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生徒の反乱で打つ手ない中学校
なぜ年年荒れがひどくなるのか
             残酷な自由人権教育の破産   2010年6月23日付

 下関の中学校で16日、教師が生徒になぐられたといって8台ものパトカーが学校に集結し2、30人の警官が踏み込んだことに地元の住民が驚いている。昨年は市内では生徒を連続して逮捕する事件があったが、子どもの荒れはなくなるどころか逆に年年拡大している。この中学校では40人以上の生徒がグループをなして暴れるという学校崩壊状況になっている。そしてこの事態を市内のどの中学校も他人事とは思っていない。今の学校はいったいどうなっているのか、教育を立て直すにはどうすればいいのか、記者座談会をもって論議してみた。
  まず今回の状況はどうか。
 B 16日の午後3時頃、けたたましいサイレンとともにパトカーが8台、学校に集結した。周辺の住民が何事かとびっくりして心配そうに学校を見ていると、2人の中学生が2台の大きな護送車に別別に乗せられるところだった。1人の中学生に警官が2、3人がかりで両サイドに乗っていた。校長室にも警察がいて合計20〜30人いたのではないか。聞いてみると、2人の教師が生徒になぐられてケガをしたということだった。体育館で体操をしていたところにこの生徒たちが邪魔しに入って、教師が引っ張り出すが聞かず、教師に注意されて切れたという。
 この学年は入学したときから「難あり」といわれていたが、子どもたちの目から見ると3年がいて抑えが効いていたという。それが今年度に入ってわずか2カ月間であっという間に荒れが拡大し、その周囲に「あれっ?」と思うような子まで群をなして「感染」が広がった。とくにこの1カ月、授業中に校内を歩き回る子どもの数が増え、中庭に寝そべっている子どもの周りを教師が囲んでいたりしていた。教師に対する暴力も頻繁にあり、これでは学校の手に負えないと親たちが学校に入って見守ろうという動きが出た矢先の出来事だった。
 C 荒れる子どもの人数がものすごく多いのが特徴だ。43人というから1クラス分以上。それは大人が何人かでかかっても、力では抑えが効かない。かれらが学校に来てやるのは、給食と体育と部活。これは熱心だという。ご飯を食べていないので、給食は結構おかわりしたりしている。その他の授業にはほとんど出ず、下級生にはやらないが同学年のクラスに突然入ってきて、携帯で音楽を流したりゲームをしたりと授業妨害をする。
  地域のなかで心配されていたのは、かれらが家に帰っていないということだ。食べ物を調達し、雨露をしのげる場所を探して、空き店舗に入り込んだりしている。さながらホームレス中学生という感じだ。今は蚊が出てきて大変なようだ。親に捨てられているような子もいるそうだ。相手をしてほしいというのがあり、愛情に飢えている。
  それと大人を食っている。「絶対に手を出せないとわかっているから、よけい調子づいている」と教師たちはいう。文科省の方針が「生徒と同じ目線で」「寄り添って」というような友だち感覚奨励であり、その影響があるといわれていた。だから子どもが、大人というものに権威とか尊敬を感じていない。地域のなかでは、「教師が子どもになぐられても耐えるだけになっているのがおかしい。教育は勉強だけを教えるのでなく、善悪の区別を体で教えないといけない」「社会に出たらそんな甘いものじゃない。それを学校で教えることができなくなっていることが問題だ」というのが大多数の意見だ。

