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<論壇> 川中中問題を巡り地域・教師の腰すえた大論議を  2005年5月17日付

 下関市の川中中学校で、女子生徒が自殺するという痛ましい事件が起きてから1カ月がたった。それは子どもを亡くした親だけではなく、子を学校にかよわせる親たちにとって、このうえもなく心痛な事件である。このようなことはどこの学校でも起きることだという学校関係者の実感があり、ことは川中中で起きた事件であるが、川中中だけの特殊な事件とは見られていない。子どもの世界で、人の命を奪ったり、自分自身の命を絶ったりという事件があまりにも多いのである。なぜこのようなことが起きたのか、二度と起きないようにするにはどうすればよいのか、腹を据えて論議し、解決の方向へむけた努力が求められている。
 県、市教育委員会は、「なにごともなかったかのようにするのが子どもたちの心のケア」とか、「時間がたつことが解決する」などといって、問題を明らかにせず、お手上げ状態と無責任ぶりをあらわしている。そこに、商業マスコミがあらわれて、「いじめ」の犯人捜しをはじめている。「やっかいなことは卒業するまでじっと待とう」という小役人的な責任回避と、「真実解明」の顔をして実際は興味本位でかき混ぜる、というのでは、学校はますます相互不信と閉塞状況に追いやられるほかはない。
 この学校で、「いじめ」があったことはみなが認めるものである。とくに昨年は学校崩壊といわれるほどであった。しかし、一人の子どもが死んだというとき、「いじめ」は一つの要因、ないしはきっかけではあるが、その背後により根本的な原因がある。つまり、子どもたちのなかで「いじめ」をなくす力をつけることもふくめて、生きていく喜びと強い力が乏しくなっているという問題である。子どもたちにとって、魂にふれるようなことが乏しく、どのように努力していって社会の役に立つ人間になるか、という喜びや目標が乏しすぎるという問題である。
 「いじめはなかった」という学校側もしらじらしく、「いじめを見つけた」というマスコミもまたしらじらしい。日本中で「いじめ」がない学校などあるわけがないのだ。ところで川中中では、昨年にはいっきに荒れて学校崩壊状況になった。熱心な教師が「体罰をした」といってマスコミが騒ぎ、教師の指導性を攻撃したのが契機であった。マスコミの教師いじめであり、子どものいじめに拍車をかけた。江島市長とそのヒラメ教育委員会は、クラスを解体して仲間のきずなを薄いものにし教科だけを勉強すればよいという教科教室を押しつけ、さらに子どもや地域との関係を希薄なものにする大幅な人事異動をやった。教育委員会の権限による子どもいじめ、教師いじめである。このような「いじめ」を子どもたちが真似しないように、なくさなければならないのである。
 親たちの生活を見ても「いじめ」だらけである。教科教室をハコモノ利権として飛びついた江島市長のダンピング入札を見ても、業者いじめ、働く親いじめである。日本全体で3万人以上が自殺している。子どもたちの目に映る世の中は「いじめ」だらけであり、金と力がすべての弱肉強食の殺しあいである。
 このような荒れはてた「いじめ」社会で、なすがままにしていたらそれが子どもたちに反映しないわけにはいかない。問題は、この荒れはてた社会環境のなかで、それにうち勝っていく子どもたちをどう育てるかということにある。きわめてハッキリしていることは、働く親たち、さらに戦争をくぐり平和な社会をつくるために努力してきた祖父母たちのなかでは、利己的な「いじめ」などをべっ視し、仲間と協力し、助けあって社会のために働き、生きていくというのが根本的なモラルである。働く親たちのなかにあるそのようなものこそもっとも尊いことであり、よりよい社会の未来を代表しているという確信こそ教えられなければならない。
 決定的なことは教師の役割である。上からは、子どもの魂にかかわるようなことはやめて、教科を教えておればよい、その結果どうなるかは子ども自身の自己責任といった非教育の方向を強めている。こうして学校は、差別・選別、ランクづけのすさまじい弱肉強食の戦場のような場となり、子どもたちにとって、まことに面白くないところとなっている。この方向は日本社会をつぶし、子どもたちを滅亡にむかわせる方向である。
 ここで教師の新鮮な時代意識と情熱の回復が求められている。文科省の教育が破たんしていることは明らかである。実直な働く親たち、戦争を体験し平和で豊かな社会の建設のために働いてきた祖父母世代のなかに、未来にむかって発展するものがある。なによりも教師が、「いまの状況ではやむをえない」といって、子どもたちの魂にかかわる使命を投げ捨て、戦争と破滅の道へ追いやるのでなく、勤労父母、地域のなかに入り、積極的な論議をかわすことから展望を見出さなければならない。

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