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腐敗・人殺しのメディアは追放せよ
 佐世保小6殺害事件の解決方向を語る   
                 求められる社会的な大運動      2004年6月24日付

                 人民教育同盟教師座談会
 長崎県佐世保市の小学6年女子が同じクラスの女子の頸動脈をカッターナイフで切って死亡させた事件は、各地で大きな衝撃と論議をまき起こしている。1989年に宮崎勤事件が明らかになって以降、青少年犯罪をめぐる凶悪事件はよりいっそう低年齢化してくり返されており、「なにが根本原因なのか、どう打開するかをつきつめないといけない」「もはや“学校が悪い”“親が悪い”と評論している段階ではない。教師と親が手をたずさえて行動を起こすべきだ」と、切実な問題として出されている。本紙は人民教育同盟に所属する山口県と福岡県の小・中学校教師に集まってもらい、なぜこうした事件が起こるのか、原因はなにか、打開する展望はどこにあるのかを、それぞれの学校の子どもの現状ともあわせて論議してもらった。
   
 「人ごととは思えない」 教師のなかで共通の実感
 司会 まず今回の佐世保の事件をめぐって、職場の教師や父母、子どもたちの受けとめから出してほしい。
  事件が起こったつぎの日が、担任している4年生の社会見学だった。今年の4年生は連日ケンカが絶えない。イスを振り上げてたたく、ものを投げてガラスを割るなど、ほんとうに見境のない錯乱状態に毎日だれかがなり、ひじょうに苦労している。社会見学の日はわりと順調にいったと思っていたら、最後にささいなことである男子が「おまえ殺すぞ」「死ね」と襲いかかって、そのあまりの怒号のすごさと子どもの血相に、大人の守衛さん2人が驚いて割って入らないといけない状態だった。
 帰ってからも片方がおさまらず、「もう1回やってやる」と待ち伏せしている。担任が双方を家まで連れて帰ってやっとおさまった。原因はというとささいなからかいあいで、片方が太っていて、「おまえ、野球部に入って運動場を3周走ったらバテる」という相手の言葉に、見境のない状態になった。そういうことが日常茶飯事なので、佐世保の事件が起こったとき、教師のあいだで「人ごとではない」「あしたうちで起こってもおかしくないよね」と話になった。
  小学校2年生を担任しているが、このたびの事件は「人ごと」とか「特殊」というとらえが教師のなかでまったくない。職員室で「たいへんなことが起こったね」という言葉から、自分がいま担任している目の前の子どもの実際とつなげて話が出る。自分が嫌なことをされても面とむかって嫌といえないで、「あいつが嫌なことをするから今度やっつけてやろうね」と友だちと約束をするなど、「根に持って、妙な感情がたまっていくんだと思う」と話になった。教師のなかでは「だれがこんなことになってもおかしくない。子どもたちがそこまで追いつめられている」というのが実感。
 ある母親と話になった。その母親の子は、事件が起こったときに「先生、イラク戦争より怖い。だって小学生よ」といってきた。今回の事件をたいへん身近に感じている。母親も、一生懸命にニュースを見ている子どもを見ながら、「子どもだからどんなにショックを受けているだろうと、ほっておけなくなって、優しい子になってねとか、友だちと仲よくしてねということを話すんですけどね」といわれていた。親も人ごとでない、子どもたちがどうなるのかという思いになっている。

