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日本を変える熱い総括論議
              人民団結の強い期待   2010年5月5日付

 今月16日に迫る長周新聞創刊55周年記念祝賀集会(海峡メッセ下関、午後1時から)にむけ、下関をはじめ全国各界の読者による、自らの人生を重ねた熱気こもる総括論議が発展している。今号は本紙紙上で掲載されてきた「長周新聞創刊55年、読者の総括意見」を特集する。

 沖縄と全国の固い絆紡いだ原爆展キャラバン
                          沖縄民生委員児童委員協議会会長 屋宜恒一

 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外移設を求める県民大会」が4月25日、嘉手納米軍基地のお隣り読谷村――トリイ米軍通信基地がある――運動広場でおこなわれました。
 普段、20分ほどしか要しない同広場まで3時間半をかけて到着したときには、なんと閉会のあいさつとなりはしたが、この沖縄始まって以来の交通大渋滞は、いささかも県民の熱い思いに水を差すことはできず、主催者発表の九万人参加をはるかに上回る大集会であったことが沖縄中で語られています。
 水を差したのはマスコミ・御用学者の連中が「差別を感じ県民結集」とか「県民の被差別感高まる」などの評論をやり、「国土の0・6%の狭い島に在日米軍基地のほとんどが存在し続けるなか、日米安全保障条約のどこに、基地を置く場所は沖縄でなければならないと明記されているのかと政府と全国民に問う」などと、もっともらしく主張していることである。
 「日本国民すべての人が自分の問題として考えてほしい」との高校生の発言は、米日政府の「本土も負担を分担すべき」とし、日本全土の沖縄化に反対し「沖縄に新しい基地はつくらせない」、そして在日米軍基地はすべて撤去させるために日本全国人民が連帯することを求める沖縄県民の圧倒的多数の願いを表明したものです。
 復帰後、最大規模の今回の県民大会のうねりは「政権交代」に示された第二次大戦後65年も続いた植民地的状況を根本的に改めようとの沖縄県民の積年の怒りが爆発したものであり、「米軍基地はアメリカに持って帰れ!」の声は日に日に強くなり、米日政府の米軍再編計画は頓挫し、今や風前のともしびです。
 このような情勢下、長周新聞の創刊55周年を祝賀することは私たち沖縄の長周新聞読者・支持者のこのうえない喜びであり、心より祝賀と連帯のあいさつを送りたいと思います。
 沖縄では「原爆と峠三吉の詩」パネルによる原爆展が始まり10年目になります。この間、長崎で被爆された故・金城文栄さん、広島で被爆された比嘉幸子さんが組織し指導してこられた沖縄原爆展を成功させる会は、那覇市、沖縄市をはじめ県内各地の公民館、学校、役所、街頭などで「原爆と戦争展」を展開してきました。
 2004年、劇団はぐるま座の団員を中心に構成された長周新聞社後援の「原爆展全国キャラバン隊」がやって来ました。私たちのキャラバン隊への認識は「北海道から沖縄まで全国での“原爆展”キャンペーンの一環とはいえ、わざわざ高い経費をかけて沖縄まで来ることもないのに……沖縄でも“原爆展”はやっているんだから……」と思ったのも束の間、キャラバン隊は沖縄中をかけめぐり1000人以上におよぶ戦争体験・戦地体験を聞き出し真実の声を整理し、長周新聞が発表した「沖縄戦せずとも戦争は終結」の論断は、改めて沖縄戦に対する諸政治潮流、御用学者の謬論を粉砕し、とりわけ革新政治勢力が信奉する「皇国史観で教育、県民を愚民化させたので集団自決が起こり、日本軍が県民の食料を奪ったり、スパイ扱いをしたり多くの悪事をやったために県民の犠牲が多かった。一方のアメリカ軍は食料を与え傷の手当てをやり、戦後は琉球文化を保護した」などのまやかしと欺瞞に満ちた日米合作の占領政策を完膚なきまでに暴露するものでした。
