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戦後70年映画は何を描いたか
戦争の真実迫れぬ弱さ
             魂揺さぶる芸術を切望   2016年1月18日付

 第2次大戦終結から70年という節目となった昨年戦争をとりあげた多くの映画が上映された。おりしも安倍政府が強行した安保法制化に反対して、「安保」斗争以来といわれる全国的な戦争阻止のたたかいが巻き起こり、若い世代も中高年世代もかつての戦争がどんなものであり、何を教訓として受け継ぐのかという問題意識をこれまでになく高めていた。そのなかで芸術が戦争というものに対してどう向きあったのかということは、問われないといけない。「戦後70年」を記念して公開された映画作品のいくつかについて、それが何を描いて、何を描くことができなかったのか、記者座談会を持って論議した。

 色あせた加害者論や宿命論

  まず、どんな映画が上映されたかを見てみたい。
  昨年夏に公開された『日本のいちばん長い日』(監督・原田眞人)は、原爆投下を受けて天皇が「私自身はいかになろうとも、国民の生命を助けたい」といって戦争終結の「聖断」を下したことに対して、「徹底抗戦」を叫ぶ陸軍の青年将校たちが8月15日の玉音放送を阻止しようとクーデターを起こし、鎮圧されるまでを描いた。負けるとわかっていた戦争を引き延ばし、最後は国民の犠牲と引き換えにアメリカに命乞いをしたのが天皇をはじめ権力者中枢だったが、「天皇は平和主義者」という色あせた主張を押し出した。
 C 『野火』(監督・塚本晋也)は大岡昇平の戦争文学を映画化したもの。第2次大戦末期にフィリピン・レイテ島に送られた一人の日本兵が、結核を患い部隊からも野戦病院からも追い出されてジャングルをさまよう。「日本人はアジアに対する加害者」という視点から、「現地人を殺害し“猿の肉”といってそれを食べながら生き延びた」と描き、「タブーを破った」とメディアが持ち上げた。
  『杉原千畝』(監督・チェリン・グラック)は、第2次大戦中、杉原が日本領事館領事代理として赴任したリトアニアで、ナチス・ドイツから逃れるユダヤ難民に外務省の許可なくビザを発給し続けたことをドラマにし、「6000人のユダヤ難民を救った英雄」として描いた。杉原にはアメリカとイスラエルが賞も与えて政治利用してきた歴史がある。監督もハリウッドのアメリカ人だ。
  『おかあさんの木』(監督・磯村一路)というのもあった。長野県の雪深い農村で暮らす母親が主人公で、夫を病気で亡くした後、7人の息子を次次に戦争にとられて遺骨が戻ってくる悲しみを描いた。教科書にも載っている児童文学が原作だ。
  『日本のいちばん長い日』や『野火』『杉原千畝』は戦争を外観的に描いている。戦争映画といったとき、政府の側が意図的につくらせるプロパガンダ映画が多い。その意味で『母と暮せば』(監督・山田洋次)はそれとは毛並みが違う。長崎の原爆がテーマだが、人人の実際生活のなかで戦争がどんなものだったのかを描こうとしている。