 殺人もののテレビやゲームが深刻に影響
  うちの学校でも「あすはわが身。どこであってもおかしくない」という意見が出ていたし、「殺した方も殺された方も両方被害者だ」という話が出た。いまの社会のなかで、子どもが友だちの命まで奪ってしまう状況に追いやられている。大人も子どもも病んでいる。社会が健全でない。地域のお年寄りは「小泉からしてそうだ。議論をさせずに自分の思うことを全部ごり押しして強引にやっていく。一国の首相が」と怒っていた。
 まず、「表現の自由」といいながら、『バトル・ロワイアル』『リング』『着信アリ』などのホラー・殺人ものをたれ流し、まだ十分判断力が身につかない年齢からそれを見せる。また、たたかって殺してもボタンを押したら再生するようなゲームがあふれている。そういうもので子どもたちの脳がいかれてくるのではないか。こうしたパソコンの普及など商業主義の犠牲に子どもたちがなったのではという意見が出された。
 その一方で家庭・社会生活が文明化されて、火をつけられない子ども、刃物を使えない子どもが多くなった。広島に修学旅行に行ったとき被爆者の人が、「自分の指先を切って痛いという経験をしていない子は、相手を傷つけてはいけない限度もわからない。小さいときからの生活経験が不足し、人間としての機能が退化しているなかから、あのような殺人事件が起こるのではないか。それがパソコンの方に走るから、生活経験は稚拙だが頭でっかちになっているというアンバランスが、人を殺しても痛みがわからない人間をつくり出している」といわれた。
 最近の子どもを見ていると、相手の目を見て話すことを避ける傾向が強くなっている。ケンカするにしても、面とむかって相手の言葉、表情、感情をわかりながらケンカするのならそれはおたがいを成長させるが、このごろはそうでない。チャット(インターネット)の無機質な世界でのケンカが最近ひじょうにはやっている。核家族化のなかで、しからないといけないときにしかる、抱きしめないといけないときに抱きしめるという親子関係がなくなっている、テレビやゲームに子どもの守をさせるという状況がどの家庭にもあるのではないか、と論議になった。
   
 男子はゲーム、女子は化粧品 子どもの世界に危惧
  4年生を担任している。事件後、父兄懇談会があったが、親もすごくショックだといわれ、「いまの社会を考えないといけない」「子どもたちに大人が正しいことを示せない」という意見が出た。ある母親は、「殺人までにはいかないが、子どもがあるときずっと抑えていたものが爆発して、墨で友だちの服の背中に落書きをして、そのことで学校に呼ばれた。わが子ながらその気持ちがわからなかった。どう考えたらいいのか」という。そのお母さんは、娘たちが毎日パソコンを使ってなにかやっているが、なにをしているかわからないという。ほかの親に聞いても、高学年になるほどチャットとかメールが多いが、その中身はいっさいわからないと出された。
 男子はゲームとカードへの熱中がものすごい。男子間の金の貸し借りがあって、90円が700円ぐらいにふえている。そのなかには、「ついてきてくれたら100円やるっていったやろ」というのもふくまれ、それがすごく複雑になって根に持っている。女子はブランドものの服がはやっていて、1枚1万円もするシャツを持っている。ある親は「あまりにほしがるから買ったが、学校に着ていったら“真似しないで”といわれ仲間はずれになった。自分のグループならそれを着てもいいなど、あまりにひどいからやめさせた」という。服だけでなく、髪飾りやメモ帳など、女子的なものがかなりはやっている。
  小学校3年生担任だが、佐世保事件について、女の子同士のケンカや仲がよかったもの同士が突然仲が悪くなるとか、グループをつくって女の子同士がいがみあうというのは以前からあったが、しかし危害を加えるまでにはいかなかった、なぜそこの歯止めがなくなってしまったのかと話になった。
 子どもは大人の鏡だ。いまの大人の社会そのものが正しいことが通用しない。政治家にしても年金の問題をはじめ平気でウソをいう世の中。マスコミもこういう事件が起きるとすぐ「家庭が悪い」「学校が悪い」というけれども、おもしろければなんでもいい、視聴率さえあがればいいという番組を流しておいて、事件が起こると責任をなすりつける。この間まで「学力低下」と騒ぎ、今度は「持ち物検査」をすると騒いで、そのマスコミの犯罪性は大きいとみんながいっていた。
 最近の懇談会では、親自身も事件をとおして考えなおして、「子どもの世界を知らない」とか、「子どものマンガを見てみるととんでもない内容だった」「おとなしく部屋で過ごしているからいいかなと思っていたら、ゲームばかりしている」など、考えていかないといけないという意見がどんどん出た。うちの校区は3世代同居が多いが、結局家庭でもコミュニケーションの場がないといわれ、それを見直そうという意見も出た。
 事件の1週間後、あるお母さんから手紙がきた。「佐世保事件がショックだ。わが子もふくめて人の気持ちがわからないし、自分の気持ちをじょうずに表現することができない。作文指導をぜひつづけてもらいたい」という内容だった。国語でも以前は物語の読解に時間をかけ、ていねいに人の気持ちを探っていったが、指導要領でそれが削られ、パソコンを使ってガイドブックをつくろうというような内容に変わって、子どもの心が育っていかない。

