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 <論壇> 市民の大切な子ども達を強権行政に差し出せない 2007年6月20日付

 下関市の川中中学校を、クラスのない教科ごとの教室にするという問題で、父母、教師の怒りが噴き上がっている。川中中は、教科教室計画が持ち出されたあと、「教師の体罰」といってマスコミのターゲットになって教師を萎(い)縮させ、学校が荒れていくなかで女子生徒の校内自殺事件が起こり、現在も落ち着いているわけではなく、教師が常時生徒を監視するような現状にある。
 親たちがもっとも求めていることは、教科の成績がよくなること以上に、人間としてまともに育つことである。「成績のいい生徒の異常犯罪」など考えるだけでおぞましいことである。そこに何年もほったらかしにしていた教科教室型学校の建設計画を、市教委が「平成14年に決まったこと」などといって思い出したようにごり押ししてきた。
 クラスをなくすと、生徒同士の絆、生徒と教師の絆などが希薄になるのは当たり前で、荒れた学校をさらに荒れさせることは疑いない。自殺どころでない事件すら起きかねないと心配するのは当然である。成績のいい冷酷な犯罪者が増える時勢のなかで、父母たちが人間としてまともに育つことを切実に願うのは当たり前である。教育は思想の自由があり民主主義でなければできないことである。市教委のような強権手法で教育はできない。それは荒れる学校をことさらに動物園かサファリのようにさせるものである。自分たちの大切な子どもたちが相談もなくクラスのない学校に通わせられるというのでは、父母たちがすんなり納得するわけがない。
 とりわけ、大挙して視察に派遣し、「説明をし検討した」という当時の教師のほとんどは川中中から異動させ、当時の父母の子どもは卒業していない。それ以後何年も計画を中断させ、事実上の白紙状態にしてしまったのは市教委側である。当事者となっている現在の教師や父母は降ってわいたような話であり、実際に教科教室の対象となりはじめる川中小、熊野小の子どもたち、それ以下の保育園児、幼児たちの親たちの理解はまったく得ていない。
 松田教育長は、教育委員会が決めたことだから父母や教師の意見を聞く必要はないといっている。これは本末転倒であり、教育脱落者が権力を振り回している姿を証明するものである。子どもたちは誰によって育てられているか。まずは親と家族であり、地域・社会であり、子ども同士の関係であり、そして学校の教師である。これらの人人が実際に子どもたちと交わり育てているのである。このような人人の理解と協力を得ることなしに、「教育委員会が決めたら教育がやれる」と平気でいうような、頭が逆立ちした人物が教育長のポストにいることは驚くべきことである。
 多くの教師や父母が、「そんなにいうのなら松田教育長自らが川中中の現場にきて教育の模範を示したらどうか」といっている。しかし生徒から殴られるような羽目となって大恥をかくのがオチだというのが圧倒的な評価である。松田教育長の尻をたたいている江島市長は、他人の子どもの教育どころか自分の家庭の方が崩壊状態という評価が定着する有様。「教育再生」を叫ぶ安倍首相も「犬を育てたことはあっても人間の子どもを育てたことはない」といわれている有様で、教育の外側にいる者が子どもの教育に介入して「不当な支配」を強行するのは、下関のすべての教育にとってこの上ない不幸なことである。
 「国が決めた教科教室に子を持つ親も教師も異論を唱えてはならない」というやり方は、勤労父母の子どもは国家に差し出すものだ、という戦時中のイメージとダブるものである。今回の教科教室問題は、下関の教育行政が度はずれていることを示している。川中中にとどまらず全市内において、下関の教育をどうするのか、父母や教師の大論議を強め、声を形にし、このようなバカげた教科教室のようなものは撤回させなければならない。教師集団はこの勤労父母のまともな教育要求の側に立ち、父母と団結することで教育行政の圧迫をはねのけ、教育者の誇りを回復することが求められている。

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