 死を美化し怒り描かず 『母と暮せば』

  『母と暮せば』は、広島の原爆で死んだ父親と娘の情愛を描いた井上ひさし原作の『父と暮せば』の構想を引き継ぎ、「長崎を描く」として脚本化したもの。助産婦である福原伸子(吉永小百合)は、長男が戦地に送られて戦死し、長崎大学医学部に通っていた次男・浩二(二宮和也)も原爆で跡形もなく殺される。そして戦後3年目、母親が一人残されているところに死んだ浩二の亡霊が蘇ってきて対話するファンタジーだ。
 長崎の被爆者とかかわるので、その思いと重ねながら見た。原爆で夫や息子を殺された母親はたくさんいたし、遺骨も見つからず割り切れない思いを持ちながら生きてきたことは見ていてわかった。原爆や戦争が奪ったものの大きさも感じた。浩二を失った伸子が、浩二の婚約者・町子とその後も協力しあって生きていくが、いつまでも町子を縛りつけてはいけないという葛藤、戦地で片足を失った同僚の黒田と一緒になる町子自身の葛藤もある。闇市で生活していた「上海のおじさん」の存在も、焼け跡世代の体験からすれば共感はあると思う。
 しかしラストで、町子と黒田が一緒に来て結婚することを告げ、いよいよ伸子が一人残されるという状況のなかで、亡霊の浩二が「お母さんはもうこっちの世界にいるんだよ」といって、一緒に讃美歌とともに天国に召されていく。もの悲しい話で終わっていくことに非常に違和感があった。
 映画では、実際に被爆者たちがどんなふうに死んでいったのかは描かれない。原爆から3年目といえば、みんな原爆症でバタバタ死んでいった時期だ。体中に斑点ができて、血反吐を吐いて苦しんで死んでいった。それは「天国に召されていく」というようなものではない。結局、日本の敗戦が決定的だった八月になぜ広島と長崎に原爆を落とす必要があったのか、息子たちがなぜ殺されなければいけなかったのかそういうみなが思う社会的な問題意識が出てこない。息子が憲兵に引っぱられたりと、戦前の軍国主義に対する嫌悪感はあるが、原爆を落としたアメリカが出てこない。あれでは被爆者はか弱くて悲しい姿にしか映らないが、原爆を乗りこえて戦後生きてきた人はもっと力強い。今、被爆者が亡くなる間際まで体験を若い世代に語ろうとする姿勢に接するにつけ、そこにはもっと社会的、歴史的な思いがあると思う。そこが切り捨てられている。これでは今の戦争に立ち向かっていく力にはならない。
 F 一番印象に残ったのは、小学2年生の女の子が復員局に行って父親の戦死の報に接した場面で、妹たちを支えるために泣かずに頑張るといって歯を食いしばるところ。そうした印象的な場面がちりばめられてはいるが、それ以上は踏み込まない。「死者との対話」というとき、礒永秀雄がうたうものは、「自分たちのかわりにたたかってくれ」というものだ。映画の最後は2人で天国での「小さな幸せ」を望むという構成だったが、あれでは被爆者の人たちが生きてきた道とちがう。伸子が強く生きていくというのだったら、まだ救われた。
 B 浩二が町子への思いを断ち切る場面で、「町子には幸せになってほしい」といい、続けて「それは僕と一緒に死んだ何万という被爆者の願いだ」というところがある。町子に幸せになってほしいとは誰もが願うだろう。しかし被爆者の願いといったとき、二度と原爆も戦争もやらせない、町子を含めた次の世代に平和な社会をつくってくれというものだ。それを切り離すことはできないと思う。原爆を投げつけられた長崎に正面から向きあわず、そこを脇において、二人の「別れがたい別れ」を中心に据えている。1950年代の日本映画は、『きけ、わだつみの声』にしろ、『ひろしま』『原爆の子』『ひめゆりの塔』にしろ、弱点はあるにせよ日本民族として経験した戦争の悲惨さやそれに対する怒りと正面から向きあっているし、それを次の世代に伝えようという気迫が感じられる。この映画は良心的ではあるが、そういう迫り方に欠けると思う。
  山田洋次は登場人物の内面的な葛藤にはかなり力を入れて描いているし、それなりの共感もあると思う。だが、大きな原爆や戦争のなかにある家族のさまざまな問題をどうとらえるかを観客は見るが、その響きはない。50年代の映画が出たが、当時は二度と戦争をしてはいけないという世論の高まりのなかで、峠三吉が「今、そのときが来た」と詩で訴え、『きけ、わだつみの声』が上映されて反響を呼んだが、当時の時代の空気は今、安保法制反対の全国的な運動のなかで新たに高揚している。ここから見て、映画は非常に甘ったるい。最後に「死んだ息子のところに行くのが最大の幸せ」と持っていくところまできたら、共感とは違う別世界になっていく。原爆投下や戦争に対して、絶対にしてはいけないという怒りが基調にない。だから戦争映画だが、戦争反対の力にならない。国民的世論のなかに浸透しきれない決定的な問題があるのではないか。

