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親の知らぬ間に変貌した学校
中学生逮捕事件の実情と問題点
             授業がわからなくなった子を放置    2009年10月21日付

 先日、下関市内の中学生の男子生徒3人が、友だちをなぐって鼻の骨を折ったというので、警察に傷害容疑で逮捕される事件が起こった。警察官が、生徒がまだ寝ている早朝に自宅にあらわれて、手錠をかけて逮捕した。これはいったいどういういきさつでそうなったのか、どうしてそうなっていったのか、下関ではこういう事件が相次いでいる。学校は秘密主義が横行し、生活に追われて忙しい多くの親たちは学校がどうなっているのかわからない。本紙では、多くの親たち、地域の人人の目となり、耳となって、ことのいきさつを調べ、問題のありどころを考えてみた。
 ことのいきさつは、9月16、17の両日、中学校や近くの空き地で中学2年の男子生徒2人を殴りケガを負わせたということで、翌日に被害届が出され、警察が動き始めた。そして10月8日と13日にあわせて3人の男子生徒が逮捕された。逮捕された3人のうち2人は同じ学校の3年生で、もう1人は別の中学校の2年生だった。殴った方も殴られた方も同じグループだったといわれている。
 殴った3年生の生徒二人について、学校は被害届を出し警察が動くのを承知していたが、親には知らせなかった。親は息子が警察に逮捕されて初めて事実を知り、「なぜ学校は知らせてくれなかったのか」と強い不信を抱いている。学校側は「おかしな親だから」とこれも相当の不信を持っていた。
 この中学校では、今年に入って器物損害や傷害事件などで警察沙汰が連続した。教室のドアの鍵が壊されたら、警察が器物損害で校内で指紋をとって回ったり、プールに一輪車が投げこまれたら写真を学校が撮ったりしていた。また別の傷害事件でも生徒が逮捕された。この生徒たちは、中学校では「ワル」と呼ばれる生徒である。昨年ごろから授業には入らず、10人ぐらいのグループで固まって校内でたむろしていた。今年に入り、暴れ方がエスカレートしていたが、最近、少年院や鑑別所に送られたり、転校したりしてグループの人数が減り、「いい学校になった」などといわれていた。
 多くの地域の人が授業参観に行くと、教室の後ろの方でトランプをしていたり、授業中でも走り回っていたり、缶ジュースを飲みながら廊下を歩いていたりという光景を目の当たりにしている。それに対して、教師がちょっとでも触れただけで「お前、殴った!」といったり、話しかければ「うざい」「あっち行け」などといったりする。ドアを蹴ったり、物をなげたり、爆竹を鳴らしたりする。
 彼らの一つの特徴は、学校から一歩外に出れば暴言も吐かず、街を徘徊することもない。小さいころから生徒を知る団地の住民は、「うちの子どもとよく遊んでくれていた」「きちんと挨拶もする子どもだ」と語られている。地域のある親は「あの子たちはいい子だと断言できる。学校に行っても、面識のない親たちに挨拶してくるのはあの子たちだけだ。社会的なことをきちんとできるのはあの子たち」と語る。下級生のあいだでも「あの先輩たちは優しい人たち。校門前でみんなに挨拶してくれ、返すと喜んでくれる。ときどきふざけるけど、全然悪い先輩ではない」と語られている。
 かれらは学校の外で、万引きをしたり、暴れたりしているのではなく、「学校の中だけで暴れている」のである。とくに学校・教師に反抗しているという特徴がある。