 沖縄での「原爆展」は当初、「なぜ、沖縄で原爆展なのか?」「沖縄戦をやるべきではないか」「広島・長崎と沖縄は違う」などなどアメリカの占領政策を補完する既成のイデオロギーを正しく分析、批判することができず、原爆展会場を訪れた、かつての日本軍兵士(沖縄県民であろうとも)、特攻隊の生き残りの人人が体験を語りたいといっても「手みじかにお願いします」などといった具合で、被爆体験は重要だが戦地体験などは聞く耳を持たず、沖縄戦、南洋諸島での戦争・戦地体験も一面的な聞き取りに終始していました。
 劇団はぐるま座と長周新聞から派遣されたキャラバン隊のメンバーは沖縄滞在中、各地で原爆展をくり広げ、文字どおり不眠不休の活動を展開し、広島・長崎と沖縄県民を結びつけ、沖縄県民の相互の戦地・戦争体験を交流させ、学び合い、「沖縄戦の真実」をつかむうえで大きな貢献をされたと思います。
 私たちの地域の長周新聞読者・支持者は以上のような全国キャラバン隊、劇団はぐるま座、長周新聞社からの大きな援助をいただいてから構えなおして地域の戦地・戦争体験に学ぶ活動に乗り出しました。私たちの住む沖縄市は復帰前はコザ市と呼ばれ、米軍嘉手納基地に隣接し白人・黒人街、米軍人・軍属関連産業でにぎわい米軍基地門前経済が発展していました。
 戦争前のこの地域は琉球王府の中枢の一つである越来城の下に25カ所の間切り(村・集落)を持つ純農村地帯でした。1945年4月、読谷に上陸した米軍は、ここを難民キャンプとして設定、嘉手納を囲い込み勝手に軍道を張りめぐらせました。昭和40年代のベトナム戦争特需は沖縄の内外から(奄美から宮古・八重山まで)職を求める人人をコザ市に吸収します。
 私たちの地域は、その過程で稲作中心の純農村から束の間のキビ作へ転換したかと思う間もなく商業地・宅地化され流入人口を定着させます。急速な都市化は消防車、救急車さえ通行できないばかりか災害時の避難場所(公園など)などの整備もされない地域をつくり、今日ではアメリカの要求に従い大型店舗規制法を緩和したため、かつての基地経済の中心市街地は空洞化し、若者の失業率は沖縄一高く、小・中学校の在籍は激減し、その上、要・準要保護率が30〜40%となり、人口密度は高いが高齢者世帯、生活保護世帯の多い地域へと変貌してしまいました。
 沖縄戦、グローバリズムといったアメリカの世界戦略の展開によりじゅうりんされ続けてきた地域の実情をふまえて、私たち地域の長周新聞読者・支持者は“まちづくり”や区画整理事業にも自治会とともにとりくんでいますが、なによりも重視していることは、沖縄中から集まってきた人人の沖縄の内外(中国・フィリピン・サイパンなど南洋諸島を含む)の戦争体験・戦地体験に学び、各各の体験を記録・普及することにより体験者同士の交流と視野を広げることに貢献することです。そして、地域の老人クラブとともに学校での戦争体験講話、「原爆と戦争展」の開催を組織し、平和で豊かな地域づくりを実践することです。
 長周新聞創刊五五周年を祝賀するにあたり、私たち読者・支持者一同は団結を固めて、全国の同志のみなさんに学び、長周新聞とともに日本の独立と平和のために奮斗していきたいと考えます。