 中学校の教師も知育の破壊に心を痛める
 F 中学校の教師のなかでは「小学校までいったか」「それでは中学校になったらどうなるか」と論議になっている。いまの子どもたちは相手の気持ちがわからないというより、相手が嫌がっているということがわかっていても、それをねじ伏せてでも自分の思うことをやる。だからそれが昔と違う。昔はまだよくいい聞かせたらわかっていたが、いまは話が済んだら「いうことはそれだけか」という。「教師が“体罰、体罰“とたたかれてちぢこまってきたら、こんなになってしまった」というのが、自分たちの反省とあわせて語られている。
 「“個性”とか“自由”といって、“子ども天下”で勝手気ままにさせていくのが一番いけない。それで知育が破壊されて、判断力のないバカがたくさんできている。これが子どもを動物のままで体だけ大きくさせているのではないか。感性がやられたら、やり返すというもので止まっていて、知恵をつけて理性に高めるというのがないので、がまんすることができない」と話になっている。
  佐世保の事件が起こったとき長周で「なぜ起きた小6女子殺害事件」という記事が出たので、同学年の教師で読み合わせをした。みんなが共感したのは、「幼稚園で自由保育、小学校で“興味・関心”教育――そのなかで自分の気にくわないことはやらなくていい、注意されても自分をふり返るのでなく相手を攻撃するというものがつくられている」という点だった。子どもたちは差別・選別の序列意識を小さいころから持っている。とかく自分のクラスが荒れると教師は自分の力量を責めるが、「自分1人の問題ではない。教師集団が団結し、親とほんとうに結びつかないと絶対に解決できない」という話になった。
  
 社会を反映した事件 どの事件もメディアが影響
 編集部 教師も親も共通して「自分のまわりでいつ起こってもおかしくない」という。また、携帯やインターネットの普及のなかで、「子どもがなにをしているかよくわからない」「なにか大人の知らない世界ができあがっている」と不安に思っている。子どもの安全のためにと思って携帯を持たせたら危険のもとになっていたとか、子どもがパソコンをじょうずに使いこなすから「わが子は賢い」と思って高価なパソコンを買ってやったらとんでもないことになったりしている。
 なぜ、人殺しをするような子どもができてきたのか、その原因を明確にして、それにたちむかうためにどうするかだ。それぞれの狭い範囲で個別で対応するのは限界だとだれもが感じている。資本主義の社会は昔から個人主義が基調だが、それが一線をこえてあれだけの残酷な殺人になるし、しかもたまたま起こったのではなく宮崎勤事件以来、神戸の酒鬼薔薇事件、池田小事件、昨年の長崎事件など連続している。子どもの思想形成には家庭、学校、社会がそれぞれ影響を与えるが、根本的には社会の腐敗の反映だ。自衛隊をイラクに人殺しに出したが、国内の自殺者は3万人をこえている。社会は弱肉強食の人殺しが横行している。それが子どもに反映している。同時にいずれの事件を見ても共通してテレビ、ビデオ、マンガ、それにインターネット、携帯などでたれ流されるエログロと暴力、殺人などメディアが影響している。子どもの世界でマスメディアの影響は、ここ10年余りでけた違いに大きくなっているのではないか。親や教師が知らない世界になっている。
  親がいうには、「テレビを見たら殺人事件と死体ばっかりが出てくる。水曜ミステリー、木曜ミステリーなどと食事の時間からずっとあって、人の死んだ顔が別になんともないような感じになっている。人殺しをあおっているようなものだ」と。親や教師もそれに慣れっこになって無抵抗になってしまっている、という。