 警察が入り荒れは拡大

  かれらは警察も恐れていない。事件の日も、玄関前で「お前なんかチョロいんだ」と若い警官にちょっかいをかけていた。だから警察を入れた翌日にも、連行されて警察から帰ってきた1人が、さっそく校舎に向かって石を投げている。この日は暴れ方も激しかったという。警察が入って、ますます荒れがひどくなっている。
  この学年は小学校から同じ状況があったようだ。低学年ではそうでもなかったが、5、6年で目立ち始めたといわれている。給食を四階から投げ落とすなどもやっていた。学校のなかにも、子どもがなにをしても「お前はいい子だ」「自由にやれ」という教師がいて、他の教師が厳しくしようとしても、乱れて規律のない状況が全体に蔓延して歯止めが効かなかったという。だから中学校になったらどうなるかと心配されていた学年だった。
 B 徘徊している連中も、挨拶をすればちゃんと応えてくる。調子に乗って悪いことをしても怒られていない、指導なり教育が全然入っていない、だからやりたいようにやっているという印象だ。ある生徒は、「先生の目の前で恐喝されて金をとられているのに、先生はなにもいってくれない」という。前は怖かった教師も、子どもたちに「謝れ」といわれたら謝るし、子どもたちの周りを腕組みして威圧する様子で歩くが、なにもいわないという。
  「教師は指導してはいけない」というのをマスコミも強制して、教育を崩している。校区の小学校で4年前、教師が下校時に子どもを指導しようとして肩をつかんだことを、『朝日』など商業新聞が「指紋が残った」「体罰だ」と書いた事件があった。その子どもは2年生なのに、威張りだしたといわれる。
  地域的には裕福な層が多く、エリート校だといわれていた。しかし今、かなり貧乏人が増えている。失業や倒産、離婚など過酷な状況があり、その格差も極端に開いている。校区の小学校で、ラサールに行く子が出たといって威張る流れがある。その一方で不遇な層が増えている。
  PTAもなかなか意見が一致しないようだ。保護者会で「みんなで一致してやろう」というときに、「うちの子を転校させるにはどうしたらいいか」という親もいる。今の1年生の入学時に、転校する者がかなりいたという。それができるのは裕福な家庭の子だ。
 B この学校は運動会の練習をしていると、「近所迷惑だ」と抗議の電話がかかってくる。管理職は、そういう地域からの苦情への対処で頭をかかえている。
  九九も分数もできない、漢字も読めない、それでじっと座っていることに耐えられないから荒れる、ということは全市的に共通している。教師が残して教えようとしても、市教委が「下校時が不安だからだめ」という。そして塾に行ける子と行けない子の格差がどんどん広がる。
 A この状況に対して市教委は総力戦だ。生徒指導経験者などをこの中学校に送り込んでいる。また親が見守り隊として学校に入っている。またサポートセンターから警察OBを入れている。現状はまさに学校崩壊であり、市教委、学校が何をやってもだめで、お手上げ状態だ。市教委の方向は「自由にさせなさい」「ものを壊したり、教師を殴ったりしたらすぐ警察を呼びなさい」というものだ。そこで警察を呼ぶが、警察も恐れない。去年の3年生が卒業してほっとしたと思ったら、今度はもっとひどい状態になる。学校や教育委員会の破産だ。
  警察の方も、地域の交番の目の前で子どもたちが大騒ぎしていて、どう見ても交番の中まで声が聞こえているのに、知らん顔をしていると住民がいっていた。関わりたくないという感じだという。
  下関の学校ではこの問題が最大の深刻な問題になっている。どこの中学校でも現実に起こる問題として見ている。「うちでも紙一重の状態で、なんとか踏ん張っているんだ」と語られている。各学校もうちに伝染してくるのではと、戦々恐々だ。
 
