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沖縄戦の真実に心動かす
小中高生平和教室
             沖縄県民の苦労に共感   2005年3月3日付

 小中高生平和の会(代表・今田一恵/中高生代表・小林さつき、古閑歩、伊藤晃広)は2月27日、下関で第30回平和教室を開き沖縄戦の体験を学んだ。これまでの平和教室で学んだ被爆体験や下関空襲、外地での戦争体験と重ねて、アメリカ軍が沖縄の人人にたいしておこなった残虐な行為と、それに負けずに沖縄の人人が困難ななかを生きてきたことを学び、子どもたちはアメリカの犯罪にたいする怒りをあらわし大きな衝撃を受けていた。この日は下関、美祢、宇部、防府、萩、北九州の各地から小・中・高校生と教師、父母あわせて71人が参加しておこなわれた。
    
 親失い生き抜いた体験も学ぶ
 午前中は、ドッジボールや大縄跳びで汗を流し、全体がすぐに仲よくなった。
 午後からは福田正義記念館3階に移動して原爆展キャラバン隊の劇団はぐるま座・富田浩史、近藤伸子の2氏を招いて、昨年二カ月間にわたり沖縄の地で原爆展を展開し約1000人のオジイ、オバアが経験してきた沖縄戦の真実を1時間半にわたって聞いた。無数に残された艦砲の爪跡、艦砲で殺された家族など沖縄戦の写真をスライド上映しながら、2氏は「沖縄での戦争がいったいどんなものであったか、沖縄のおじいちゃん、おばあちゃんたちから聞かせてもらったお話をみなさんにお伝えしたい」と語りはじめた。
 沖縄に上陸したアメリカ軍は55万人にのぼり、「沖縄の海が見えなくなった」といわれるほどの1500隻もの軍艦が押し寄せてきたこと、たいする日本の沖縄守備隊は11万人で、「鉄の暴風」と呼ばれる艦砲砲弾を1b四方の面積に1発の割合で撃ちこんだという沖縄戦の概略を説明。沖縄戦での死者は日本人が25万人で、アメリカ軍は約2万だったことも語られた。
 そののち沖縄戦で殺された25万の人人はどんな思いで死んでいったのか、両親を殺され生き残った子どもたちはどんな思いで生きてきたのか、当時7歳だった糸数安子さん(67歳)の体験を紹介した。
 糸数さんは、激戦地の1つである西原町に住んでいたがアメリカの侵攻からのがれるために1家で南部方面に避難する途中、かくれていた亀甲墓(沖縄の墓)の中に艦砲が撃ちこまれ、姉は首を切られ、兄は腕を吹き飛ばされて亡くなった。自身もお腹からふくらはぎにむけて艦砲の破片が貫通し血だらけとなった。そのためまだ爆撃されていない隣の墓に入れてくれた。母親は「かならず迎えに来るから!」とかつお節と黒砂糖を手渡した後2人の妹を連れて逃れていった。
 独りぼっちで暗い墓の中で7歳の少女が恐怖と不安にかられながら、約1週間過ごしたある日、人の声が聞こえたので外に出ると足をけがしたおじさんと、大きなアメリカ兵が銃を構えて立っており、2人ともアメリカのトラックに積まれ軍の病院に運ばれた。「かならず迎えに来るから!」といった母親も六〇年たったいまでもどこで死んだのかわからず、戦後はおばさんに世話になりながら、子守や女中奉公など一生懸命働き、「男の人がやるような力仕事もなんでもやってきたサ」と誇らしげに語ったことを紹介した。また沖縄戦で父親、母親、姉、兄そして妹と五人の家族を亡くした糸数さんの願いはただ一つ「二度と戦争を起こさせないように、二度と自分と同じ戦争遺児をつくらないように」「戦争を身体でくぐってきているから二度と戦争がないようにそのことばかりを願うサー」と本土の子どもたちにかならず伝えることを約束して帰ってきたことを近藤氏は語った。
 糸数さんの体験を聞くあいだ、会場は静まり、メモをとったり語り手を見つめて聞き入る子など真剣そのものだった。自分たちと同じぐらいのときに経験した糸数さんの思いを考え、イメージしながら聞いていた。
    