 規制ない俗悪番組 子どもたちを食い物に
  5年生の女子で、ゲームとかテレビばっかりでほとんどしゃべらない子だが、機械がすごく好き。パソコンでインターネットもできるし、仲よくなった友だちとメールを送りあっていた。お祭りのときに天神様の写真を送ったり、「あした遊べる?」というやりとりもあったようだが、ある日その子の友だちの母親が相談に来て、「死ねとかぶっ殺すというすごい内容のメールが来た」という。猫の首をちょん切った絵も送られてきていた。おとなしい子で友だちも少なく、自分の思いがなかなか出せなかったりするなかで、「この子の好きな世界だから」ということで親は買い与えるが、子どもはそうなっていた。小さいうちから子どもが慣れ親しんできたので、親はいまさらとり上げられないということもあるようだ。もうその世界から離れられなくなって、ちょっと異常になっている。相当ばっさりとやらないかぎりは解決できない問題だと思う。
  A いま一番子どもに人気があるのが『トリビアの泉』という番組で、有名な人物や歴史上のできごとと関連させてその裏話を出し、「へぇボタン」でそのおもしろ度を競うもの。最初のうちは雑学と思ってうちの子といっしょに見ていたが、よく見るとまじめにやっていることを茶化してバカにする番組だとわかり、すぐにスイッチを切った。
 PTAの全国協議会がアンケートをとって「いま子どもたちに見せたくない番組」の一位が『ロンドンハーツ』だった。それはあるカップルにたいして、おとりの女性が色じかけでその男性に浮気をしかける。男がだらしないとどんどんはまる。その一部始終を隠しカメラで撮り、その汚い場面を見せて「人間というのはいかに人を平気で裏切るか」と笑いの種にする。最近また漫才ブームというが、それを見ても結局人の嫌がることをして、それを笑う。
 だからうちの学年の子どもたちも相手の嫌がることをやって平気、それで笑っている。そういうことでしかコミュニケーションがとれない。やられたものは嫌だから、それがもとで大ゲンカになる。いまのマスコミの犯罪性についてこれまでは見過ごしていたが、今回の佐世保事件を契機に相当のことがやられているなと憤りを感じる。
 編集部 下関の事例だが、産婦人科の先生が「妊娠中絶が小6から中1が多く、それから上の学年になると落ち着く」という。マンガもエログロがすごい。親が見て「これを小学生が見ているのか」といって驚いた。大人はたいがい知らない。子どもがその世界にはまっていることを知らないし、そういうマンガが出ていることも知らない。俗悪なものにたいする社会的な規制がなくなって、たれ流されっぱなしだ。

 携帯やインターネットでエログロの世界
  最近は小学生女子を対象にした化粧品がすごい勢いで広がっている。小学生対象の化粧品や服の雑誌がある。小学校の3年生か4年生の女子が、口紅をつけるわ眉毛をそるわ……。それでものすごくもうかっているという。
  5歳になる姪(めい)が家にときどきくるが、なにを欲しがるかというとマニキュアや口紅。そういうものが氾濫している。
  昔もお母さんの真似をして口紅をつけたりしていたが、いまは質が違う。まじめにやっているというか、自分を飾って男に媚びを売るためにやっている。
 C 昨年、小学6年生の女子が渋谷で軟禁された事件があったが、小学生相手のブティックができ、おしゃれで買い物に行くという。もっとひどいのは小学生相手のセックス産業で、低学年になればなるほど高く売れるというのであの子らが狙われた。4年生や5年生が20万か30万、高校生になったら値が下がる。
 D 女子が髪を切りたがらない。頭ジラミがはやっているので、教師は切れというが切らない。「切りません」「この長さにしておきたいです」という。髪を切れ、というと「体罰」といわれかねない。
 F 中学校の先生がいっていたが、近ごろはケーブルテレビで夜中の3時ごろからどぎついアダルトをやる。それを中学生が「きょうは何時からかなー」と話している。要するにもうかりさえすればなんでもありとなっているわけだが、これにたいする規制がこの10年余りなくなってきた。以前は全国PTA連合会が「悪書追放」「悪いテレビ番組の摘発」をやっていた。駅などにも「悪書追放」のポストがあった。しかし宮崎勤事件のあとあたりから、それがなくなった。PTAが文句をいおうものなら「うちの商売のじゃまをするな」と「営業の自由」をかかげてくる。
 いま「IT革命」といって携帯とかDVDなどが一番もうけの種になって、この分野だけが景気がいいという。景気がいいといって、たれ流している。しかも以前ならテレビは親も見ているから「こんなもの見るな」というが、いまは携帯やインターネットで親にはわからない。親が見ようと思ったらパッと消す。教師が「おまえ、携帯を見せてみろ」というと「プライバシーの侵害」といわれるので、それもちゅうちょする。これは絶対によくない。携帯は小学校六年で五、六割ぐらいが持っている。
 
