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敗戦60年を迎えて
戦死した人を無駄にするな
                 米国に国を売ってもよいか       2005年8月13日付

 戦後60年目の終戦記念日を迎える。第2次世界大戦で日本は、300万人もの多大な人命を失い、国土は焦土と化した。人人は荒廃のなかから立ち上がり、平和で繁栄した新生の日本を建設するための努力を不断につづけてきた。だが今日、日本社会は無秩序きわまるデタラメなものとなり、そのうえ新たな原水爆を使った戦争の危険すら押し寄せている。死んだものの命をとり返すことができないのなら、死なないためのたたかいを生死をかけてやらねばならない。いまその時が来ている。新たな戦争を押しとどめる力のある平和運動を発展させるうえで、かつての戦争がなぜひき起こされたのか、どうして止めることができなかったのか、これらの問題について論議の発展が望まれる。

  占領が目的だった米国
 第2次世界大戦で日本国民はかつて経験したことのない痛手を受けた。1931年の満州事変以来、日本人の男子総数の4分の1、のべ1000万人が兵隊にとられ、そのうち約200万人が戦死した。さらに、空襲や原爆で、沖縄戦や旧満州などで非戦斗の老幼男女100万人が無残に殺された。1500万人が家財を焼かれ、失った。国民はほぼ5世帯に1人の割合で親・兄弟、肉親を奪われ、さらに親せきや知人、友人で戦争の犠牲者を持たないものはいない状況であった。
 明治以後、天皇制軍国主義はアジアでの他民族への侵略につぐ侵略を重ねてきた。朝鮮への侵略・併合、台湾の強奪、ロシア社会主義革命、中国革命への干渉をへて、中国の東北地方「満州」を侵略し、1937(昭和12)年には、中国への全面的な侵略戦争へと突きすすんだ。
 戦前の日本軍国主義のこうした侵略主義は、財閥と地主階級による過酷な搾取によって、労働者、農民の生活が急速に窮乏化するなかで、狭くなった国内市場を植民地に求めたものであった。農村の娘の身売りが常態化した1930(昭和5)年には、昭和恐慌が勃発。労働者のストライキ、小作争議がひん発し、人民の憤激が高まるなかで、天皇制権力は、憲兵や警察による凶暴な弾圧を加え、思想・言論の自由を奪い、一銭五厘の赤紙で一家の働き手を侵略戦争にかり出していった。
 中国への全面侵略が拡大するなかで、中国市場を奪いあう日本と帝国主義諸国、とりわけ米英との対立が先鋭化した。米英は中国での市場・権益を確保するために中国の抗日戦争で、蒋介石を支援した。
 1940(昭和15)年、日本が日独伊三国同盟を結び、ソ連と戦争するのではなく、北部仏印に侵攻、アメリカの蒋介石への戦略物資の支援ルートを断つ方向へとすすんだことで、日米関係は一触即発の状況へとすすんだ。
 すでに日露戦争直後から、日本をうち破って、中国を奪いとることを最大の戦略とする「オレンジ計画」を策定していたアメリカは、日米通商航海条約を破棄し、在米資産凍結、航空用ガソリン、くず鉄の対日輸出禁止などの経済制裁を加え、“日本からの一撃”を待って開戦の準備をととのえた。アメリカの参戦の目的は日独伊にとってかわって世界を支配する野望に貫かれていた。
 1941年12月、真珠湾攻撃にはじまる日本とアメリカの戦争は、一方は「大東亜の解放」をかかげ、他方は「ファシズムにたいする民主主義のたたかい」を大義名分にしていたが、どちらから見ても、中国をはじめとするアジアの植民地を奪いあうための、帝国主義の強盗戦争であった。日本とアメリカの支配階級は、その根底において自国の人民と他民族を抑圧し、当時のソ連と対抗することでは利害は一致していた。
 アメリカは日米開戦直後から日本の軍部に戦争責任をかぶせ「天皇を平和の象徴とする間接支配」を基調とする対日占領政策「日本計画」を策定、その方向で日本の支配層に働きかけを強めた。
 41年当時、日中戦争に動員された100万の日本軍の主力は抗日戦争のまえに釘付けにされる状況であった。年末時点で、中国戦線での戦死者はすでに18万5000人を数え、勝利の見こみは断ち切られていた。天皇をはじめ、日本の戦争指導者には、アメリカとの戦争で勝算の見こみはなく、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ちうるや否もおぼつかなし」(永野修身大将)と吐露するほどであった。
 1942年6月、ミッドウェー海戦での大敗北を喫して以来、日本軍は敗退につぐ敗退を重ね、アメリカに制海権、制空権を奪われ、南の島にとり残された兵隊は飢えとマラリアでつぎつぎに死に、丸腰で輸送船に乗せられた兵隊がまとめて殺される状況が放置されつづけた。
 天皇制政府の中枢は、敗戦を早くから自覚しながら、みずからに戦争責任がおよぶことを避け、その支配的地位が保証される形で、米英に頼って降伏する条件を探ることに腐心するだけであった。
 日本の敗戦がすでに決定的であったにもかかわらず、アメリカは1945年には、東京、大阪をはじめ日本の都市という都市に無差別空襲、沖縄戦から広島・長崎への原爆投下にいたる無差別の大量殺りくを強行した。それは、ソ連を排除して日本を単独占領し、天皇を頭とする日本の支配層を手下にして日本を侵略支配し、日本をアジア侵略の拠点として確保する計画を実現するための計画された蛮行であった。