 真剣に聞く子どもたち 静まり返る会場
 休憩を挟んだのち、沖縄の人人がぜひ伝えてほしいといわれた「アメリカによる無差別、皆殺しの攻撃がやられるなかでも沖縄の人や日本の兵隊の多くはたがいに助けあっていたこと、天皇とか戦争指導者とは違うんだ」という沖縄の人人の経験が紹介された。沖縄の人たちは本土から連れてこられた兵隊にたいして、少ない食糧のなかから芋やおかゆをつくってやり喜んで食べさせたという。それは「自分の子どもや父親、兄なども戦争にかり出されていたため、本土から送られてきた兵隊さんや特攻隊で死んでいった若者を見ると他人事とは思えなかったからだ」。
 当時16、7歳だった上地栄基さんの体験を紹介した。上地さんたちは、日本軍の食糧などの倉庫の仕事を手伝っていたが、いよいよ米軍が攻めてくるので日本軍が南部へ移動するというとき、その少年たちが「いっしょについて行きたい」と申し出たところ、隊長は断ったという。「自分たち軍人は、骨は沖縄の石となり、肉は沖縄の土となる覚悟できているが、君たちはまだ若い。命を粗末にせず、かならず生きのびて日本の将来を見届けてくれ」と。隊長はそういってありったけの食糧を少年たちに持たせ家族のもとに帰らせたという。当時は少年でも戦斗に参加させるよう日本軍から命令が出ていたが、隊長の少年兵たちを帰らせるという行為は勇気のいることだったと富田氏は語った。上地さんが「沖縄に攻めてきてたくさんの人を殺し、土地を奪ったアメリカが憎くてたまらない。軍国主義や天皇は大まちがいだが、あのような立派な日本兵がたくさんいたことを若い世代にぜひ伝えてほしい」と涙を浮かべて語っていたことを紹介した。
 当時洞窟を野戦病院にして、そこで日本軍の看護にあたっていた当時女学生の2人の婦人の体験も紹介された。10代だった当時、目の前を弾丸が飛んでくるなかで洞窟を出て水くみや洗濯などをしていたこと、つぎつぎに運ばれる内臓が破裂した人、両腕のない人、足や下あごのない人など大けがをした兵隊を看護したという。アメリカ軍の攻撃がひどくなり洞窟を移動するさいに、重傷を負って動くことができない兵隊は毒薬の青酸カリを使って殺すことを軍から命じられたが、島尾中尉という軍医は「だれの命令であろうと患者を殺すことなどできない」と命令にそむいたという。その婦人は「あのむごい戦時中にも、まわりにこういう立派な心の持ち主の兵士がいてそのお陰で今日のあることを忘れてはいけない」と語っていたことをのべた。
 毎日のように毒ガスが壕に投げこまれ、あすにはアメリカ軍が攻めてくるという晩、女学生25人が集められ小池という隊長が「長いあいだほんとうにありがとう。しかしもうこれ以上、責任を持つことができないから看護隊を解散する。あすになれば、この洞窟も激戦になるにちがいないから、絶対にもどってきてはいけない。かならず生きて家族のもとに帰ってください」「そして二度とこんなことが起こらないように、この悲惨な最期を若いみなさんに語りついでください」といって食料を全員に配ったという。そして小池隊長は自決した。
 生き残った女学生たちや生き残った遺族や関係者たちは、野戦病院で亡くなった人たちを忘れないために患者合祀碑をつくり、毎年慰霊碑を参りつづけているという。「沖縄には沖縄の人が日本兵をふくめて祭っている碑が多い。読谷村には慰霊碑や戦跡が80カ所以上ある」と富田氏はのべた。 
 富田氏は、「沖縄や日本全国の圧倒的多数のおじいちゃん、おばあちゃんたちが、自分さえよければいいというのでなく、人としてのほんとうの温かい人情というものをぜひ若い世代や子どもたちに語りつぎたい、それが戦争で生き残ったわたしたちの役目だといっておられた」としめくくった。
   
 熱こもる感想発表 
 小・中・高校生からはつぎつぎと質問が出された。「アメリカ軍は沖縄の人を殺したのになぜ病院で治療したり助けたりしたのか」という質問にたいしては、「助けられた人はみんな捕虜にしてアメリカ軍のために働かされた。自分たちが殺しておいてあとから助けるというふりをした」ことがのべられた。
 その後一人ずつの感想発表では子どものストレートな思いが出された。「アメリカは日本人にひどいことをして、あとからイメージアップするために助けたことがわかった」(小学4年男子)、「アメリカが沖縄に攻めてきたくせに、あとから助けていい人ぶっているのが許せない」(小学5年女子)、「日本軍は沖縄の人たちをおいて逃げたと聞いていたが、おたがい助けあっていることがわかった。アメリカ兵と日本人の死者がぜんぜん違うのにびっくりした」(中学2年女子)、「アメリカは日本人にたいして残酷なことをしているなと思った」(中学2年男子)、「青酸カリをうたなかった人、小池隊長のような心ある人が裏側にいたことをはじめて知った。もっと沖縄戦のことを知りたい」(高校2年女子)、「学校の社会では教えてもらえないようなことを教えてもらえてよかった。もっと話を聞きたい」(中学2年女子)、「沖縄にアメリカ軍が来たことは知らなかった。平和教室に来て知ることができてよかった」(小学4年男子)。
 報告をつうじてアメリカが日本にたいしてなにをやったのか、これまで学んだ被爆体験や戦争体験と重ねて鮮明にされ、中・高校生からは、もっと沖縄戦のほんとうのことが詳しく知りたい、勉強したいと共通して出された。はぐるま座の2氏をとおして学んだ沖縄の人人の経験や思いが、子どもたちには直に沖縄のおじいちゃん、おばあちゃんへの尊敬の思いとなって、感想として語られていた。
 感想発表のあと、今田先生が「感想文を沖縄の人に送るので思いをこめて書くよう」に促し感想文を書く時間が持たれた。また最後の20分間で礒永秀雄の童話劇『天狗の火あぶり』(劇団はぐるま座)のビデオを鑑賞した。
 報告した富田氏は「沖縄の人から託されているものが大きかったが、これほど真剣に目をきらきらさせて聞いてくれると思わなかった。話していると子どもたちの顔がパッと上がったりしてすごい反応だと思った。沖縄の婦人が“おじいちゃん、おばあちゃんが悪かったと教えて子どもが育ちますか? みんな助けあってきた人情が圧倒的だ”といっていた。沖縄や各地の人に子どもたちの感想を届けたい」と子どもたちのまっすぐな受けとめに驚いていた。子どもたちの作文をまとめた文集は、思いを託された沖縄の体験者や各地の遺族にも届けられるという。
 平和の会では沖縄戦の真実についてひきつづき学んでいく。

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