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産地直結配達方式に優位性
              下関 大型店に勝つ流通の形態    2010年9月29日付

 「産業保護、雇用確保が第一級の課題」「農漁村部と都市部を結びつけた戸別配達型の流通システムを」という本紙の提起は大きな反響を呼んでいる。農業者、漁業者のところでも婦人を中心に意欲的であり、旧市内の商店も「それなら大型店に勝てる」と一様に明るい顔つきになって大きな関心となっている。農漁業と消費者と商店の現状と、それを結びつける展望について、これまでの反響をもとに整理してみた。
 下関市内の農業の実情を見ると、市町村合併で県下一の農業地帯となったが、限界集落の出現や耕作放棄地の拡大など衰退の度合いは深刻である。農業の主力が70代、80代で後継者がおらず、コメづくりなどの農業技術の継承も断ち切られることが危惧されている。戦後の工業優先の政治、その上にアメリカ農産物の輸入増大で国内農業を破壊するという一貫した農業破壊政策の結果である。しかしこの現状をあきらめていたら、田や畑を荒らし、何よりも歴史を持ってきた農業技術が途絶え、農業がつぶれ日本がつぶれると、なんとしても農業を守り、後継者をつくる願いが強い。
 豊田町のある地域では、全部の農地を守ってつぎに伝える、耕作放棄地はひとつも出さないという気概で集落営農をおこない、農作業を集団化で担っている。だが、それにしても働き手の不足が悩みの種だ。豊北町でも人手がいないというのが一番問題になっており、耕作放棄地がめだつ。農地が荒れて借りる人もいない。集落営農にもとりくんだが、農作業を一部の人にまかせ、過疎化がいっそう進む原因にもなっている。
 若い者が残らなくなったのは、農業で生活ができないことが最大の問題である。コメの値段は輸入自由化後急激に下落した。それまでは1俵=60`で約2万円だったのが、今年の農協の前渡し金は1万円であり、半値になった。1俵2万円という米価は、かつがつ再生産ができる価格として決められていた。それが、輸入自由化で食管法が廃止されて市場原理が導入され、スーパーなどが「安ければいい」という基準で徹底的に買いたたいてきた。
 1俵1万円では再生産はできず、農家はコメをつくっても赤字である。農家はただ働きのボランティアで、機械代や農薬・肥料代を引いたら借金が残る。それでも水田を守りコメづくりをやめないのは、農業を絶やしてはいけない、国民の食料を生産しないわけにはいかないというものである。

 喜ばれる加工品の直販 農家も漁業者も

 農家の側も黙ってつぶされるわけにはいかないというのでさまざまな試みをしている。その一つは集団化であり、機械を集約して経費が少なくなり、農作業も集団化で効率的になる。それで以前は赤字だったのが、黒字になったという例もある。そして流通面の工夫である。生産した農産物を都市部の消費者に直接販売するという試みがおこなわれている。市場に出せば大型店やスーパーの買いたたきにあい、生産費もでない。このなかで、道の駅や100円市場に出したり、直販所を出したりしている。さらに農家の婦人たちが漬け物などに加工して付加価値をつけて道の駅などで販売している。
 北浦の漁業者のなかでも、とってきた魚をアジは開きにしたり、アナゴは湯引きにしたり、独特の味付けのフライにしたりして、夫人が豊浦町や菊川町を軽自動車で売って回り、喜ばれているという例もある。角島でも漁業婦人が、角島でとれるイカを細かく刻んでフライにしたら絶対に売れると自信を持って語っていた。
 旧市内では4、5年前から、住宅地の空き地に郡部からきた農家が野菜を並べて売ったり、スーパーが撤退した空き地に、トラックに野菜などを積んできたり、垢田の市営住宅でも野菜の露天販売のチラシをはっている。脱サラという人が農家から直接に仕入れたりして市内の何カ所かで野菜を売っている人もいる。朝のもぎたての野菜ということで、年輩者が集まって大人気になっている。
 ちなみに旧市内では、パン屋さんが軽自動車で回って市内で売っている例もある。商店が消費者のところに出向いて販売するという形態が確実に広がっている。
 農業者も漁業者も生産者の側は、消費者に直接届くことをみな切望している。それができれば様相を一変させるのだが、しかし流通をどうするか、消費者の要求とどう結びつけるかは、様子が分からず、単独ではできないことに頭を悩ませている。

