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成長阻む“子ども天国”の犯罪性
「自由・民主・人権」教育の破産
               社会的基準否定 個人主義培養     2014年4月2日付

 いきなり通行人を刃物で切りつけたり、車で歩道に突進するなど、反社会的な若者の犯罪が起きていることに、教育関係者をはじめ多くの人人が怒ると同時に心を痛めている。みずからの思い通りにならなければ、その鬱憤を他人にむける凶暴さと、強烈な個人主義を特徴にしており、このような残酷で反社会的な事件を起こす人間がどのようにして生み出されたのか、問題の根源に迫るべく論議が広がっている。通り魔のような極端な犯罪に行き着かないまでも、個人主義を土壌とした子どもたちのなかでの悪質ないじめや、それに応戦した自殺という仕返し、不登校などはいまや珍しくない。その人間関係や思考にどのような特徴や傾向性があるのか、とり巻く家庭環境や教育環境はどのようになっているのか、教師や関係者に聞いた。
 
 通り魔犯罪生み出した土壌

 下関市内のある中学校教師は、「若者の犯罪を考えた時、彼らは1日、2日であのような犯罪をする人間になったわけではない。小さいころからの教育がどうだったのかを見る必要があるし、戦後教育のあり方全般をふり返らなければ今の現象は見えないのではないか」と指摘していた。そのうえで、最近の通り魔犯の特徴である、ある程度裕福な家庭で20代過ぎてもマンションを与えられ、仕送りを受けるなど甘やかされた環境に問題意識を向けていた。共通項を感じてならないからだ。
 似たような家庭環境に置かれた子の特徴として、「自分の気持ちが一番で、人が何をいおうと関係ない。自分の意に反するとカッとなる」傾向があると語った。一例として給食時間に「こんなまずい物食えるか」といって食べないことをあげていた。「家で欲しい物を与えられ、美味しい物を思う存分食べているのだろうか…。自分が嫌いだから食べないのが当たり前になっている。意に沿わず、何かにぶち当たったときに人のせい、社会のせいにする。そうなる前にどこかで正さないといけないのだが…」といい、学校でも「給食を残さず食べよう」が難しくなっていることを指摘していた。その傍らでは、学校給食を唯一のカロリー源にしている貧しい家庭の子どもたちもいる。
 別の教師は、「何不自由なく親に依存できる環境が子どもにとっても若者にとっても良くない。欲しがる物は何でも買い与え、親が子どもの言い分を通して迎合していると、大きくなって親のいうことも聞かなくなり、手がつけられなくなって親子関係すら崩れるケースが少なくない。本来なら社会に出て厳しい現実に揉まれ、そのなかで社会人としての常識を学んでいく。そうやっていずれ親の苦労もわかるようになる。わがままは通用しないし、失敗をくり返して、先輩から怒られながら大人になっていくものだと思う。若者に職がなく、非正規雇用ばかりだったり社会的な問題もあるが、だからといって通り魔が許されるわけではない。社会性がないまま育って、しかも願望通りには世の中は回らないから、あのように自分本位な暴れ方になるのでは」と見ていた。
 人を殺しておきながら「ビックリしました」と目撃者のように振る舞う様子に社会全体は驚かされたが、教師たちのなかでは「今の子どもたちのなかで少なからず共通性がある」と指摘する声が少なくない。
 下関市の中学校教師の一人は、校舎のガラスが割れた時のことを思い返していた。「明らかにその子の仕業だとわかっていて、本人も事実関係を掌握されていることを知りながら、“やっていない”と平気な顔でいう。証拠があって最後まで問いつめると“僕がやりました”と開きなおり、今度は今までついていたウソを平気で覆すという出来事があった。同じ要素を持った子どもがいる」と心配していた。
 自己保身のためにウソをついたり、それが発覚すると言い訳や理屈を披露するのには長けていること、否を認めて「ごめんなさい」が素直にいえない特徴をあげていた。自分が悪いことをして怒られているのに、「○○君の方が先にしていた。僕はそれを真似ただけだ。悪くない」と正当化し、○○君の問題にすりかえる。そういう子は何度怒られても同じことをまたくり返す傾向があるのだといった。みずからの行いについての批判を正面から受け止め、反省することがなければ、本人にとって教訓として刻まれないこと、自分を変えて「二度とやるまい」とならないため、何度も同じことをやるのだと指摘していた。

