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生活再建のメド立たぬ宮城沿岸
職・家・船ないままで3カ月
              石巻漁港は電気・水道来ず     2011年6月6日付

 東日本大震災で宮城、岩手、福島など東北の太平洋側沿岸が壊滅に追いこまれ、復興のメドすら立たない状態が続いている。多くが漁業を基幹産業とした沿岸であるが、津波に地域が丸ごと押し流されて住む場所もなく、生活再建の足がかりもない状態のまま、3カ月が経過しようとしている。避難所暮らしを続け、生活の糧である漁業復興への国や行政の対応が見えないことに、とりわけ被害が甚大だった沿岸では苛立ちが募っている。
 
 仮設住宅も入れず 食料支援打ちきられ光熱費は自己負担

 全市が津波にのまれた宮城県石巻市では、とくに海岸沿いの平地は道路が確保された程度で、電気、水道もなく、建築規制がかかっているために住宅にも手がつけられない状態が続いている。石巻漁港周辺には人通りも少なく、自衛隊が更地にする作業を実施しているのみ。
 バイクで様子を見に来ていた50代の男性は、「女房が行方不明になったまま。車も3台流されて何もかも失った。はじめは避難所で生活していたが、いまは自宅の使える2階で生活している」といった。「石巻は日本製紙と漁業で成り立ってきた街だ。日本製紙が操業再開を目指すと発表したことが、どんなにみんなをホッとさせたことか。問題は漁業がまったく復旧の兆しが見えないことだ。市場も6月に再開を目指すといっているが、地盤沈下して市場の屋根もなにもない状態で放置しているのに、とても再開にこぎつけるとは思えない。製氷や加工場、輸送会社、発泡など関連企業がみんな壊滅してしまった。再び資本を費やして復旧するのは少少ではない」と語っていた。
 漁港の後背地には、広大な水産関連企業の団地が形成されている。そこで働いていた市民も多く、漁師だけでなく水産業に従事していた住民が多かった。別の石巻住民の男性は「東洋一の漁港といわれた石巻が、まさかこんなになるとは思っていなかった」と漁港市場を指しながら、以前の活況を思い起こして語っていた。「仕事がない状態のまま見捨てられているような状況だ。まだ仕事があれば生計の見込みができて安心できるが、それすらない。いったいどうなるのだろうか…という不安しかない。資本参入を促すというが、ヨーイドンの時点で資本力が違うのだから、大手が勝るのはわかりきった話だ。そういうことではなく、元に戻してほしい。みんなに金がないのはわかっているのだから、国が見るしかない。国会を見ていると腹が立って仕方ない。国会議員をみんな石巻に連れてきて、この有様を見せてやりたい。あと、建築規制をするから、撤去して新築にすることもできなければ、補修をしていいものかもわからず、ちゃんとした説明がないので、みんなが困惑している。3カ月もたっているのに、なにも動かないのだ」と思いをぶつけた。
 別の住民は「よそに引っ越して暮らすといってもお金がない。銀行でおろせる金額も10万円で、どうしろというのか。いつまでこんな生活が続くのか先が見えない。避難所からプレハブ住宅に移ると、食料支援も打ち止めになって光熱費なども払わないといけなくなるといって、抽選に当選したのに辞退する人たちも出てきている。働き口がないのに、自助努力でどうにかしろという対応で、家族も失ってキツイところに追い打ちをかけられるのだ」と様子を語った。そして「復興会議も国会も、石巻や被災地を見ずに東京で都合の良いことばかり決めている。故郷から私らを追い出そうとしているとしか思えない」といった。
 漁港は市場の競り場があった場所は大きく沈下し、満潮になると音を立てて海流が流れ、隆起したり崩れた岸壁は、地震がくればいつ海側に崩れ落ちてもおかしくない状態のまま。人気がほとんどなく、大量の海猫の鳴き声ばかりが響いていた。「電気、水道もないのに氷の機械を持ってきても動かず、氷を積まなければ石巻の漁業は動きようがない。ジッとしていてもダメなので、塩釜に水揚げする格好で操業だけは始めたが、マグロやカツオを相手にしている塩釜の機能は、こっちのサンマやイワシなど相手にしてきた漁業とは勝手が違う。元に戻ることを願うばかりだ」と沖合底引き船(120d)の船頭は語っていた。