 高齢者家庭への配達も 需要多様化する商店

 そこで商店の役割が重要だ。川中地区にある小さい魚屋は30年続いているが、「自分らの生き残り策は配達と商品の信頼度だ」といっている。高齢者が多く山坂ばかりだから、配達員を雇っている。「少少高くても老人は新鮮な物を食べたいし、メニューも工夫するし、それでつぶれずにおれる。近くにゆめシティもあるが、老人は買いには行かない」と話している。八百屋も「商店は配達でやらないといけない。野菜屋だが、年寄りがアジの開きを買ってきてとか、片栗粉置いてないかとかいわれ、置くものが増えていく。目の前に大きいスーパーがあるけど、流れがかわってきている」と話している。
 すでに多くの商店が、高齢者が多い下関ということで、配達をやっている。そういう商店が生き残っているという。そして労力はかかるが、消費者と直接に結びついて、配達をやって商売をしていく、新鮮で安心な農水産物をとどける。それは信用にもとづく商売だ。お客が喜んでくれるのが喜びだ。それに農業者、漁業者から直接仕入れをしてやる形になったら、大型店には絶対に負けないと口口に語っている。
 大型店の商法は、その地の消費者のことなど全然考えていない。売れば終わりの商法だ。そして毎日売れ残りをたくさん捨てている。捨てるものを上乗せして価格をつけているから実際は高いし、商店の方が安いのだという。
 商店の方も産地に直接仕入れに行くといっても、単独では難しさがあると語る。これも集団化が必要だと語られる。そこに橋渡しの機能が必要だと語られる。
 既存の大型店依存の流通ではなく産地と消費者を直接に結びつけた流通システムをつくる。ここに商店が介在し、みんなが協力しあってやっていく。農漁村が小売値に近い値段で売れるなら経営の様相は一変する。若い者が就業できる可能性が出てくる。農漁業者の後継者ができる可能性ができる。
 農漁業を絶やさないことで大きな問題は、歴史を重ねた技術を継承する者を早く配置しなければならないということがある。市役所の職員などで実家が農業は多いが、爺さんに指図されて手伝っている程度で、単独でコメ作りをやるにはかなりの修行がいるといわれている。漁業でも同じで、GPSがあるといっても最後は長年の勘が勝負といわれ、船に乗れば魚が捕れるというものではない。
 コメの直販体制は一つの突破口といえる。兼業の市職員などは、自分のところで作ったコメを同僚に売っているところもある。縁故関係で売っている農家は多い。コメ屋が農家から直接仕入れて、戸別配達の方式で地域に売りさばくなら生産者も消費者も商店も喜ぶ。スーパーのもうけが減るだけだ。市民の方は下関でとれたコメがよっぽど安心する。下関の人間が育ってきた同じ水と風土で育ったコメだ。スーパー経由の「ブランド米」より安心だ。「豊田町の○○さんが作ったコメ」などと明記してあれば信頼は抜群だ。直接に田んぼの見学に行こうかともなる。
 日本では「ご用聞き」とか「出前」とかの商業文化がある。小売店が大規模であれば強いわけではない。その価格支配力を誇示しているが、信用不在の欠陥があり、産地、消費者直結の戸別配達商業システムができるならその方の優位性は明らかだ。