 教師たちの指導性否定

 学校教育の現場では二十数年前から「自由・民主・人権」路線で「そのままの君でいいんだよ」という個性重視教育がやられてきた。そのもとで、子どもを集団の規律に合わせて我慢したり努力することをさせず、教師の指導性を否定して野放しの子ども天国にした結果、学級崩壊などもひん発するようになった。教師が物事の善悪を徹底して教育することがはばかられ、何か事が起きるとすぐに「体罰」騒ぎに発展したり、学校が袋叩きにされる構造ができてきた。「そのままの君」のまま成長の道を閉ざし、社会性が育まれない状況や、辛抱が効かぬ動物的わがままを放置したらどうなるかである。
 通知表(あゆみ)の子どもの評価は、「子どもの弱点を指摘してはいけない」とされ、「褒めて育て、子どもに寄りそう」ことが強調されてきた。子どもに自分の客観的な姿や弱点について省みさせることを避け、運動会の徒競走は順位をつけず、「ビリでも僕は一番だ!」というような環境がある。
 北九州市で小学1年生の担任をしている教師は、足し算100問テストをしたさいに、ある男子生徒の結果は40点だったのに、「僕は80点だ」といって聞かない、状況に直面したことがあった。「自分ができないことを“できる”といいはって、できない自分を認めない。自分が80点でありたいという願望が先に立つので、それを認めさせるところから始まる」のだといった。自由保育で育った子の立ち歩きも珍しくない。
 また、極端な例として、ある小学校3年生の男子児童が学校近くの踏み切りに石をおき、電車を停止させる事件が北九州市内で起きたことがあった。さいわいケガ人など出ず大事には至らなかったが、「その時間に通過する○○という電車が見たかったから石をおいた」という男子児童の言葉に教師も親もゾッとしたという。その男の子は、どの電車が何時何分に通過するかをすべて覚えるほどの「電車オタク」で、友だちはおらず、周囲からは特異な目で見られていた。単なる子どもの趣味だと見過ごしていたら、多くの人の命を奪いかねない事態に陥りかねなかったと語られている。興味関心第一で放置したら、とんでもないことになると教師たちは戦慄した。
 社会にとってどうかという基準を否定して、「そのままの君」の感じることや思ったことがまかり通るほど社会は甘くない。嫌なことから安易に逃げ出せるほど優しい世の中でもない。ところが学校になると別世界で、子ども天国になっている現実がある。小学校の給食では「卵が嫌いなので食べさせないでください」と親から連絡帳で知らせがあれば、子どものわがままが通っていく。持久走が嫌なら走らない。プールのシャワーが冷たいから入れないでほしいと連絡が入れば、水泳の授業を免除されたりもする。
 学校給食をめぐっては昨年、「牛乳の味が違う」と数人の子どもがいいだしたことで、山口県酪の牛乳の製造が数日間ストップするという前代未聞の出来事に発展したことも記憶に新しい。牛乳に異常は見つからなかったが、「味が違う」といっただけで大騒ぎに発展し、「味覚のわかる」僕や私のすごさだけが助長される効果となった。
 また近年、子どものいじめも社会的な問題としてとり上げられてきた。
 下関市内のある中学校では、一人の生徒がライン上である生徒に対して「みんなで一緒にはぶりましょう(無視して仲間はずれにすること)」とメールを流し、他の生徒が便乗してどんどん書き込むということがあった。発端は部活でレギュラーになれなかった生徒がその腹いせにやったことだった。教師の一人は「部活の集団スポーツのなかでもそうなる。人間関係の希薄さをスマホや携帯が助長している。自分中心で、嫌な他人は排斥するという人間が育つ土壌にもなっている」と状況を指摘し、「自分のことだけで物事を考えない子が増えている。メールやラインなどでの自分の行動や言動が周囲にどのような影響を与えるのか思考しない。それは深刻な問題だ。社会はもっと複雑だし厳しい。嫌なことだらけだ。そこで生きていくための基準を教え、集団のなかで善悪を厳しく教えるのが教育ではないのだろうか。教師も子どもに厳しく教えることを避けるようになっている」と問題意識を語っていた。
 些末な事をきっかけにして方方でいじめが起きる。ただ、昔からいじめがなかった時代などないし、大人の社会になるといじめばかりであるが、「子どものいじめ」だけはとり締まりが強化される趨勢となっている。生徒にアンケートを実施して「何か気づきはないか」「いじめられていないか」を書かせ、被害者・加害者をあぶり出すものになっている。
 アンケートを見なければ子どもたちの異変に気付かない、あるいは関心がない教師を教師といえるのかは置いておいて、そのもたらす効果としては、子ども集団のなかで葛藤も経ながら歪な人間関係を修復したり、直接喧嘩もして仲良くなるような関係を築かせるのではなく、被害者至上主義に陥りがちな傾向が危惧されている。いじめがないにこしたことはない。しかし子どもたちのなかで不仲が生じたり、衝突が起きることは当然ある。このなかで、いじめに負けない強くたくましい子どもを育てること、原因を突き止めて解決にあたるのが教育であるはずなのに「被害者」「可哀想」という側面だけがとり上げられる傾向が強まり、いじめられた側が詳細を綴って自殺するような、報復を意味する事件も起こるようになった。

