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生産者の奮斗で回復する水産業
本紙東北現地取材
            進まぬ生活再建との矛盾   2016年3月11日付

 東日本大震災から5年が経過した。これまでの期間を国は「集中復興期間」とし、約26兆円の財源を投じてきた。津波による甚大な被害を被った宮城県では、いまだに浸水地域の多くが災害危険区域に指定され、居住施設の建築を制限する規制が敷かれたまま、住民たちは仮設暮らしを余儀なくされ、復興住宅や防災移転住宅などへの転居を迫られている。本紙は福島県に続いて、津波被害が甚大だった宮城県で現地取材をおこなった。基幹産業である水産業が震災から五年を経てどのような状況にあるのか、現地の漁業者、水産加工業者や行政関係者に話を聞いた。
 
 5年経った宮城県の姿 建築規制が阻む浸水地への帰還

 石巻漁港周辺は現在石巻魚市場を筆頭に、立派な水産加工施設が一帯に建ち並んでいる。その周辺のほとんどの道路で舗装工事が施され、砂利の道路の舗装工事も残りわずかとなっている。
 宮城県内沿岸部では、操業再開を望んだ漁師に対する漁船や漁具などハード面での設備の復旧は100%に近い水準にまで達し、震災から5年まで来て水揚げができる体制がおおよそ整った状態だ。このなかでも石巻市は市場や護岸工事をはじめ、水産加工団地の形成やその他の復旧工事など設備の復旧が集中的におこなわれ、同じ宮城県内の気仙沼や女川などと比較しても復旧は早い。
 石巻魚市場では平成27年の売上金額が年間約180億円まで回復し、震災前の売上金額に対しほぼ100%の水準まで戻っている。水揚げ量は年間約10万3000dと、震災前の平成22年の水揚げ量約12万8000dに対して80%ほどの回復となっている。漁業者に対する設備面での復旧が進むにつれ、水揚げ量や売上金も比例して増加してきた。
 だが、現在の水揚げ量と震災前の水揚げ量は、依然として約2万5000dの開きがある。「売上金額が戻ることも大切だが、それよりも水揚げ量を見ないといけない。市場での水揚げがあって初めてその後に連なる第2、第3次産業も成り立つ。この差は小さくない」と語られていた。石巻魚市場の関係者は「依然として福島沖での底引き漁が操業再開できていないことによる影響が大きい」と語る。もともと福島の漁師の漁船自体は小型で沿岸での漁業を中心に担い、福島沖の海域では大型船を所有している宮城県の漁師たちが底引き網漁を営んできた。マダラなどの好漁場である福島沖での操業の早期再開を望む漁業者も少なくない。
 津波によって漁船や住居など全てが流され、漁業を再開する見通しも立たないなか、漁協は組合員への貸付金を回収する見込みもなく、宮城県漁協の欠損金は27億円まで膨らんだ。県漁協役員の男性は「27億円の欠損金は“平成32年までの10年間でなんとかしよう”という話になった。その後、国からの補助事業により早い段階で漁船ができ、他県の漁協からの支援、多くのボランティアの人人による援助のおかげで漁に出られる体制が予想よりもはるかに早く確立された。そこからの漁業者の頑張りはすさまじかった」と語る。宮城県漁協では平成26年当初で約11億円まで減らしていた欠損金を、その年の運営で約14億円の利益を出し、当初の平成32年という目安よりも大幅に早く約3億円の黒字経営へと盛り返している。漁業者自らが水揚げを再開し、生産を営むなかで欠損金を穴埋めしていける状態になり、「水揚げを増やさなければ本当の復興はできない」と生活環境も満足に整わないなか必死の努力を続けてきたことが、漁協運営回復の大きな要因になった。
 震災から5年を経て、漁師に対する設備面での復旧が行き届き、宮城県海域での操業規制も現在は全てとり払われた。漁獲規制も残るはクロダイ一種を残すのみとなり、世界3大漁場と呼ばれる三陸沿岸でとれる多種多様な魚種をさまざまな漁法を駆使して水揚げできる基盤も整った。福島原発事故で一時期はベクレルショックによる風評被害もあったが、震災以降4年半のあいだ、石巻魚市場では約2万検体もの検査をおこなってきたなかで99%の検体で放射性物質は検出されておらず、残りの1%から検出されたとしても十数%で、50ベクレルをこえたことはない。漁業者の男性は「いつまでも“被災者”では前に進まない。石巻は町全体が水産業で成り立っている。もう放射能の話はいいから、とにかく操業して頑張って水揚げするしか先は見えてこない」と思いを語った。

