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小倉哲郎氏追悼集会を挙行
下関市で300人が業績を偲ぶ
                 平和と繁栄につくした生涯      2004年3月23日付

 昨年11月に逝去した豊北原発建設阻止山口県共斗会議議長で元下関市議であった、税理士の小倉哲郎氏の追悼集会が21日、下関市のカラトピア五階で開催された。山口県内をはじめ各地から各界各層300人が参加した。学徒召集で南方の孤島において飢餓寸前で戦後出発を迎え、県税事務所時代の組合・平和運動をへて中小業者や漁業者の味方として活躍した税理士活動、勤労市民とともに歩んだ市議会活動などが明らかにされ、私利私欲なく人民に奉仕した終始一貫した生涯が、あらためて浮き彫りとなった。とりわけ豊北原発建設阻止斗争の勝利では、労働者をはじめ全県民を団結に導いた統一戦線のために生涯をかけて尽くされたことが明らかにされた。

  現代を生きる世代の道標
 追悼集会は中小業者や福祉関係者、漁民、市民、豊北原発阻止斗争などゆかりの人人22人からなる、実行委員会(黒川謙治委員長)の主催で運営された。はじめに全員で黙祷をささげた。顧問の武久病院の頴原俊一氏は、「忙しいなか、参加してくださってありがとうございました。最後までよろしくお願いします」とあいさつをのべた。
 つづいて黒川謙治委員長は、小倉氏の生涯は一貫して日本の独立と平和、繁栄のために、誠心誠意、人民に奉仕する姿勢に貫かれていたと、つぎのように語った。
 「小倉さんは戦争末期に学徒出陣させられ、南方に輸送される船が沈没させられ泳ぎついた孤島で、飢餓と絶望とたたかうという壮絶な体験をされた。復員後、50年にアメリカの朝鮮戦争直前、占領軍司令官の列車を幡生駅で阻止するストライキをして、奄美大島に送られた。日本を足場にして、ふたたび朝鮮に爆投下しようとしているアメリカを許せないという“反米愛国”の思いからだと思う」「自衛隊のイラク派遣という、日本の針路が鋭く問われている今日、ともに小倉さんをしのび、現代に生きるわれわれ、若い世代の道しるべにしよう」とあいさつをした。
   
 いつも市民の味方 ゆかりの人から発言
 小倉氏の業績紹介を、兵頭典将事務局長がおこなったあと、追悼の言葉に移り、各界のゆかりの人人が発言に立った。はじめに小倉氏の税理士事務所開業から、50年近く親交をつづけてきた杉本忠夫氏(スギモプラクト会長)がマイクを握り、「追悼集会にたくさんの人人が集まり、小倉さんも喜んでいると思う。おおいに語り、冥福を祈りたい」とつぎのように語った。
 兵隊から帰り、左官職でもうけて家屋敷を買った。ところが確定申告に行ったあとに、家に税務署が来て、タンスと畳一二枚を押さえられ、小倉氏に相談した。「よし、書類はおれが見てやる。おまえはじゃんじゃんもうけてこい」と発破をかけられ、それから安心してバリバリ働いた。その後、趣味の魚釣りや、市議選にも労働者の味方として、おおいに応援することになるなど、深いつきあいになったと、小倉氏をしのんだ。
 平田富夫氏(伊崎町漁民)は、「これだけの業績のあった人と知って、びっくりしている。趣味の船釣りは、これほどヘタな人はいないくらいだったが、たいしたものだと感激している」とのべた。小倉氏に税務対策をお願いするようになって、税務署が来と、青くなって心臓はどきどきして、穴があったら入りたいような気持ちだったが、いまはなにもかもまかせて、働くだけでよくなったと話した。国民年金がへり、税金をとられてなにをしてるのかわけがわからないようになるなかで、下関のためにならない沖合人工島に、小倉氏が始終やかましくいっていたとのべた。またみずからも戦中は予科練をへて爆撃機に乗り、過失をとがめられて監獄にぶちこまれた体験を伝え、戦争はいけないと語った。
 元市職員の三崎成氏は、市議会議員時代の小倉氏について「市議のなかには、陳情に来ていばったり威圧的になる人が多多いるなか、小倉さんはそういうことがいっさいなかった」と、貧しいものや働くものの側につねに立ってきたとふり返った。児童クラブ廃止や、入学奨励金、国保、国民年金などの充実を訴える一方で、ムダな事業は許さず、「議会でヤジがあろうと、堂堂かつたんたんと発言され、いつも市民といっしょに歩いてこられた」とふり返った。
  