 元凶は「教育改革」 教師縛り生徒放任 果ては兵隊作り

 A なぜこうなったかだ。元凶は文科省の自由主義教育改革だ。この20年来、幼稚園の「自由保育」から小・中学校、高校、大学まで、新学力観の「個性重視」「興味関心第一」で子どもたちの好き勝手をやらせ、他方で能力別学級編成や全国学力テストで差別・選別を強めた。また教師に対しては「指導してはいけない」「体罰はいけない」といって身動きがとれなくしてきた。それが今、見事に破産しているということだ。文科省の教育改革路線に対して子どもが反乱を起こして、もうどうにもならなくなっている。子どもたちは学校に来て暴れている。危害を加える対象は主に教師、学校だ。自由主義教育改革を体現した学校に猛烈に反発しているということだ。そして、その反発の仕方はまた「個性重視」の自由勝手型だ。
 B 「居場所がない」「居場所を求めてさまよっている」という。彼らは学校のなかで排除されてきたということだ。保育園、小学校から「がんばらなくていい」「そのままの君でいいんだ」という自由主義教育をまともにくらって、九九や分数がわからないまま好き放題をやってきた。学校では読み書き計算を習うのが主なのに、学校の意味がない。中学校に行くと進学競争が激化する、できる生徒はよいができない生徒は排除だ。
 D ある教師は「手を出したら体罰になるし、だから警察を入れるしかないんだ」というが、それでますますひどくなっている。隣の生徒をうるさいといって刺した高校生の事件があったが、アメリカのように銃乱射にもなりかねない。
 E 地域の補導関係者は、市教委がショッピングセンターなどに子どもが集団でいれば、なにもしていなくてもすぐに警察に通報しろとうるさくいう。「そんなことしたら子どもはどんどん悪い方にいく。わざと犯罪人をつくっているようだ」と怒っている。安倍内閣が教育基本法を変えると同時に少年法を変えたことが影響している。
  その彼らをマスメディアの腐敗文化がとりまいている。ある教師は、『ルーキーズ』『ごくせん』など暴力的なマンガの影響も大きいんだといっていた。子どもたちは教科書は読まないが、マンガはしっかり読んでいる。そのなかに流れるのは破壊することばかり。ゲームでも人を殺すことを勝ちとするものだ。
 B 暴れる中学生が、市内でも相当数学校から放り出されて、職安に失業者が列をなすような社会に放り込まれる。PTA関係者がその子たちの将来を心配していた。行き着く先は、兵隊だ。アメリカでは落ちこぼれ防止法などをつくって、黒人や移民などの貧困層の子どもを兵隊にし、イラクなどの戦場に送っている。昨年は下関でも、自衛隊が中学校に勧誘に回っていた。

 生徒を理解させず 教育否定の国家統制

 A 文科省がやってきたのは教育の否定だ。学校が暴れる子どもたちの心情を理解しようとさせない。相手を理解しなくて教育できるわけがない。教育は「直接国民に責任を負う」と教育基本法はいっていたが、子どもの現状から出発して、子どもたちをよりよい社会の担い手として育てていくというのが教育だ。ところが、上からの教え込みになっている。為政者の必要にあわせるというように転倒している。教育の国家統制だ。子どもにとっておもしろいわけがない。教育課程審議会元会長の三浦朱門が「これからは落ちこぼれは落ちこぼれのままで結構でそのための金をエリートのために割り振る。エリートは100人に1人でいい」といった、その通りにやってきている。子どもたちにとってはたまったものではない。
 生徒の実際から出発するのではなく為政者のいうとおりにやれということとセットで、教師に教育の自由がない。生徒をたたけば体罰といって懲罰を加える。たたいても体罰、怒鳴っても体罰、教師は「寄り添って支援するのであって、指導してはいけない」といって、指導性を否定する。教師から指導性を取り上げたら、教師ではない、教師の魂を抜くということだ。そして役所に対してやたら報告書ばかり書かされている。「プライバシー」「個人情報」といって親の職業も理解させようとしない。教師は授業だけ教えていればいいといって、パート教師をどんどん増やしている。
  人権教育、自由教育といってあらわれた学校現場は、生徒たちにとっても、教師にとってもきわめて残酷なものだったということだ。この為政者奉仕の非人間的な残酷教育が学校現場で生徒たちの反乱を受け破産しているということだ。権力者は強制するが現実の方が強い。生きた子どもたちの現実の前で通用しなかったということだ。
 A 子どもの成長というとき、それは家庭生活、学校生活、社会生活という3つの生活形態のなかで成長している。子どもの家庭のなかには、金持ちの子もいれば、貧乏人の子もいる。しかし支配階級の子だというのはほとんどおらず、勤労父母がほとんどだ。家庭生活もひじょうに困難になっている。社会に出ていく子どもたちの将来も展望が見いだせない。学校はおもしろくない。そういう子どもたちの心情を理解するなという学校が崩壊しないのが不思議だ。
  教師たちが、目の前の諸現象にたいして個個バラバラの対応ではどうにもならない。この現象はどういう経過をたどり、どういう諸関係のなかでこうなったのか。10年、20年さらに戦後65年というような経過をたどって、客観視して根本原因に目を向けなければならない。学校現場の崩壊というのは、文科省が強制的に上からやってきた教育破壊の結果だ。

