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 <論壇> 学校は99や漢字できない子なくして卒業させよ  2009年11月4日付

 下関の中学生逮捕事件をめぐる問題が、衝撃的な論議を呼んでいる。この学校が変わったら同じ状況にある下関全体の学校が変わるという強い期待がある。あらわれている1つの問題は「暴れるワルたち」を警察に逮捕させたり、他の学校に転校させて排除し勉強する生徒たちの「学習権を守る」という考え方にある。
 ワルたちを施設や他校に追いやって「いい学校になった」という考え方は恥じるべきである。厄介な者はよその学校に押しつけ、よその学校を悪くする、よその学校の学習権を邪魔することがいいことだという意味である。それは勉強のできる子の学習権のために、勉強のできない子の学習権をなくすのと同じで、エゴイズムである。高校に進んで、他校の生徒から「おまえたちのために俺たちの学習が邪魔された」といわれても文句をいえない。他人の犠牲によって自分がいい目にあっていく。そういうエゴイズムが今、学校も世の中も荒涼としたものにしているのだ。
 勉強のできるエゴイズムの子をつくることは、恐ろしいことである。適用年齢を12歳に引き下げた少年法改定は長崎の駿ちゃん事件、佐世保事件という震撼するような事件がきっかけだった。その子はつねに成績がトップクラスの中学生であり、自分でホームページを立ち上げたようなコンピューター通の小6の子であった。下関駅に突っ込んだ青年も、九大卒の成績のよい子だった。事件ではなくても、一流大学を出たが対話力とか交渉力がなく、つまり世間を知らず、とくに「成績の悪い人たち」と交わることができずに落後し、心の病になっている例は数知れない。学校で多種多様の子どもたちと交わり、かれらに信頼され導いていくようなリーダーこそ育てなければならないのだ。
 ワルは他校に回したらよいというが、「引き受けた人数分、うちの方のワルをそっちで引き受けてくれ」という世の中の等価交換原則を適用されたらアウトである。要するになんの解決もしていないのだ。各学校で、校区の子ども全体と向き合って、責任を持って良くしていく、そうすることなしに下関全体の教育もその学校の教育も良くすることはできない。
 こういうことをしている校長の学校運営は破産しており、問題に正面から向き合う力がない教育的無力さを証明している。役人世界のランク付け・エリート意識で、ワルを押しつけて他校の男校長をイジメた形だが、それは客観的には、お手上げになって男校長に頼る婦人的隷属性をあらわしている。そんな浮薄なエリート意識が、困難の中にある生身の子どもたちを前にした現場では通用しないのだ。
 校長は自分の教育者としての無力さを正直に認め見栄も恥も捨てて、教師たちに頭を下げ、親たち、地域の人たちに頭を下げて教えを請い、それらの人人が力を合わせて学校を立て直すようにすべきである。とくに教師たちが「エライ校長」の顔色をうかがわなくてすむようにし、子どもたちと正面から向き合って、思い切って力を発揮するようにさせる必要がある。
   ☆
 問題の基本にあるのは、学力の問題である。九九ができない、分数ができない、漢字がわからないという子が、小学校の低学年から授業がわからないまま何年も放置されている。以前は九九のできない子はほとんどいなかった。日本は世界1の学力といわれていた。読み書き計算は、昔の寺子屋以来勉強の基本である。それができなければ、大人になって困るのだ。勉強がわからないということは、徳育の面でも敗北主義の要素となる。徳育の問題も、知育で突破することが不可欠である。
 学力は努力しなければ身につかないのに、この間「新学力観」「興味と関心第1」といい、「がんばらなくても良い」「嫌なことはしなくて良い」「楽しいことをすれば良い」といって、放置することが奨励されてきた。文科省、教育委員会がそういってきたからやむを得ないというわけにはいかない。目の前の子どもが九九もできない状態で放置されていることに責任を感じ、心を寄せるのが教師である。
 小学校の教育も改めなければならないが、中学でも教師自身が遅れた子どもに教える責務がある。また生徒同士の関係で、わかる子がわからない子に教えるというような仲間意識のある生徒集団をつくることが必要である。人にわからせてこそ、本当にわかっているということである。
 また荒れていく根本要因としては、貧困の問題がある。両親が2つも3つもパートを持って必死で子どもを育てている。両親が離婚したとか、親に捨てられて祖母に育てられているなどの、まるで敗戦後に似たような家庭の困難が多くの子どもたちを襲っている。勉強ができるかできないかも、塾に行くか行かないか、親が金があるか貧乏かが分かれ道になっている。大学は貧乏人の子ははじめから行けない。それは子どもにとってはどうすることもできないことである。
 そういう過酷な現状のなかでがんばっている子どもたちの心情に分け入って、かれらが困難に負けずに生きていく、そして生きる糧になるような心にふれるかかわりこそ教育者の役割がある。今暴れている子どもたちについて、学校では敵対的だが、生徒のなか、地域のなかでは別の評価がある。小さい子と遊んでやる、後輩たちをいじめるのでなく思いやる、などが語られている。それは自分がもうけさえすれば人はどうなってもいいというのではなく、貧乏に負けず、みんなが思いやり、協力し合っていくという働く者の特質である。
 当面の課題としては、排除した生徒たちを復学させること、そしてかれらと正面から向き合って、教師集団と親、地域が信頼を回復し、力を結集して学校を立て直す道に進むことである。「この学校の生徒はみんな仲間だ。一緒に卒業させよう」という趣旨で、生徒、教師、親、地域の信頼の絆を回復する運動をやることは、学校立て直しの大きな出発点になるだろう。

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