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<論壇> 市政を市民の手に取り戻す市議選のたたかい  2006年6月23日付
 
 下関江島市政は安倍官房長官の代理市政であることを疑うものはいない。安倍氏が次期総理の有力候補といわれるが、地元である下関はそのモデル市政としてもっと注目を浴びざるをえない。全国の市町村が下関のようになると見なければならないからである。下関市政の現状はだれがほめたたえ、だれが嘆いているのか、来年1月の市議選は、その審判を問うことになる。
 「ゴミ袋を値下げさせる会」などがおこなった市民アンケートは、市民の切実な要求が書き込まれている。その第1は、市民生活の困窮が甚だしいものになっているということである。若者はまともな仕事がなく、親の世話にならなければ生活できないし、結婚などできず、子どもを育てることなど非常に困難なことを訴えている。手に技術を持った40〜50代も仕事がないし、あっても日当は半分近くになっている。老人は年金が下がったうえに税金、介護保険料などが引き上げられ、介護施設の負担は増え、病院からは追い出される。子どもも生活で精一杯で迷惑はかけられないし、餓死や孤独死が人ごとではないと語られている。
 婦人たちの意見は激しいものがある。夫の収入だけではやっていけずパートに出るが、そのうえに子どもの教育費などの負担は増えるばかりで、年寄りの介護の負担がかかるとまったくやっていけない。職がまともにないうえに、追い打ちをかけて保育料も教育費も医療費や介護料も上がり、社会保障がつぎつぎに切り捨てられる。
 そして、江島市政がやっていることは、人工島や博物館、文化会館の建てかえ、新市庁舎など、何百億円を投じたハコ物ばかり。いつもそうとうに抜き取っているとの官製談合の疑惑が上がるが屁のカッパの無法状態。しかも地元業者を排除して、ダンピング競争にたたき込み、中小業者はつぎつぎになぎ倒されている。水産業や鉄工、造船といった地元の産業は切って捨て、持ってくるのは大型店ばかりで地元商店街もやっていけない。市民の税金も市内に回すのではなくよそに流すことばかりわざとでもやる。市民が食っていけなくなることを選んでやっていると見るほかないという状態である。市政は市民の生活を守るためにあるという実感はすっかり遠のいてしまった。
 加えて、市民の声に耳を傾けるという形跡もすっかりなくなってしまった。市民がいくらいっても聞く耳がないという評判は定着するものとなった。選挙で選ばれた市議会は飼い犬のような状態で、すぐに威張り始めるばかり。地域票に依存して出世したつもりの者がおり、労組票を食いものにして威張る企業代表がおり、生活保護制度など市がばらまく金に依存して自分の票をかせぎ多数の市民の生活などどうでもよいというインチキなどがいる。そしてサンデン林派の番頭である小浜氏が議員を仕切るボスとして14年議長の椅子に居座り、林派の利権を確保している異様な状態。
 下関の選挙は、市民にいくら嫌われても、安倍事務所と林事務所に見こまれさえすればとおるというもので、市民のいうことなど聞かなくても市長がやれるというのが定説のようになってきた。「自由と民主主義」といってイラクや北朝鮮の制裁などというが、下関で実行されているのは民主主義などではなく安倍・林派独裁の専制政治そのものである。こうして地方自治体というが、市政というものがすっかり市民の手から取り上げられて、宇宙人のようなものが占領してしまい、植民地的な略奪がやられているという実感を市民みんなが受けている。
 アメリカ育ちの東大出である江島潔氏が10年ほど前に、反自民の票と自民党の票をかき集めるという、数値計算得意の市場原理主義的選挙テクニック、ありていには市民をだます詐欺師的選挙をやって市長になった。それにアメリカ一辺倒の安倍晋三氏、アメリカ留学で村上ファンドの友だちを自慢する林芳正氏などの若者政治家トリオが下関を牛耳ることになり、下関は最新の市場原理・規制改革の先行地となった。それは幕末の悪代官と悪徳商人が結託したような、またはフィリピンで追い出されたマルコス政治のような惨憺(たん)たるものであった。そしてホリエモンや村上ファンドが縄を受け小泉改革の化けの皮がはげるのに先行して、昨年の市長選では江島市長体制の瓦解をあらわすこととなった。
 来年の市議選へ向けて、市民の世論は渦巻いている。市民の要求は、市政を市民の手に取り戻す力を強めることである。この間の市民生活に立った要求を明らかにするとともに、市政のありようについて市民の論議を強め、議員の行動を点検することが求められている。
 落とすべきものは落とし、懲らしめるものは懲らしめ、そしてまともなものを送り出し、下関の抑圧構造に打撃を与えることである。

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