 水産加工業の実情 大きくなりすぎた設備

 水揚げ自体は回復してきた。その後に続く水産加工業者の状況はどうなっているのか。水産加工業者は震災後、「グループ補助金」という国の補助率4分の3や8分の7といった手厚い補助のもとで、震災前の施設設備よりも2倍、3倍に工場を巨大化した業者が少なくない。そのため、水産加工業界では現在、社屋も設備も震災前よりも大きくなった工場の稼働率を上げるために、震災前の水揚げ量には八割しか追いついていない市場の魚を業者が奪いあう格好となり、市場での価格が高騰していることが問題となっている。
 水産加工業者は、これまでの5年間は魚を仕入れて加工し出荷するなかで生み出す利益に加え、国からの補助金、工場の資材や社屋にかかる保険金、原発事故による東電からの賠償金などの収入によって経営を成り立たせてきた。石巻で水産加工会社を経営する男性は「水揚げ量に対して加工業者の設備や需要が大きくなりすぎた。そのために今は市場での買値はつり上がるが、スーパーへの売値は変わらない状況。本来の加工業だけでもうけを出している企業は1%ほどしかないと思う。同業者同士で身を削りあっている状況だ。これからの5年間では補助金の返済も視野に入れた経営も考えないといけない。加工場も大きくなっているため、維持管理費もこれまで以上に必要になる。これからは本来の水産物加工によるもうけだけでは持ちこたえられなくなる企業が出てくると思う」と危惧していた。
 また、震災によって休業を余儀なくされた加工会社はその間に販路を失った。被災地の加工場が復旧できたからといって簡単に戻ってこないのも現実だ。石巻漁港の水産加工業者は「一度離れたスーパーなどの売り先は、完全に戻すのは難しい。以前取引していたスーパーなどの加工品販売会社は、うちが工場で生産できない間によその水産加工業者に無理をいって新たな関係を結んでいる。そのため“工場が直ったのでこれからはまた震災前と同じように私の会社と取引してください”というわけにはいかない。頼み込んで再び契約できた場合でも、震災以前の納める量の何割かしか取引できない。取引件数は震災前まで戻りつつあるが、出荷の量からいうとまだまだなのが現状だ」と語った。

 高台に移転した漁師 浜の結束の喪失を危惧

 漁師の水揚げによる経営回復が進み、漁ができる体制は整ったが、これから先の復興を考えたとき、現地では新たな矛盾も起きている。話を聞く漁師や水産加工会社、市場関係者などの多くの人人の口から「生業」「コミュニティ」という言葉が多く出されていた。
 これまでは各浜に漁協があり、漁師の自宅もその周辺にあった。漁師たちが寄りあい、日常的に話しあえるコミュニティの拠点があり、地先の海で組合員みなが漁業をおこなっていくうえでの結束が自然と生まれ、そのなかで地域の皆が“生業”を営んできた。
 だが、現在宮城県では津波による浸水地域のほとんどが「災害危険区域」に指定され、一部の例外を除き建築規制が敷かれており、居住施設の建設は一切禁止されている。漁師たちは石巻市内や高台の仮設住宅、遠くは仙台市内へと移り住むことを余儀なくされ、そこからもともと自分が所属していた浜まで毎日通いながら漁業をおこなっている。
 県漁協役員の男性は「震災以降、宮城県内の各浜に住んでいた住民は離れた仮設や高台に移転した。もともと住んでいた地域に残っている組合員は平均して3割ほどで、1割しか残っていない浜もある。よその地区へ移り住み、もともと漁業をおこなっていた浜へ通って漁業をおこなう漁師からすると、かつて住んでいた漁村が、ただの仕事場になりかねない。同じ浜の漁師たちの関わりが希薄になり、コミュニティ、結束を喪失しかねない。昔から、“もめる浜に漁はない”といわれてきたが、今の各浜の状況なら漁師同士のいざこざが増えることも懸念される。そうなれば震災の被害よりももっと痛手になる。漁協として関わっていくうえで、どう生業をなりたたせていくかが今後最大の課題になる」と語っていた。
 また、現在の宮城県全体の漁業経営体数は震災前に比べ、5年間で37%も減少している。このなかには、もともと所属していた浜から遠く離れた仮設住宅へ移り住むしかなく、そこから通って漁業を再開させることが負担となり、再開をあきらめたり続かなかった漁業者も少なくない。
 現在各地で進行している防災集団移転事業(高台移転)において、今住んでいる仮設住宅からの帰還を希望する住民の割合が多いのは、もともと漁業者が多く住んでいた漁港地域だ。自身が所属する浜の近くに住み、その浜で漁をおこなうことが、漁師が生業を形成するにあたっていかに重要であるかを示している。