 秩序守ると暴れる生徒排除 地域と違う評価基準

 際だった特徴は、以上のようにこの子どもたちの評価について、学校と地域、子どもたちのあいだで、はっきりと評価が分かれていることである。
 この生徒たちの特徴として、小学校のときから勉強が遅れ、中学になると授業がさっぱりわからない状態だった。「九九」や分数がわからないなどで、授業はわからないのにジッと座っているだけという状態だった。そして教室にも入れなくなって、校内でタバコを吸ったり授業のじゃまをしたりしていた。そして「人に迷惑をかける」と学校から排除されてきた。この生徒たちは、運動会ではクラスから切り離されてかれら問題児だけの別席がつくられ、そこから競技に参加しては戻るようにしていた。
 家庭環境でみると、このワルといわれる子どもたちの多くが、親から捨てられたり、片親であったり、両親がいても非常に困難であったりという子が多い。なかには「学校の給食だけでもっているのではないかと思われる子もいる」といわれる。
 地域の人人のなかでは、「社会に出て必要な最低限の知識は学校でつけさせられないのだろうか。中学3年生は受験が目前で緊張感があるが、あの子たちはもう教室にも入れないし、学校に行ってもおもしろくない。でも行くところがない。本当にかわいそうだ」と心配している。しかし、「学校秩序を保つため」に暴れる生徒を排除する学校運営が進行している。
 学校には「ワル」といわれる生徒たちの他にも、勉強がわからない子どもたちが多くいる。不登校や保健室登校になったりして、教育相談室に入れて対応している実態もある。しかし勉強がわからない子をわかるようにする対応はない。遅れたものの「自己責任」で、授業は勉強ができる子だけを対象に進行している。いい高校に何人通ったかが、その学校の評価にもなる。
 教育の機会均等主義は放棄して勉強のできる子どもだけを相手にして授業は進めるとなって、不遇なできない子たちの目にはひどい「えこひいき教育」と映る。そして、親が議員とかお金持ちとかの子、成績上位の「いい子」などがお菓子を食べても問題にならないが、「ワル」たちが食べれば問題になるなど、えこひいき、偏見に対して強く反抗している。
 「おとなしく勉強のできる子がいい子」という評価について、教師のなかでは「隠れて陰湿な悪さをする子の方が恐ろしい」と語られる。平気でウソをつき、万引きをしたり、ある時驚愕するような凶悪犯罪を犯す。そんな事件のとき決まって出てくるのは「いい子だったのに」である。「いい子」「悪い子」の価値基準が問題なのだ。
 勉強ができるかどうかは、金持ちの家庭か貧乏な家庭か、に帰結しているのが現実である。良くできる学校は、塾に生徒がたくさん行っている学校である。
 学校の価値基準が、勉強ができるかどうか、生徒指導はカウンセラーに任せ、それに余る子は警察に任せて、教師は勉強だけを教え、どれだけいい学校に多く進学させるかが成績となる傾向が強まっている。
 子どもたちがこの先どう生きていくか、みんなと協力し団結する精神とか、間違ったこととはたたかい、正しいことを正しいと貫き通す精神とか、困難に負けない忍耐力とか、貧乏を恥とせず働くことの誇りを貫くとか、学校でそのような心にふれるものが余りにもなくなっている。
 ここで学校の対応である。この中学校の校長の対応について、評価は二分している。親や地域のなかでは、「働くもの、貧乏人をバカにする人の心がわからぬ冷たい校長だ」「ツンツンした女校長だ」などの評価がある。しかし市内の校長らのなかには「傷害事件になったら警察に委ねるしかない」「冷静に判断して校長はよくやっている」「やり手の校長だ」というのがある。
 女性校長であるが、体育系男校長でも頭が上がらないような県内校長のエリートで「エライ人」とも語られる。2年前までは下関市教育委員会の指導課長を務め、川中中の教科教室とか、小中学校統廃合推進の指導をしていた。市内の校長を指導する立場の別格の校長である。つまり下関市教委の方向を代表する校長であり、異例の文科省課長天下りの嶋倉教育長の「ホープ」であり、文科省直轄の代表的な校長ともいえる。それはまた安倍元首相がやった「教育再生」、教育基本法改定、教員免許法の施行、12歳から逮捕できるとした改定少年法を実行するモデル校長というべき位置にある。
 つまり、この学校の問題は、市教委の方向を代表しており、市内全体の学校に共通する問題としてあらわれている。

 学校はなぜ隠すか 父母にも事件知らせず

 学校の中のことは秘密にするというのが「おふれ」のようになっており、多くの父母たちのなかには学校で何が起こっているかわからない。この事件もこれまでの鑑別所送りなども、全校生徒か父母全体に知らせることはしていない。「学校はなぜ隠すのか。みんなで考えないといけないのではないか」という声が強く出されている。しかしこの事件は、市内全域の補導員など教育に関わる人人のあいだで大論議になっている。
 ある補導員は「先生たちがなぐれないなら補導員がなぐらないといけないという話にもなる。警察沙汰にしたら一生の汚点になる。愛の鞭で本気でやれば子どもは絶対にわかる」「警察に差し出す前に、本気で向きあって教育として解決することはできなかったのか」「親と教師の信頼関係が完全に崩れている。そういう親こそ信頼関係をつくっていかなければならないのに、これでは悪循環だ」と教育の崩壊を強く危惧(ぐ)している。
 そしてこのような学校崩壊の状況が、下関市内のどの中学校でも共通しており、未来を担う子どもの教育の問題として、校区を越えて論議となっている。
 ある中学校では、学校で暴れる「ワル」に対して、「お願いだから学校に来ないでくれ」「別の施設に行って欲しい」という対応がされた。親が学校に「勉強ができない子は必要ないのか」と聞くと、「学校は勉学の場だから勉強できる子がのぞましい」といわれ、このようななかで心の通じ合う教師がいなくなり、反抗がエスカレートしたと語られる。この関係は親のなかにも持ち込まれ、勉強ができる子の親の意見が尊重されることに、疑問が語られている。
 ある校区の補導員は、先日パトロールをしていたら、3人の中学生が寝ころんでいるのを見つけた。理由を聞くと「茶髪で学校に行ったら、校門前で先生から帰れといわれた」という。それで補導員は学校に行って「義務教育なのに、なぜ学校から排除するのか。別室で説教してもいいから、教育として解決すべきではないか」と意見をいった。補導員は「今の学校は問題が起こらないようにと閉鎖的になり、体面をとり繕っている感じがする。もっと地域に学校の実情も知らせ、一緒に子どもを教育しようと呼びかければ、私らも協力するのに」と語っている。
 ある母親は「昔から不良はどの学校にも、どの学年にもいたが、そういう子たちもふくめて“お前らはみんなうちの学校の生徒だ”と、厳しくも親身になってかかわっていた。しかし今先生たちは“体罰だ”と騒がれるから、子どもとも家庭とも一線を引いて、“ここからは自分のプライベート”という感じで、それ以上歩み寄らなくなっている。腹を割って話すことができない。最近、乱斗事件や暴力にエスカレートしているのは、学校がここはおまえたちの居る場所ではないという対応をとっていることのあらわれではないか」と話す。そして「その関係を変えようと思ったら、大人の側、教師の側が一歩踏み出さないといけない。子どもが悪いといっていても解決しない。子どもがそうなるのは大人の側に原因があると考えるべきだと思う」と話していた。