 住民の斗争励ます報道 本質突く出色の文化欄 大阪・地域新聞発行者 飯田吉一

 長周新聞創刊55周年に心からの祝意と敬意を表する者です。
 大阪市内で地域新聞「港新聞」を発行(毎月3万3000部を戸別無料配布)している者として、貴紙の紙面は大いに参考にさせてもらっています。
 というのは、弊紙は、@まじめに生活し、働く住民の立場でA真実を伝え、共に考え、提案しBよりよい地域づくりに貢献する――を発行目的としており、その目的を遂げようと思えば、単に狭い地域のさまざまなできごとをそのまま読者に伝えるだけでなく、それらの根っこにある現代社会の本質にも目を向けてもらい、本当に地域を変えるとはどういうことなのか、一人一人は何をしなければならないかを、考えてもらわなくてはならないからです。そのために貴紙の紙面は最高の手本となっています。はっきりいって、貴紙のような地域新聞は、私の知るかぎり、他にありません。
 一番の手本は地域のできごとの取りあげ方です。そこには事実をそのまま伝えるだけでなく、入り組んだ現象のなかの進歩的な流れにスポットを当て、住民の斗争を励ます姿勢が一貫しています。
 たとえば、山口県祝島島民の反原発斗争の報道では、島民の動きと国や中国電力の動きを並列的・中立的に伝えるのではなく、島の生業や暮らしや自然を心から愛し、それらを守るために目先の釣り金や脅しに屈しない島民の姿勢に共感し、これを励まし、これを強調する取りあげ方が貫かれています。そのことは文章だけでなく、島民たちの楽天的で堂堂とした表情を捉えた写真にも表れています。
 こうした貴紙の編集姿勢は、私の地域のできごと(たとえば生活保護世帯の増加、失業者の求職活動、逆境に耐える地域業者の奮斗、大型店の目に余る独り勝ち商法、介護現場の努力など)を記事にするさい、その取材・編集姿勢を大いに刺激し、後押ししてくれます。
 二番目の手本は文化記事の数数です。それらに共通しているのは、いずれも一般商業新聞には不可能な題材また観点で書かれていることです。
 たとえば、日本の調査捕鯨に対する反捕鯨団体「シー・シェパード」の挑発行為に対して、一般紙はせいぜい、「正当な捕鯨への妨害は許せない」「テロ行為を取り締まれ」という反暴力の立場からの取りあげ方です。これに対して長周新聞は「日本の食文化を守れ」という民族利益擁護の立場に立ち、彼らの「環境保護」「動物愛護」という“大義”の裏にある本当の目的(米牛肉を日本人に食わせる)と、彼らを陰で操る米食料資本の正体に迫っています。
 また、第二次大戦の終結に果たした天皇の役割については、一般紙は天皇批判をタブー視するがゆえに取りあげようともしませんが、貴紙は臆することなく取りあげ、しかも「自らの権力保持のためアメリカと結託して意図的に終戦を引き延ばし、日本人をアメリカの殺戮に任せることで日本民族の抵抗力を奪った」と戦中派が卒倒しそうな史実を暴露しています。しかしこの見方がなければ、あの大戦でなぜ320万人も死ななければならなかったのか、なぜ敗北が決定的な最後の一年間に犠牲が集中したのかという、それこそ日本歴史上最大の謎は永遠に解けないはずです。
 また「龍馬」については、一般紙は手放しで幕末の英雄、あるいは理想の日本人として持ち上げるばかりですが、貴紙では「儲けのためなら手段を選ばす、誰とでも手を結ぶブローカー」とズバリ彼の自由主義的・資本家的本質を突き、そのブームがアメリカ型実用主義やそれに毒された戦後日本政治を肯定させようとするものであることに警告を発しています。
 これらの文化記事は、直接的にはコラムのネタとして活用させてもらっていますが、そのことを通じて、単に「地域のできごとを伝える地域新聞」ではなく、「社会の本質にも目を向けさせてくれる地域新聞」としての役割も果たせているのではないかと思っています。
 いずれにしても、この文化欄を担当される執筆陣の質の高さ(文献や映像など膨大な資料のポイントを的確に捉え、誰にも分かりやすく書く能力)には脱帽するしかありません。
 ともあれ、一般紙からは到底得られない、本当の意味での庶民的・地域的な題材と視点を提供してくれるという点で、長周新聞はこれからも私の新聞づくりの最高の手本であり続けるでしょう。