 戦争阻止運動の要に 問われる教師の立場
 編集部 中国の天安門事件など、アメリカが「自由・民主・人権」の叫びを強めた90年代以降、たんなる社会の反映だけでなく、青少年を腐敗させることが意図的な政策としてやられている、メディアはそれぞれ商業第一だろうが、その政策で動いている。学校教育もそのころから、学校にあがるまえは「自由保育」、小学校からは「個性重視」「興味・関心第一」と大きく変わった。メディアの流す殺人や腐敗をやめさせる斗争にならない。それどころか「報道の自由」「表現の自由」「プライバシー」や「人権」といって抑えつける。
 F 90年代はじめからの「校則見直し」で学校の秩序はがたがたになった。マスコミが「体罰反対」と騒ぎ、教師は子どもがまちがったことをしてもきびしくしかれない。ここに現場の教師は腹を立てているし、なんとかしないといけないと考えている。「国語の文学教材で人の生活や気持ちなどをつかませたらどうか」と国語の若い教師にいうと、「そんなことをしたら価値観を押しつけることになるから、できない」という。読んで感想をいったら終わり。道徳教育も結論を押しつけたらいけない、といわない。いったいなんのための道徳かと思う。子どもに居残りをさせて本気で教えようと思ったら、居残りも体罰になる。
  懇談会で、『クレヨンしんちゃん』より親が見せたくないといっていた、「ところてんのすけ」というアニメがある。そのアニメはくだらないけど、子どもが夢中になっていて、ある子が「ところてんのすけ」とからかわれるのがいやで大ゲンカをはじめたことがあった。それで懇談会で「見せないようにしましょう」と話したのだが、あとになってある子が「“見せないというところまで決めるなんておかしいね”とお母さんがいっていたよ」と勝ち誇ったようにいい、それに負けてしまった。悪いものを子どもからとりあげることができにくい。