 牡蠣養殖の施設が全壊 松島町でも放置状態

 塩釜港に近い隣接の松島町磯崎では、松島湾で営んでいた牡蠣養殖の施設が全壊したため、漁業者らは総出で自力復旧に追われていた。港には山から切り出した4〜5bほどもある竹が山ほど並べられ、それを船外機エンジン付きの小舟に乗せられるだけ乗せて漁場に運び、埋め込む作業を繰り返していた。「棚」と呼ばれる養殖施設を再び一から作り直す作業だ。
 牡蠣養殖をメインにしているためか2〜3dクラスの比較的小さな漁船が多く、浜につながれているのはほとんどが船外機エンジン付きの船。約240隻あったうち七割が転覆したり津波で流されて使い物にならなくなったという。頑丈なロープで係船柱に固定した船ほど、波の力に引っ張られながらコンクリート岸壁から離れられずに転覆し、細いロープでつないでいた船は縄がプツンと切れたおかげで海を漂流して助かったことについて、漁師たちは「皮肉な結果だ…」と語っていた。
 漁港は沈下して、満ち潮になると海面が地面から人の腰の高さくらいまで上昇する。70代の古老の漁師は「みんなが作業を終えて漁港から出た晩に、ワシはいつも港の入り口の鉄扉を閉めている。でないと住宅まで潮がきて浸かってしまうからだ。秋口はもっと潮が高くなるので、それまでにはなんとかしなければ大変なことになる。ところが3カ月もたっているのに、壊れたり沈んでいる漁港をどうするのか行政の対応がはっきりしない」といった。
 そして「うちの(宮城)県知事だけがなぜ、漁業者のやる気に水を差すようなことばかりいうのかと、みんなが苛立っている。復興計画で“漁港の集約”というが、小さな漁港を見殺しにするという真意は誰の目にもわかることだ。漁業権の民間開放というのも勝手な主張で、そんな机上の空論が通るわけがない。漁業権は浜と一体のものだし、八時出勤の五時帰宅をするサラリーマンになったら漁師ではない」といった。
 別のベテラン牡蠣漁師の男性は、養殖用、遊漁用など3隻所有しているうちの1隻が沈み、高額な船外機が壊れたことを語り、「3カ月が経過しているのに、これまで納めてきた漁船保険がどう適用されるのかすら判然としない。なぜ放置したままにするのだろうか。叶わない願望だとわかっているが、操縦に失敗して痛めたわけでもないし、全額みてもらいたい思いがある。牡蠣の養殖施設の代金だけでもバカにならないのだから」といった。そして、漁船を失った仲間の漁師が宮城県漁協に近代化資金の融資を申請したところ、「200万円の水揚げがない人には貸せない」と断られたことを明かし、船を得るためのメドすらないこと、「こんなときに頼りにならないのであれば、何のための信用事業で、信連や農林中金は誰のためにある金融機関なのだろうか」と語っていた。
 浦戸諸島や松島湾内の浜では、4大港と違って地先に根付いた牡蠣養殖やノリ養殖が発達してきた。昨年のチリ沖地震でも養殖施設が津波でやられ、2年連続で被害に見舞われた。みなが心配しているのは、昨年の経験では激甚災害の補償が効いた人と、そうでない人が出たことだった。漁場が限られているため、磯崎地区の漁業者が浦戸地区の地先漁業権を借りて養殖したり、慣例のような形で海を相互に融通して利用する形態があった。「地先権外」のものについては「法律で認められていない」として激甚災害の対象に含まれず、すべて自力復興でまかなわれた経緯がある。100%地先権外の漁場で養殖していたという男性は「昨年は3分の1がやられて65万円の出費だった。頭を抱えているんだ」と小さな声で事情を説明した。

 国の対応に渦巻く怒り 塩釜

 石巻、気仙沼、塩釜、女川の4大港といわれる港のなかで、もっとも100万都市に近い塩釜漁港は、他と比べて被害が小規模に済んだことから、4月にはマグロの水揚げを再開。復興にむけて着着と歩を前に進めてきた。市場は津波によって2bほど水没し、地震で周辺の道路や漁港には地盤が隆起したところや亀裂が目立つ。通行止めの道路もある。しかし「前に前に進まないと、明日は来ない」と仲卸や市場関係者、漁業者たちは積極的に水産業復活を目指してきた。
 塩釜は本マグロの水揚げ量が全国有数の港で、大分、宮崎、高知、山口など各地のマグロ漁船が寄港して水揚げしていく。仲卸の一人は「復興は働かないと実現しない。だから自分のできることを精一杯やろうとみんなが努力しているところだ。失ったものが返ってこないなら、つくっていくしかない。それにしても、国会の政治家たちはなにをしているんだ。復興を急がないといけないときにお遊びのような茶番ばかり見せつけられて、みんなが頭にきているんだ。国がしっかりすればもっと早く復興できるのに」といった。
 津波で会社をやられたという別の仲卸は「これが今の俺の全財産だ」と看板一つを指さして、復活を目指す意気込みについて語っていた。行政や上から復興施策がなかなか動かない。しかし自力でみんなが奮斗してきたこと、必ず元に戻すのだという強い思いが支えになってきたことを話した。「石巻や気仙沼に比べたら、塩釜は被害が少ない。あっちがどうなるのかが宮城県の漁業全体のことを考えたら心配なことだ。友人たちも何人も亡くなった」といった。
 沿岸で本紙の「意図的な住民離散、土地接収 東日本大震災復興巡る二つの道」(第7124号、記者座談会)紙面を読んだ人人のなかでは、米国金融資本などが「ショック・ドクトリン」といって大規模震災などを大資本の市場支配を図るチャンスにしてきたことが、いまの東北の置かれた現状と重なること、「さもありなん」という実感が広がっている。石巻の被災住民の婦人は、国道沿いのファッションセンターしまむらや牛丼の吉野家、すき屋、ジョイフルやガストといった外来資本のファミリーレストランや店ほど早く復旧して開店している実情を語り、「同じことなのではないか。食堂を経営していたが、私は自力復興はあきらめた。資本がない者とある者の違いをいまでも見せつけられている」と話していた。


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