 初めて知った全国どこにもない嘘がない新聞  下関市在住 河田節子

 長周新聞の創刊55周年おめでとうございます。私は長周新聞を読み始めてまだほんの1カ月しか経っていませんが、昔から読んでいるような気持ちになって、隅から隅まで目を通しています。私は今年で74歳になりました。一人暮らしなのでボケてはいけないと、新聞を読むときには必ず声を出して読むようにしています。一番最初に読むところは「読者の総括意見」です。納得するところが多く、うなずきながら読んでいます。ときどき涙も出てしまいます。
 このたび初めて長周新聞を知ったのですが読んでいてスカッとする、こんな新聞は全国どこにもないというのが第一印象です。まず記事にウソがなく、書いてある通りだと納得しています。上関原発の記事などでも祝島の人たちが一生懸命頑張っている姿が目に浮かび、二井知事に「この野郎」と一人で叫んでいます。
 私が長周新聞を読むきっかけになったのは劇団はぐるま座の『原爆展物語』を観てからでした。原爆については昔から職場で一緒だった先輩から話を聞いていました。その先輩とは大松妙子さんです。大松さんは私たちに原爆のむごたらしさについて妹さんのことなどを話してくれていましたので、劇を観てまったくその通りだと思いました。また、その後長周新聞で広島、長崎の方方の総括意見などを読むにつけ、アメリカへの怒りがふつふつと煮えたぎってきます。劇では戦争の場面が印象に残りました。戦争中まだ私は九歳でしたが、空襲の怖さやいとこの戦死の知らせなど、子ども心に記憶ははっきりと残っており、あの劇にウソはないと思いました。
 5月16日におこなわれる長周新聞の創刊55周年記念祝賀集会に私も参加させていただくことになりました。まだ1カ月しか読んでいないほやほやの私ですが、今からとても楽しみにしています。劇団はぐるま座がまた寸劇を披露してくれることもとても楽しみだし、沖縄、岩国、上関などからも参加されると聞きました。米軍基地はアメリカにもって返ってほしい。今立ち上がるときに来たとつくづく思います。
 主人が生きていたときから朝日新聞を読んでいたので今も朝日新聞だけは続けてとっていますが、政治のことなど読んだだけではよくわからないし、いいようにしか書いていませんが、長周新聞は1面から4面まで書いていることがよくわかります。また、新聞代も1000円でよくやっていると思うし、安いのに感心もしています。心から応援しています。頑張って下さい。