 問われる芸術家の足場 「祈りの長崎」の欺瞞

 A 長崎を「祈りの長崎」で描くのはもう古い。原爆展で出会った長崎の人は「天下御免」でいいたいことをいう人が多いし、精霊流しのあの激しさはそこからは説明がつかない。実際の長崎と映画の描く世界はちぐはぐだ。
  戦後、マスメディアの長崎の描き方は、「召されて妻は天国へ…」というのが基調になっている。それは実際の長崎と違う。現実の被爆者の抱えていた苦難は、映画のようなものではない。「本当の苦しみは戦後からだった」とよくいわれるが、原爆で息子が殺されただけでなく、広島と長崎で何十万人の人が一度に殺され、戦後も原爆症などの苦しみが続き、無惨にすべてが焼き払われたなかから復興させていくというのは並大抵のことではなかったと思う。それこそ「絶対復興するんだ」とやってきた力強さがあった。そのなかで「子どもを産むと奇形児が生まれる」というような被爆者の差別もあり、長崎では結婚しなかった人もたくさんいる。そしてずっと語ることができなかったわけだが、だからこそ原爆展に出会って一皮むいたらすごく激しい。親兄弟を殺したアメリカに対して「絶対仇をとるぞ」という激しい怒りがある。
 E カトリックの人でも被爆者もいるし、激しい思いを持っている。長崎原爆展にシスターが来て感動して帰っていった。
  つくられた「祈りの長崎」のなかでこの映画のテーマが決まってしまっている。そしてそれ自体、敗戦後に日本を占領したアメリカがプレスコードを敷いて原爆について語らせないようにし、その一方でGHQが資金提供して永井隆に『長崎の鐘』を出版させ、「天皇の聖断を早めたのは原爆投下であり、長崎市民は平和のための生け贄だ」という宿命論を煽ってつくりあげたものだ。同時に『長崎の鐘』を出版するさい、日本軍がマニラでどんなひどいことをやったかをつけ加えてセットでやれというのが、GHQの許可条件だった。市長だった本島は「背中の赤ん坊まで万歳して送りだした加害者だ」「広島よおごるなかれ」といって総スカンをくったが、これが「祈りの長崎」だ。そこから長崎を見ること自体に無理がある。
  映画のなかで、上海のおじさんが米軍の闇物資を見て「こんな国と戦争をしたのがバカだった」という。アメリカはそこにしか出てこない。だが現実に長崎や広島の人たちは、どんな理屈をつけようとも、原爆を投げつけた者ということと切り離して占領軍を見ることはできない。それをいかに抑えるかということで「祈りの長崎」をやった。しかし、当時を生きてきた被爆市民の思いは「アメリカはなぜこんなことをやりやがったのか!」という思いであり、これは絶対に許しがたいんだという思いが50年8・6から原水禁世界大会にいく。だが、そういう質での葛藤がまったく出てこない。それでは当時の人人の気持ちを彫り深く描くことにはなりえない。
 D 映画に流れているのは戦後の解放感だ。暗い時代から明るい時代になり、貧しいけれども戦前よりはよくなった、と。それは昨年の安保法案に反対する国会前の行動で、戦前の軍国主義批判はするがアメリカの批判はしないというものと共通したものを感じる。山田洋次自身の時代認識がそうなっていると思うが、それは被爆者や一般庶民の経験とは違う。山田洋次の作品は、人情の機微をすくいあげて笑わせたり、ホロリとさせるが、ぬきさしならない現実の矛盾には迫れず、ちっぽけな幸せを得てハッピーエンドにするものが多い。時代劇にしろ現代劇にしろ、芸術家が作品をつくる場合、現実社会に対する認識がどうかが問われるが、そこに山田洋次の限界性があると思う。

 「加害者」と人民を封殺 『野 火』

  『野火』についても思うが、監督の塚本晋也が「戦争を描くなら、加害者の目線で描かなければならない」「敵を描くつもりは最初からない。敵を撮れば、どうしたって被害者意識が喚起され、憎悪が生まれる」といっている。「祈りの長崎」と同じく、戦後使い古された加害者論の凝り固まった頭で映画をつくっている。人人の戦争体験を丁寧に取材してそれを社会的、歴史的に描くというリアリズムに反対する立場だ。
 映画では、機銃掃射で内臓や脳みそが飛び出し、手足がちぎれるさまをグロテスクに再現するとともに、日本兵の命の綱が殺した現地人の肉であったこと、果ては仲間同士の殺しあいに追い込まれることを描き、「これが戦争の悲惨さだ」といっている。そこだけを切りとって、ホラー映画のようなものにしている。
 戦後70年の企画で、同じフィリピンのルソン島に従軍看護婦として送られた90前後になるおばあちゃんたちが体験を語る番組があった。看護婦仲間がベッドで寝ていたが、病院が狙われることはないと思い、みんなで防空壕に避難した。すると米軍は病院を爆撃し、帰ってみると友だちの鼻から上はなく、脳みそが壁にはりついていた。悲惨な話だが、それを話すおばあちゃんたちは、アメリカに対する怒りと、友だちに対する申し訳なさや愛情にあふれていた。こうした敵への怒りや仲間への愛情と切り離して戦争の真実は描けないし、それこそ若い世代が学ぶべきものだ。
 E 最近のハリウッド映画にしても、戦争を描くときに、弾がビュンビュン飛んで肉片がワッと飛び散るような描き方だ。昨年、NHKが太平洋戦争最大の激戦地・ペリリュー島の特集をしたが、「戦争はひどかった」というだけで、あの戦争の性質、アメリカがどれだけ残忍なことをしたのか、日本の軍国主義がそれと一脈を通じていかに国民を犠牲に追いやったという真実に迫ることだけはしない。それと一緒になって戦後の進歩派が、「広島をいうのなら、なぜ南京虐殺をいわないのか」「パールハーバーはどうなのか」と加害者論を主張して運動を攪乱して崩していった。映画にもそれと同質のものがある。戦後70年で力を入れて制作された一連の映画が、これほど戦争反対の国民世論が高揚するなかで、なぜ「いい映画だった」という大きな世論にならないのか。それが芸術創造上の問題ともかかわってあるのではないかと思う。