 父母と教師の団結が要

 子どもたちは多感な時期に努力したり、辛抱したり、楽しいことも楽しくないことも様様に経験をくり返して、そのなかで仲間たちと団結もすれば喧嘩もして成長していく。全般的には人民的で、勤労父母に鍛えられた健全なイデオロギーが強まっていることは、山口県内の小学校を中心に広がっている鉄棒実践でもよくあらわれている。仲間を援助し、その成功を喜んだり、自分だけではなくみんなができるように力を注ぎ、「みんなのために」力を発揮したいという願いを強く持っている。
 その一方で、極端な自己中心を温存したまま、終いには通り魔になっていくような傾向性も同時に顕著なものになっている。社会があって、それに必要な人間になるという基準が破壊され、自分の思いが一番で、社会的基準は二の次というものにほかならない。物事を願望でしか捉えられず、「福島は完全にコントロールされている!」「(憲法解釈について)選挙で選ばれた私が最高責任者だ!」というような人間、もっぱら他人が悪いといって周囲と衝突する精神世界とも共通する。
 物事を願望からではなく社会的、歴史的にとらえて解決するような力が骨抜きにされ、思考方法としても科学的に考えたり、批判的にとらえる力が弱まっていること、短絡的で自己顕示欲が強いことと同時に、あきらめや敗北、凶暴さがセットになっている傾向性を教育関係者の多くが危惧している。社会がどっちに向こうと関係なく「自分の思い」通りにならなければむくれたり、怒ったり、果ては人を殺める人間ができ上がっていく。それを黙って見ているだけなら、動物の飼育係と変わらない。
 自由、民主、人権、個性重視で「好きにやりなさい」といって進めてきた新自由主義教育がいまや破産している。教師の指導性を否定する“子ども天国”がいかに犯罪的なものであるか、汚濁にまみれた社会の影響を受けるにまかせ、放置することがいかなる人間をつくり出すかは、その産物である若者の犯罪が示している。親が子を持て余し、学校も手を出せないなら大悲劇になるしかない。
 子どもたちに社会的基準なりを指導するのは学校であり、家庭であり、社会である。「教師がいい加減だから」「親がダメだから」という不毛の対立ではなにも解決せず、ましてや「社会のせいで君は通り魔になったんだよ」「犠牲者なんだよ」と励まし、寄り添ったところで何も解決しない。親や教師、さらに社会全体が団結して、次代のたくましい担い手を育てること、そのために身勝手で凶暴な新自由主義イデオロギーとの意識的な斗争をやり、社会的な運動にすることが待ったなしとなっている。その斗争を切り開くのは教師であり、文科省の破産教育に対峙して子どもたちの成長のために奮起することが求められている。



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