 市政の刷新に貢献 遺志継ぐ決意こめて市民運動関係者
 小倉氏が力を入れた下関の市民運動からは、国保料値下げを実現する会の中島保代表、50万ボルト送電線架設反対運動をとりくんだ広田倫朗氏(メッセージ)、障害者の福祉都市チェックから西本和司氏があいさつに立った。中島氏は「92年に国保に加入したが、下関市は山口県下で一番高く、仕組みについて知りたいと思って“実現させる会”に入会した。小倉さんは大企業本位、中央直結の市政を市民の手にとりもどせをスローガンに、毎月、各地で懇談会をおこない、街頭宣伝や市長、市議会交渉などおこなってきた」と小倉氏のすすめる運動が新鮮だったとのべ、遺志を受けついで運動をつづけていく決意表明をおこなった。
 メッセージで紹介された広田氏は、「小倉さんはいつも弱きもの、声の小さいものの味方だった」と前置きしたうえで、二六年まえに勝谷団地で持ち上がった50万ボルトの高圧送電線工事反対運動について記した。「電源開発グループの事業、国家プロジェクト事業にたいして、われわれの存在はあまりにも小さく、このようなとき、最後まで援助を惜しまなかったのが、小倉さんや市民の会だった。これからも正しいもの、社会の正義のためにがんばっていただくよう切望してやまない」と期待を寄せた。
 西本氏は、「障害者が街に出られない理由」を調べようと、小倉氏が率先して車イスに乗り、公的施設、駅、歩道など、数え切れない場所を回ったとふり返った。その後は、福祉課の職員がチェックをおこなうようになり改善がされた。「私利私欲なく弱い立場の人のことを考えてたたかうあなたに学び、世の中がよくなるようがんばる」と誓った。
 つづいて元自治労山口県本部委員長の田村茂照氏、県税事務所時代の木村重夫氏から寄せられたメッセージが紹介された。旧制萩中学校の後輩でもある田村氏は、臨時職員労組を結成するさいに、小倉氏の寝食を忘れての正義感あふれる行動力は、いまでも当時を知る人のなかで語り草になっていると紹介。さらに七七年の豊北原発建設阻止斗争では、「全県に原発阻止のたたかいのうねりは高まっていき、先輩はその先頭でたたかった一人だった。勝利の固い握手をかわし、喜びあったことはいまでも忘れない」とふり返った。
 木村氏は臨時職員待遇改善斗争をともにたたかったさいに、反骨精神と正義感の強さを見せつけられたと、下関県税事務所での出会いからメッセージで伝た。はじめは約50年まえ、木村氏がシベリア抑留から帰還後、山口県職員として3年目だった。
  「わたしは県職員組合専従執行委員、書記長として、小倉さんも下関支部長、県職中央執行委員に選ばれ、ともにたたかったことが、昨日のように思い出される。当時、政府の中央集権化が強まり、地方事務所の廃止など、行政機構の統廃合、首切り合理化の押しつけに反対し、県庁正門前に連日“座り込み”デモを行い熾烈(しれつ)なたたかいをつづけた。とりわけ1400人の臨時職員の首切り反対と待遇改善を図り、ついに大量首切り案を当局に撤回させた」と、当時の様子をいきいきと伝えた。
 若い世代からは、下関青年合唱団が、荒木栄作曲の「花をおくろう」を合唱して追悼をおこなった。
   