 教師の立場の決定的 勤労父母の誇りに未来

  この現状を突破するためには、教師の指導性が決定的だ。とくに「体罰禁止」といって教師を懲罰するのは撤廃させなければならない。荒れる生徒も、教師を殴ったのに殴り返されない方が気持ちは離れるだろう。教育はお役所・権力者に責任を負うのではなく、直接に国民に責任を負うということを回復して、現場の教師の教育の自由を回復させることが必要だ。九九も分数も漢字も、教師が強制し努力させて教えなければ習得できない。「指導するな」という転倒した方針も撤廃させなければならない。文科省課長天下りの嶋倉教育長が「それはだめだ」というのなら、自分がこの中学校に行って荒れる子どもたちを相手に模範授業をやってみせなければならない。
  将来の生き方まで含めた教師との魂の触れ合い、卒業したずっと後になっても慕われるような教育が切望されている。今あらわれている子どもたちの荒れは、「自分たちを認めろ」、つまり本質的には教育の対象として見てくれ、理解してくれという叫びだ。家が貧乏で倒産したり親から捨てられたりしている子どもを理解するのでなく、勉強しないのはお前らの自己責任というのでは、それは教育ではない。現実の社会では経済格差は無慈悲に拡大し、それは子どもたちに反映している。その汚濁にまみれた社会のなかで、それにうち勝っていく精神的な力をつけさせるのが学校教育の任務でないとしたら、それは教師としての社会的使命の放棄だ。テストの点数がいいだけではだめだ。一方で、点数さえよければいいという子が冷酷な犯罪を犯しているのが現実だ。
 C 教育改革の犯罪性という根本問題をはっきりさせ、それに反抗する荒れる子どもたちのなかにある教育改革の影響、自由勝手の反社会性というものとは断固としてたたかって教育するというのでなければならない。為政者の代理人の立場ではなく、親たち勤労父母の未来を代表する立場かどうかだ。教育改革というのは、市場原理主義、新自由主義の教育版であり、社会的な規制の撤廃、社会性の否定が特徴だ。だから反社会的なものがはびこる。社会がどうつぶれようとも自分だけがもうければよいというのは、アメリカを筆頭にして政治家とか官僚とか金融機関などエリートがど派手にやっていることだ。それと比べたら荒れる子どもはかわいいものだ。
  教師としても、この体制のなかに安住することはできなくなっている。文科省や教育委員会に調子をあわせてやっていたら、現場で反乱を食らって破産する。教師としてやっていくには、現場に合致する、生徒の現状に合致して、それを指導し成長させるという側に立つ以外にない。教師は九九や漢字のわからぬ貧乏人の子ではなくいいところのよくできる子出身が多い。そして74年の人確法で給料が上がり、現在では首吊りにさらされる中小企業の親父連中より実入りが多い。そこでできた思想が荒れる子を理解できない悲劇にもなっている。
 B 昨年のT中学の暴れる生徒だった子が、ガソリンスタンドで働いていて、見違えるようになっていたと補導関係者が驚いていた。労働現場に入ってみて、はじめて勉強したくなったという。働きはじめたら、そこにはおじさん、おばさんがいて、怒られながら仕事をする。自分に知識がないのも痛感する。勤労人民が労働を通じて子どもを教育している。学校がいかに現実から遊離し、とくに働く人人の健康で発展的な精神とかけ離れているかということだ。
 C それは被爆者や戦争体験者の話を聞くと、学校では見せない真剣な受け止めをするというのも共通だ。教師が金持ちは尊敬し貧乏人は馬鹿と見なすなら大悲劇だ。親たちのなかにも利己主義、個人主義も濃厚にあったりする。しかし大多数の勤労父母、祖父母たちのなかに、いかに健康で、発展的な力を持っているかを理解すること、それと団結するなかに教育の展望がある。
 A 教育運動の中心を担うのは教師だ。教師が、文科省の教育破壊の方向とたたかって、人民の側に未来があるのだという側に立場を移さないといけない。現実社会を見ると、日本がアメリカの植民地のようになってつぶれようとしており、あげくはアメリカの盾になって原爆が飛んでくる様相だ。子どもたちが、安上がりで命知らずの凶暴な兵隊に、アメリカの戦争のための肉弾に仕立てられる。そういう子どもたちへの愛情と使命感こそ求められている。一つの時代が終わろうとしており、教師が新しい時代意識に立つかどうかが決定的だ。
 B 親の側も、働く親たちの誇りを子どもたちに示す必要がある。日本社会の土台を担う労働者がよりよい社会をつくるためがんばる。そういう労働運動が教育を打開する上でも切望されている。

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