進歩とみなし、「自由・民主・人権」による教育改革を支持した。多くの教師は、文句をいう前に子どものために奮斗している。かつて豊関児童美術展を取り組んだ下関市の教師たちは、子どもの精神の解放のために尽くした。それを邪魔するいかなるものも排除して子どもを育てる側だ。下関もそういう教育の伝統がある。
 A 年配の教師のなかには同じ様な感覚がある。子どもは一人一人ではなく学級全体としてどう育てるかだという。勉強ができる子もいれば苦手な子もいるのは当然だが、その子たちをクラス全体として育てることに教師としての工夫や創造がいる、と。学力一つとってみても、子ども同士で教えあった方が実感にあう。その学習を通じて人間関係や道徳心も育っていくし、「全部つながっている」という。
  だから川中の教科センター方式は絶対に低学力になる。みんなで助けあって学力を向上させようという集団主義を遮断するから。
 E やはり生産を基本とする社会性の回復であり、教育を父母と地域の生活と労働に基盤を置いて、父母や地域とともに教育をしていくことだ。「興味と関心」というが、生産活動や社会的実践が基礎になくて興味も関心もわくわけがない。
 そのためにも教師が「自分が大変」というところから「子どもが大変」というところに変わらないといけない。目の前の子どもたちの将来、日本の将来を「仕方がない」といってすませるのかどうか。
 教師が理屈でなく、意欲や情熱を燃やして奮起するときにきている。今、日本の教育の立て直しをしないといけないというパワーが出てきた。それをとことん発展させていくことだ。

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