 日本の将来担う人材育成を 未来かかる重要問題

 ある父親は「母子家庭の母親が教師から、子どもの成績が悪いと厳しく注意された。そのとき“でもうちの子は弟や妹の面倒をよく見て、私を助けてくれるんですよ”というが、それが通じなかったという。学校の基準が、勉強ができる子はよくて、そうでない子は評価されなくなっている。今の先生はペーパーテストの成績はいいかもしれないが、人の気持ちがわからない人が増えている」とのべている。
 ある退職教師は「子どもと向きあう生徒指導が無力化し、子どもや家庭と向きあうことができなくなっている。体罰をすれば“処分”となり、先生たちが守りに入っている。家庭的に不遇な子ほど、大人を見ぬく力は鋭い。そういう親や子ほど、信頼関係を結べば人間をさらけ出した深いつき合いになる。だからまず学校が家庭や地域から信頼され、家庭と向きあうことでしか解決できない。子どもの行動だけ見て“ワル”だとはいえない。大人、社会の矛盾に対しての抵抗を、学校が親と一緒になって解決しないといけないのではないか」と語っている。
 そのほか、「小学校からの教育を変えないとダメだ。小学校から好き放題の“お友だち教育”で、中学校で点数評価が始まって勉強ができない生徒は爆発する。勉強ができる子はいいが、勉強できない生徒をかかえる包容力が学校になくなっている」(補導員)、「成績のいい子だけ、塾に行く子しかわからないようになっている。子どもをどうするかではなく、自分をどうするかで、とにかく無難に対応するという教師が増えた。行政システムがそうさせている」(商店主)。
 さらに「下関は安倍、江島に食い荒らされ疲弊がひどい。下関を立てなおそうというときに人材育成に力を入れないといけない。まともな人間を育てていかないといけない」と、社会の未来をどうするかの重要問題として語られている。

 子どものためか保身か 迫られる教師の立場

 このようななかで教師はどうするか迫られている。教師へのしめつけがきつく、いかんともしがたいご時世なのでどうにもできないで過ごすのか。
 第一には、体罰禁止などといって、へたをしたら首を切られるような、教師の指導性を奪うあらゆる抑圧を取り除くことである。これは文科省、マスコミ、警察と大きな権力として加えられているもので、教師が子供たちの未来のために、すべての親、地域との力と団結してやらなければならないことである。
 第二に、いかに権力的に抑えつけられていても、教師の思想まで売り渡さなくても良い。教師が何を考えるか、思想は自由である。教師の価値観が、勉強ができることがもっとも尊いとみなす差別、選別、ランク付けの価値基準では、教育にはならない。この間の教育改革は、子どもたちのためにということではなく、アメリカとか財界の要求するもので、上から持ちこまれたものであった。教師もまた自分のため、自分の生活のため、自分の出世のために教えているというのは、子どもを利用するというものである。それが「心の病」コースになっている。教師は子どもたちのため、失業と貧困と戦争にすすむ過酷な社会状況のなかで、子どもたちの将来のため、その子たちをその家庭ごと理解して、まともな社会の力強い担い手としてどう育てるか、という教育者の使命感が問われている。
 第三に、金持ちが立派で、貧乏人は粗暴でダメなどとみる労働蔑視が、暴れる子たちを理解できない根本である。人間の歴史を発展させてきた原動力は生産活動である。生産活動を通じて自然の法則を理解する。それが理科や数学の源泉である。生産活動を通じて、人と人との関係を発展させ、言語を発する。それが国語、社会科の源泉となる。そして生産活動を通じて、人と人とが支え合い協力し合って生きていくし、不断に自然を変革し、社会を変革し、自分自身を変革していくという精神を培う。したがって、多くはますます貧乏になりながら労働する勤労父母と結びつき、その発展的な精神を共有することなしに、現代の子どもの教育ができるわけがない。
 子どもたちの教育の問題は日本社会の進路に関わるもっとも深刻な問題である。この間の自民党政府によるふざけた教育破壊をこのまま許すことはできない。日本の命運のかかる問題として、全人民的な大運動によって、教育を立て直す必要がある。

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