 戦争押止める大衆の力 新鮮な怒り持ち高揚

  戦後70年の昨年は、安保法制化の問題を中心に現実に戦争を引き寄せる政治がやられるなかで、戦争に反対する世論が相当に高揚した。映画監督や俳優を含め、それぞれの芸術家が良心を問われたし、そのなかで自己の葛藤をへて、干されてもいいから安保法制に反対する声を上げるんだと一肌脱いだ俳優もいた。そういうなかでつくられた映画作品が、国民が見て本当に力を得たり、戦争は絶対にいけないと大ブームになるような作品になりえたかというと、それは弱かった。
 あの戦争を二度とくり返してはならないという思いを力にするとき、誰が戦争をひき起こし誰が犠牲になったのかを描くことは不可欠だ。原爆投下者をオブラートに包んでしまったら見ていて感情的にもちぐはぐにならざるをえないし、逆に悲惨で被害者だったというだけでも力にならない。帝国主義が引き起こす戦争で、日本人民であれ中国人民であれ、ドイツ、ソ連の人民であれ、みなひどい苦労をしたし、人類史上もっとも凶悪な原爆を平気で落とす原爆投下者への怒りが描かれなければ、人民的な共感には結びつかない。
 C 原爆を描くとき、原爆投下の非人道性に怒りが向かないような作品ではだめだ。『母と暮せば』の最後は、息子と一緒に幸せそうに天国に昇っていく場面にしたことで、吉永小百合を殺している。原爆で息子を殺されて一人になったけど、それに負けないで、助産婦として新しい命を取り上げる場面で終わった方が、未来が感じられるし、共感は大きかったのではないか。
  それが本当の被爆者の戦後だ。長崎の被爆直後の写真で、赤ん坊におっぱいを飲ませる母親の写真がある。あの母親も子どもは全員死んだが、戦後はずっと野菜をつくって頑張って生きていった姿をみんな見ている。そこに、見る者は母親の強さと、原爆で肉親を奪った者への怒りを感じとる。
 A 原爆による地獄絵のような中を生き延びて、戦後も困難を乗り越えてみなが生き抜いてきた。その強さがある。中東アラブの人たちも「あの原爆を乗り越えて復興させた」といって日本人を尊敬しているというが、「召されて妻は天国へ…」というものではない。日本人民は戦争で320万人が殺され、家族や親戚のなかに犠牲者がいない家はないというほどの経験をして、そこからの生の怒りがあるから、それが70年間戦争をさせない力になってきた。戦後70年映画は、この日本人民の経験を描かずしていったい何を見る者に訴えるのかだ。
  そこの監督なり制作者側の立場が決定的だ。現実に地響きを立てて動いている安保法制反対の運動の外側にいたのでは話にならないし、被爆者の怒りや若い世代への思いを共有してつくらないと人人に支持される映画などできない。時代の発展的な空気を敏感にとらえ、人人の魂を組織するのが芸術家の仕事だ。 
 E 山田洋次の良心性は否定しない。「戦争はいけない」という良心でやっているのだが、その限界を同時にあらわした。戦争を描く以上は人民大衆の実際経験に根ざして、人民世論を発揚し、その結果監督が社会的に制裁を受ける、つまり為政者から攻撃されるくらいのものになってもおかしくない。しかし、鋭い部分はオブラートに包んだものが全国配給に乗っていくという印象だ。商業主義では戦後70年に迫れないし、人人がそこから力を得ていくようなものにはならないという実感だ。チャップリンはファシズムを痛烈に批判してたたかったが、芸術家としての勝負はそこにある。
  逆に政治主義、テーマ主義に陥って人情の機微にふれないようなものも共感は得られないと思う。新しい芸術は、戦争の危機とたたかい、国のおかれている植民地的な辱めと対決する運動のなかから起こってくるにちがいないし、類型化とたたかって、われわれの生きているこの地方の人民生活を描くこと、それを社会的、歴史的にとらえる努力のなかから生まれてくるにちがいない。そのような映画とか芸術は探してもなかなか見当たらないのが現状だが、文化芸術が時代の最先端を捉えて人人の感性、魂に触れるものとして台頭すれば爆発的に広がる可能性はあると思う。

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