 水魚の絆深め、戦争阻止する力に    劇団はぐるま座 石田知広

 『峠三吉・原爆展物語』を演じるにあたって、多くの被爆体験、空襲、戦地の体験などを聞き、知っているという一般的で型どおりの常識主義、類型では真実の喜怒哀楽は描けないというのは当初から肝に銘じていました。しかし、全国初演の下関公演第一回実行委員会で「無念に亡くなった人たちの気持ちを本気で演じようとしているのか」と、叱咤され、舞台創造に向けての“構え”が本物かどうか、鋭く問われました。そして劇団員一人一人が真正面から応えるために斗争を開始しました。『動けば雷電の如く』の創造と、普及の中で確立されていった人民との生きた関係がその斗争の保証でした。「人民にとってどうなのか」が唯一の基準であり、自分の思いがどうこうではなく客観的な効果に対してどう責任を持つかでした。
 私たちは3年前、人民劇団として再生し、生まれ変わりました。『動けば雷電の如く』が創造され、普及される中で、社会の片隅で不平不満をいうだけの運動で、人民から嫌われるところから、ど真ん中に据わった運動として人民の役に立ち、心から喜ばれるものへと大転換していきました。舞台の創造も「俳優を家具同様、小道具や衣装かけに変え、自分の型に従って動かすための将棋の歩に変えてしまう」演出、演技路線から、今の現実を基準に演出、俳優が一致し、なによりその現実が直に反映される稽古場に改造する中で勝ちとられていったものでもあります。
 とりわけ役者はポスター貼りなどするものではないという古い劇団の常識を打ち破り、実践的には圧倒的多数の人人への台本の普及と「ポスター行動」(8月6日の広島集会に向けた行動の経験と同様に無差別に市民の中に入っていく実践)をおこなっていきました。まずは作品の細かな内容から、現代的意義について集団で論議し、ポスターもまたその中で完成させ、それを大衆の中に持ち込むことで、現実の生きた実際との結びつきが見えてきました。人人は決してあきらめず解決を求めていることが「世直し」のテーマと一致していったのです。そこからポスターを貼らせてもらったり、チケットを預かってもらったり、実行委員になってもらったりなど、人人が共感し行動する姿をまのあたりにする中で『雷電』のテーマへの確信が深まっていきました。またみんなの実践を集団の中で論議していく中で地域の全体像や人人の本当の願いが見えてきました。そしてそれは作り物でない俳優の真実性をもった演技創造の力となったのです。
 長周新聞の福田主幹の『文化・芸術論』で「文化芸術に関係を持つものが現実の動きの外に机を置いているというのはどういう事であろうか」という提起に応える無条件実践の第一歩でした。それには訴える側の構えが問われました。それは目の輝きであったり姿勢であったりに表れ、その真実性が人人から支持され歓迎されていきました。
 また、そのことは、一枚でも多く貼り一人でも多くの目に触れることが大切だといって、枚数を上げることのみが自己目的化して肝心の組織化に向けて人人の願いや運動を推進しない傾向とのたたかいでもありました。大衆の自発性に依拠するとして人にたくさん預けて回るが、人人の思いと結びつかない工作ではその実ほとんど貼られていなかったりしました。やはり瞬間ではあるにせよ、話し方がうまいか下手かでなく構えが問題でした。
 『文化・芸術論』には「これらの芸術家たちがどの様に現実と関係を持ちその日、その日生きて流動しているこの現実と向き合っているかとなるといささか疑わざるを得ない」と、そして「どれほど人民大衆の中で生活しているか」と書かれてあります。「ポスター行動」はそのことを問われる毎日でした。
 しかし、『峠三吉・原爆展運動』の創造はそれ以上に激烈でした。広島の現地稽古では自己主張の演技が指摘され、小野田の公開舞台稽古以降沖縄場面の問題が明らかになりました。改訂前の沖縄場面を生き生きと演じていた自分の気分感情とはいかなる代物か、役の中に生きている自分に関心があり、「自分を見せるショーウィンドー」といわれる遊びの芸術なのか、現実を変革する芸術なのか鋭く問われました。
 そのとき改訂されたセリフの中に「原爆や戦争を体験している人は生きるか死ぬかで現在のことを考えている。自分たちは相当に平和ボケなんだ。抜き差しならないところでたたかいぬく覚悟がいるんですね」がありますが、本当に被爆者や戦争体験者の思いを代弁しているのかどうか、そのみずからの葛藤が激しい分だけ真実として観客に届いたと思います。
 先日、長周新聞に峠三吉さんの記事がありました。「詩が叙情的であるがゆえに自己の感情に忠実でなければならぬとすれば、さらにそのために自己を存在せしめ、自分に多様な思想感情を支えている時代の客観的現実を忠実に認識し、またそれに働きかけねばならない。精神と生活感情と方法および技術は同時的に関連するものであり、リアリズムの問題は詩人の全身的な文学的営みにまでかかっているのである」と峠さんの創造の立場と方法が書かれてありました。
 ドイツの劇作家であるブレヒトも同様のことを書いています。「新しい興隆しつつある階級やそれと一緒に戦っている人人の間で問題になるのは、偉大な生産的な矛盾関係にある理性と感情である。ここでは、さまざまな感情が理性の最も強度の緊張にわれわれを駆りたてるとともに、理性がわれわれの感情を浄化する」と明確に社会的有効、有用性を芸術の仕事としてのべています。
 崩壊しつつある、支配の枠に身を置いた感覚、感情世界と決別し、未来を切りひらいていく人民の側に立ってその思想感情を全身全霊で描いていかなければなりません。形象化に結実させるためには、まず現実の正しい認識、理性化された現状認識が根底にないと、形象化の正しい方向も導き出せません。現に広島での現地稽古の自己主張の暴走も「頑張りすぎた」というものではなく形象化を破壊し、敵対にすらなっていくという厳格なものです。中心テーマに向かっての指導思想、指導路線がないと、人人の真実の姿も見えないということでした。
 そこで「現在の情勢について基本的に正しい認識を持つこと、その情勢認識のもとに大衆の基本的要求を政策化し、革命の方向を発展させる」長周新聞の指導性がなにより必要となってきています。創造、普及においても長周新聞とともに実践してきました。今回もその実践が直に稽古場に持ち込まれる中で生きた形象として結実していきました。
 まさに『原爆展物語』は長周新聞との共同のたたかいなしにはできませんでした。節目節目での同志的な的確な批判や援助、またなによりも紙面を通して集中された各界階層の人人の台本に対する感想や期待の声がどれほど舞台づくりの力になったかしれません。
 下関、長崎、広島と公演して、『原爆展物語』の反響は私たちの予想をこえたものになり、人人を考えさせ行動へとかりたてています。そのリアリズムの偉大な力が実証されています。自己を存在せしめ、自分に多様な思想感情を支えている時代の客観的現実を忠実に認識させ、働きかけさせるのが長周新聞です。現実に机を置くには長周新聞と歩まねばなりません。一時も離れてはならない水と魚の関係であると思います。入団して三十数年、長周との関わりも三十数年のはずですが、ここ3年の関わりから本史が始まりました。さらに絆を深め、ともに団結して今度こそ戦争を阻止するたたかいに挑んでいきたいと思います。

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