 統一戦線に尽くす 豊北斗争関係者が強調
 豊北原発建設阻止の統一戦線を担ってきた労働者、教師、文化人が、同共斗議長として先頭に立ってたたかった小倉氏をしのび、遺志を受けつぐ決意をのべると、会場は当時の人民勝利の経験がよみがえり、若い世代は真剣に聞き入った。当時、豊北町でサンデン労働者としてたたかった富岡智康氏は、「小倉先生はわれわれ労働者に、現地主義ではなく、現地と職場を結びつける必要性を教えた。生産点からストライキを中心に、反原発と反合理化斗争を起こす方向をしめされた。電産ストライキ、山口市職労のストライキがたたかわれた。サンデン交通は豊北町出身の労働者が、各営業所で宣伝、パンフ普及、映画上映をおこないバス貸し切りで集会に参加した」「現地の農漁民と、労働者のたたかいは一つに結びつき、全県から全国へと広がって白紙撤回を勝ちとった。わたしたち豊北町民は心から感謝し一生忘れることはできない」とのべた。
 山口市の池田義雄氏は、小倉氏が貧困も失業も戦争もない社会主義日本の実現を熱望し、日本人民の解放をめざす立場から国際連帯運動をすすめてきたこと、さらに豊北斗争はプロレタリア国際連帯を願う、全世界人民のたたかいの一環であると、宇野順二先生追悼集会で表明され二代目議長として黙黙と尽力されたとのべた。「豊北斗争勝利は、勤労人民の統一戦線の力で勝ちとったものだ。中心に労働者が座らないといかんよ」と、叱咤激励されたこと、反米愛国の統一戦線発展のために、ただひたすら心身を削って献身された誇り高き生涯に心打たれ、その遺志を受けつぐことを表明した。
 元サンデン交通労働者の鹿島正美氏は、小倉氏から受けた指導として、だれにもわけへだてなく接する人民的資質であり、統一戦線の力を結集するために先を見て指導していくことを、忘れてはならないとのべた。
 元教師の上野紀郎氏は、「統一戦線の重要性が強調されているが、教育運動もまったくそのとおり。荒廃、親殺し、子殺しまで行き着いて、アメリカの戦争の肉弾にされるところまできている。子どもを平和の担い手として育てることは、反米愛国の広大な人民運動と結びついてのみ発展する」と、教え子である自衛隊員のイラク派遣がすすめられるなかで、日本の平和な未来を切り開く、教育運動をつくる決意をのべた。
 劇団はぐるま座の安元清史氏は、小倉氏の肖像の前に立つと「つぶせ原発」の歌がよみがえってくると切り出した。『誇りの海』下関公演で「全国で公演して、統一戦線の力を広げてください」と激励されたこと、『夏の約束』公演で主人公と同じ戦争体験者として、熱を入れて成功のために力を貸してくれたとふり返った。「劇団はぐるま座は、小倉さんの人民奉仕の思想と不屈の生涯に学び、人民芸術の創造にまい進する」とのべた。

 人民言論事業一貫して支持
 発言の終わりに長周新聞社の森谷浩章編集長が、長周新聞創刊以来の読者で、40周年祝賀集会の実行委員長として、「文字どおり人民言論事業を一貫して支持され、独立平和、民主、繁栄の日本を建設する人民の統一戦線をつくるために貢献された」とのべた。とりわけ、偉大な豊北斗争の勝利についてや、80年代のバブル経済の浮かれた風潮のなかで「安保斗争が重要だ」と強調され、天安門事件についても、アメリカの謀略であるという報道を確固として賛同されたことを紹介。また小倉氏が歩まれた道は、民主勢力のなかでも複雑な要素を持った転落とのたたかいでもあり、大多数の人民大衆の願いを代表したものであったとのべた。そして「長周新聞の全勤務員は、統一戦線につくされた生涯に学び、受けついで人民の強力な統一戦線を発展させて、真に平和で豊かな日本社会を実現するために奮斗しつづける」と発言した。
 最後に、小倉哲郎氏の家族を代表して、長男の国雄氏があいさつ。「父の生き方とは、自分の目で見て、自分で考え行動する、それが終始変わらなかった。終始一貫した生き方をしてきたのも、みなさまの力があったからこそ。お礼をのべたい」と語った。
 豊北原発建設阻止のたたかいでうたわれた『つぶせ原発』を、会場全体で合唱して決意新たにして追悼集会を終えた。

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