  アメリカと利害一致していた天皇制政府
 こうしたなかで、天皇制政府は国民には「本土決戦」「一億玉砕」を叫び、幾十万の非戦斗員を殺されるままにまかせたのであった。天皇を中心とする支配階級は原爆や空襲を「天佑」として歓迎したが、アメリカの無差別な爆撃に国民がさらされることで、アメリカの占領、天皇の責任追及に立ち上がれないほど、疲れはてさせることで、アメリカとの利害が一致していたといえる。
 過酷な戦争と生活苦のなかで人民の憤激はいたるところで強まる一方であった。近衛文麿が天皇に「最も憂ふるべきは敗戦よりも、敗戦に伴ふて起こることあるべき共産革命に御座候」と上奏したように、権力機関はつねに人民の決起を恐れていた。他国人民はもちろん、自国の人民を虫ケラのようにあつかっていたものの当然の恐れであった。
 「日本戦没学生の手記――きけわだつみのこえ」に、ビルマ戦線に送りこまれ、無残に死んでゆくなかで、「あのとき反対しておけばよかった」という反省がある。この戦争のなかで日本人民は筆舌に尽くしがたい困難を強いられたが、それを助ける政治勢力は壊滅していた。
 「戦前の日本共産党は強大であった。とくにインテリが多かった。ところがその共産党は戦争が苛烈になるなかで、敵の弾圧もあるが消滅してしまう。人民の困難にたいして手助けできなくなる。中国共産党は、果敢にたたかうが何度も破れて最後に長征をやる。延安に本拠を移し、それまでの革命斗争を総括して、理論上、路線上の整頓をする。だから今度は無敵であり、全中国の解放までいった。なぜ日本共産党は重大な時期につぶれてしまって、なぜ中国共産党はあの広大な中国で人民の政府をつくれたのか。その中心をなすものは『老三編』、つまり徹底的に人民に奉仕する思想である」(福田正義「幾千万大衆と共に」)。この教訓は今日重要な内容を示している。
 戦後、共産党の指導部のなかに、アメリカの第二次世界大戦への参戦目的を「反ファシズムの正義の戦争」だとして、これを支持し、米占領軍を「解放軍」とみなして歓迎する潮流が発生した。戦後はじめて原爆反対を公然とかかげてたたかわれた1950年8・6平和斗争は、急速に全国、全世界に広がり、アメリカに朝鮮戦争で原爆を使用させない運動として発展した。そこでは、こうした親米潮流と一線を画し、原爆の被害を受けた日本人民を代表し、原爆投下者アメリカは日本人民の敵だと明確にして切り開かれた。

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