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<論壇>労働者は部品や機械でなく生きている人間だ  2008年11月17日付

 小泉ら自民党政府がアメリカのいいなりになって構造改革、輸出主導型経済といってきたもとで儲けに儲けてきたトヨタなど大企業が、世界的な需要後退になったとして、派遣労働者を真っ先にして大量の首切りを強行している。住居も追い出され、まさにテント生活に追いやられる労働者もいる。生きる糧を奪い取ってしまうのだ。働いて社会を支える労働者が生きていけない社会なのである。
 このような労働者の首切りは、在庫は持たない効率主義というトヨタの「カンバン方式」と同じ考えで、労働する人間を「過剰在庫」と一緒にして一掃しようというのだ。労働者は生きている人間であるが、もはや奴隷とか家畜のような生き物の域も超えて、生き物ではない部品や機械のようなモノと見なしているのである。これはトヨタのような企業だけではなく、自民党政府が労働法制の規制緩和といって、派遣法などを制定し、労働者のモノ扱いを保障してきたのである。
 万策尽き果てて行きづまった中小企業ではなくて世界のトヨタといわれるような毎年1兆円から2兆円もの利益を上げてきた大企業が、売れ行きが減って儲けが少なくなるというので、真っ先に労働者を切っている。トヨタによるGMの買収もありうるなどの話が出るほどであり、カネがなくて切るのではない。他にも、三菱UFJがモルガンに9000億円出資したり、日本の大企業の多くが国内外の企業を買収して事業拡大に乗り出している。麻生政府も、自分の国の労働者が生きていけないようにしながら、バクチですった金融機関に公的資金を投入したり、アメリカの国債を買い込んだり、IMFに10兆円を融資するなどといっている。日本にカネがないから労働者が生きていけないのではないのだ。労働者が生きていけなくてもアメリカ金融資本や日本の大企業が儲けていきさえすればよいというのだ。
 しかし労働者が生きていけないようにしてどうやって儲けていくのか。子どもでもわかるように、この社会がいくら資本主義だといっても、この社会を支え、発展させている原動力は生産活動であり、それを担う労働者である。巨大な資本を蓄積したトヨタといえども、それは労働者が労働をして生み出した富が蓄積したものである。株主あっての労働者ではなく、労働者あっての株主や経営者なのである。それは抽象的な理屈の問題ではなく、あるがままの実際がそうなのだ。
 資本が巨大なものになったのは、その昔の個人的な手工業生産ではなく、機械制大工業とそれに照応した何千、何万という労働者が、チームワークで協業する集団労働によるものである。だが近年、新自由主義、規制緩和という叫びの下で、企業の価値は株価が上がるかどうかが基準だなどといって、労働者はまるで厄介者であるかのような扱いがはびこってきた。賃金は成績主義賃金などといい、正社員や期間工、派遣、パート、アルバイトなどと身分わけして、労働者をバラバラに分断し競争させ、対立させることばかりに熱を上げてきた。
 そして生産現場で必要な労働者のチームワークを破壊し、技術の蓄積、継承をさせず、労働者が人間として必要な休息もとれないようにしてきた結果、自動車や電機製品などの欠陥商品の連続とか、JR宝塚線の列車脱線事故やブリヂストン工場の丸ごとの爆発事件といった大労災事故などが連続する羽目になっている。株主資本主義などといってカネばかりに目がくらんできた結果、自分らの存立の基盤である生産をまともに組織できなくなっているのである。労働者を奴隷扱いすることが、社会的な責任も放棄することとなっている。労働者を生きていけないようにすることは、アメリカや財界の頭目どもが、この社会の厄介者になっているという証しである。
 トヨタなどがいかに威張って労働者の首を切るといっても、切れるのは一部分だけであって、労働者全部がいなくなったら世界のトヨタも消えてなくなるほかはない。したがって労働者が団結するなら、トヨタ資本といえども労働者をモノ扱いなど出来ない関係である。労働者が企業全体で、また企業をこえた全産業的に、全地域的、全国的、さらに世界的に団結して、大資本とその政府の横暴とたたかって、労働者の生活を守るだけでなくよりよい社会にしていく力をいかに強いものにしていくか、そこに労働者の展望があり、この社会の展望がある。

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