 庶民向け作れば客増加 水産加工も転換の時

 下関の水産加工業も発想の転換が迫られている。下関の水産といえば「ふぐ」だが、全体に高級品志向が強い。ふぐの一夜干しやウニなど市民が日頃口にしないものが多い。みんな貧乏になっているのに、そっちの方に目がいっていない。都会の方では料亭が減ってふぐの需要が減っている。金持ちが高級魚を食べる需要と、貧乏な庶民が食卓で食べる需要は桁違いに庶民の方が大きい。もっと庶民の食卓にのぼるようなものをつくったら需要が拡大できるのは明らかだ。庶民がおいしく、安く食べられる水産加工品をつくる方が発展性がある。大不況の時代に合うようにすればまだ違う。
 唐戸市場なども市民の台所ではなく観光市場のようになり下関の魚屋は買いに行っても魚がそろっていないという。よそからの観光客や東京などの金持ちばかりに目がいくのではなく、下関の庶民が喜んで買うような方向に目を向けたら、全国にも広がる関係だろう。
 学校給食も地産地消を掲げているが、食材をすべて下関産の農水産物を使うように、行政がかかわればできる。給食に地産地消を拡大するというのは、大きな政治判断だが、食材の地元調達を計画的にやれば可能だ。角島保育園では、スーパーから持ってきた魚は子どもが残していたが、地元の魚にかえたら残さずに食べたという話がある。それほど違う。

 信用重視に本当の強み 大型店流通には弱点

 買い物難民が大量に出てくるところまできて、「大型店は便利だといわれてきたが、略奪商法だ」と市民のなかで論議が広がっている。大型店の商法には基本的な哲学の違いがある。基本が略奪であり、ヘッジファンドと同じく、自分がもうけるかどうかだけが基準であり、市民のことや社会のことにはまったく無関心である。「安いかどうか。もうかるかどうか」が第一であるのが大型店である。周辺の商店をなぎ倒しても「それは時代の流れだ」といい、農産物を安く買いたたいて農業が成り立たなくても、「わしらの方が支配権を持っているのだ」と横暴に振る舞う、まさに略奪者である。大型店は、資本主義の本来の信用取引からもはずれている。
 こうした大型店流通は「買いに来い。買いに行けない者は買えない」というもので不親切であり、郊外店など車を持っている者しか行けない。周辺の商店をなぎ倒し、もうからなくなればさっさと撤退していき、社会的な責任はなにもない。下関市を略奪し尽くして逃げていくようなものだ。行政は大型店に対して相当な規制をかける必要があるし、もうけにみあった社会貢献をさせるし、社会に利益還元させる必要がある。
 大型店は価格支配力を持つといって、生産者を買いたたき、消費者への責任や信用を得る姿勢はない。大型店があって、生産者も消費者もいるとみなしており、転倒している。そうではなく生産者がおり、消費者がいるから商業が成り立つのが現実である。大型店流通には大きな弱点がある。
 なお本紙の提起は、電器商など多くの業種の商店からも大きな反響を得ている。大型店と違って商店はお客との信用関係を大事にしていると強調している。電灯が消えたということでも飛んで行ってなおしてやる。自分が売った商品に責任を持つという考え方だ。そうでない商店はつぶれたと語っている。その上に、電器商がみんなで結束してメーカーから共同仕入れをできるようになったらよいのだがと語っている。
 農業がつぶされているのは、大きくは輸入自由化やWTO農業交渉での農産物の関税撤廃などに問題がある。そのうえに農産物の流通が大型店ルートになるために好き勝手に買いたたかれている。日本の農業を守るにはアメリカからの独立が根本的な問題である。しかしこの農業つぶしに対して、負けるわけにはいかない。農業の集団化や商店と協力しあって消費者と直接結びつける地域密着の流通システムをつくる、というのは生産者も消費者も商店も切望するものであり、実現する可能性は大きい。
 下関市の中尾市政は、150億円の駅前開発とか200億円の市庁舎建て替えとか、250億円の浄水場建て替えとか、下関を食いつぶすような事業をやっている場合ではない。農業や水産業をはじめ、造船、鉄工などの産業振興が大事であり、雇用確保に回すことが緊急課題である。

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