 90年代以降強まった抑圧
 編集部 そのへんの抑圧がある。「表現の自由」とか「プライバシーの侵害」というイデオロギーが障害になっている。
  水泳着も派手なものを止められない。学校にはランドセルでなくてもなんでも好きなカバンでいいとか、名札をつけなくていいとか。それを指導するときには勇気がいる。子どもが主張するとひっこめたりして、バシッといけない。
 司会 『バトル・ロワイアル』のような映画は、以前なら社会的にそうとうな批判があったはずだ。中学生同士が殺しあい、血が流れ、首が飛んだりするのだから。それが製作者である東映も、映画を審査した映倫も、とりしまる側の警察も「表現の自由」という。また「社民党の議員は反戦映画だと積極的に支持されました」という。
 D メディアになぜ反対しないのだろうか、と傍観者的に思っていたが、そうじゃないということか。親も不健全なものを批判したい気持ちがずっと抑圧されてきているし、教師は教師でずっと抑圧されている。なにもいえなくさせる意図的な政策が90年代以降強まっているということだ。
 「表現の自由」というが、子どもたちに親の仕事を作文に書かせるときは足踏みをした。それを作文にして子どもたちに発表させることに「プライバシーといわれないか」とちゅうちょしたし、ほかの先生も「子どもの成長のためにいいので書かせたいけど、書かせられない」という。実際の生活はぜんぜん自由じゃない。子どもに作文を書かせる自由も教師にはないと思う。
 編集部 「自由」といって自由でなくなっている。今度の佐世保の事件を見ても、ある個人の「金もうけの自由」、そのために「人殺しをあおる映画をつくる自由」はあっても、そのために大多数の子どもはいつ殺されるかもしれない不自由のもとにおかれているし、殺された少女はその「自由」のために、実際に生存の自由を奪われた。殺した少女も保護され自由ではない。この「表現の自由」とか「プライバシー」「人権尊重」は大インチキだ。「興味関心の自由」で人殺しまでいって保護された。国家権力というものが、商業メディアや学校教育をつうじて、思想動員をし、戦争という殺しあいに動員することにたいして、大多数の人人と団結して平和を実現するというのがほんとうの自由だ。
 F 今度の問題では、県段階でも市町村段階でもPTA組織はものすごく本気で動いている。これまでの「学校の先生が悪い」「親が悪い」では解決しない、先生といっしょによく話をしてなんとかしたいという意識が、ここ最近ものすごく出ている。
 C 広島への修学旅行のとりくみのなかで、親は子どもたちに期待している。「いま自分たちが知識だけで教えるものよりも、戦争の生きるか死ぬか、ぎりぎりのところを生きてきた人の話を聞くことで、子どもたちは実生活を変えている。そこが今後の教育の展望になるのではないか」という意見が寄せられた。子どもたちが被爆者の話を聞いて自分の生活をふり返り、自分たちはどう生きるのか、命をどうたいせつにするのか、人と人との関係をどうつくっていくのかと考えるいい機会になっていると喜ばれている。
 義務教育費国庫負担制度廃止に反対する署名を地域に入って集めたが、ぼくらが自分たちの待遇の問題でなく、教育の機会均等を守り子どもに豊かな教育をと訴えかけていくことで支持があった。メディアの問題でも、親や地域と力を合わせて運動がつくれるのではないかと思っている。
  原爆展や修学旅行での被爆者、戦争体験者の話は圧倒的に支持される。もう一方でそういう基盤があると思う。学校、家庭、地域の教育機能が昔と比べて崩壊し、そこにメディアが直接襲いかかっている。こうしたなかで、学校のなかだけ、個別家庭のなかだけではとても対応できない。親、祖父母や地域の人人と教師が結びついて社会的な規模での教育運動をやるほかはない。

 狭い対症療法では歯立たぬ
 編集部 意図的な腐敗政策というのは、労働する親、祖父母、地域の人人をバカにし、階級的・人民的なモラルを破壊することが目的だ。人と人との関係、どの程度なぐったら相手はどうなるかをふくめ、実体験にもとづく人民的なモラルを破壊して、バーチャルな人殺しをつくっていく。そのような腐敗メディアを追放して、対置するものとして人民的なモラルを強めることだ。つまり被爆者が子どもたちに一生懸命語っているような親や先輩への尊敬、仲間同士の友情、困難に負けず平和な社会をつくるために奮斗する精神を、子どもたちのなかに育てなければならない。
 「個人の自由」は大多数のものの不自由となるインチキだ。社会が戦争にむかっていくときに「個人の自由」というのは、自分を守るために人殺しに転化していく。それは社会の危機のなかで戦争にむかっていく凶暴な排外主義イデオロギーだ。「個人の自由」でなく人民みんなの自由、階級社会の権力がむりやりに戦争にもっていこうとすることにたいする戦争を防ぐという大きな自由のためにたたかうというのでなければならない。
 戦争体験世代は「このままでは日本が滅びる」と憂い、佐世保事件を日本社会の根幹にかかわるものとして考えている。教師がいまの子どもを育てるとき、それは狭い教室の枠内でのばんそうこうはりのような対症療法では歯が立たないし、もう一段スケール大きく日本をどうするか、平和で豊かな日本をつくる子どもをどう育てるかを基本に、戦争に反対するという立場に立つことではないか。その全社会的な運動のカナメに教師集団がいる。
 F 米ソ2極構造崩壊後、金もうけ一本槍、弱肉強食一本槍が強まり、資本主義の危機からものすごく凶暴になって直接子どもに襲いかかっている。社会全体がそうなっている。しかしマスコミはごまかそうとするが、世論は大きく変わっている。なぜそうなっているかを明確にして、それに挑もうという大論議を起こしていくチャンスだと思う。
 司会 それではきょうはこのへんで。

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