 「創造的復興」の矛盾 地元生産者の実情無視

 宮城県では震災後、「創造的復興」の名のもとに、「単なる復旧ではない。未来に向けた“改新”“新産業文明”」などの謳い文句で国、県主導の「復興」が進められてきた。その象徴が石巻魚市場で、総事業費193億円。高度衛生化で四方を壁で囲い、空調も完備し、「将来的にはHACCP対応、欧米への輸出」も視野に入れたものとなっている。その他にも、村井県知事が震災のわずか2カ月後に打ち出した「水産復興特区」などの事業に大金が注ぎ込まれてきた。
 生産者たちはどのように見ているのか。ワカメやホヤなどの養殖モノの加工をおこなう業者の男性は、「石巻の市場に大金をつぎ込んだが、本当にあれほど巨大な施設が必要だったのかと思う。水揚量が世界一なら分かるが、“世界一”なのは施設だけ。高度衛生といいながら、競りのたびにゲートの間からはカモメが何匹も入り、出られなくなって飛び回っている。漁業者も加工業者も“水揚げが増えなければ未来はない”といっているのにまったく地元の生産者の実態に目を向けていない。市場を見るたびに歯がゆい思いがしてならない」と語っていた。
 そして、現在は韓国が青森、岩手、宮城、福島、茨木、栃木、群馬、千葉の八県の全ての水産物の輸入を禁止し、中国が10県、台湾も五県からの水産物の輸入を禁止している実情に触れた。「ホヤは韓国への輸出が全体の八割を占めていた。輸入規制が相当な痛手になっている。反対にワカメなどは国内で流通するもののほとんどが中国産の輸入品に押されている。漁師も加工業者も、みな震災後は国からの手厚い補助金があった。確かにありがたいものだったが、結局はそれっきり。投げっぱなしの復興だ。本当に“復興”というなら、巨大な市場をつくったり補助金を出すだけではなく、海外の輸入規制の解除に本気でとりくむことの方が現場からは求められている」と語った。
 宮城県内でも石巻は比較的復興がスムーズに進んだ地域と見なされている。しかし同じ市内であっても状況は千差万別で、中心部から外れた僻地は置き去りにされている。牡鹿半島の漁業関係者は、「牡鹿半島の多くの地域では震災前から過疎化、高齢化が進んできた。震災後、漁村や集落の復興をするというとき、行政がいう“公平”な政策とは復興事業を担う土木建築業者の入札への“公平”であった。復旧工事にあたる業者はみな交通事情もよく、輸送コストのかからない市街地や大型の漁港の復旧工事へと集中し、過疎地や小規模な漁港の復旧はおのずと後回しになり、入札不調が複数回続くなど業者が付きにくく、ただでさえ復旧工事は遅れてきた。震災後1、2年までなら津波のショックで防潮堤も必要という意見も地域にはあったが、今になってみると建築規制で家も建てられない町に防潮堤をつくって何を守るのかと疑問に感じる。“どこを見て復興しているのか”といいたくなる。5年経ってみな疲弊しているし、意見をまとめるような場も持てない状況だ。“5年経った今になって声をあげて事業をまたゼロに戻すくらいなら、何もいわずに従うしか目に見えた早期復旧は望めないのではないか”という意識にもつながっている」と危惧していた。
 震災から5年が経ち、目立っているのは巨大なハコモノ事業ばかりである。それがメディアに大きく取り上げられて、一般的に“復興”したのだと強い印象を全国に与えている。しかし、その“復興”は被災地の人間そのものにどれだけ向いていたのか、考えさせるものとなっている。生活再建が進まない問題について、引き続き取材を進めた。

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