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戦争させぬ気迫こもる大交流
長崎「戦争と原爆展」閉幕
              長崎市民の勢い示す   2009年6月22日付

 「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、平和な未来のために語り継ごう!」をスローガンに、長崎市の西洋館イベントホール(川口町)でおこなわれてきた、第5回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)は8日間で2000人の参観者を集めて閉幕した。賛同協力者は278人となり、被爆、戦争をくぐり抜けてきた体験者の思いと、それを受け継ぎ新たな戦争をくい止める若い世代の使命感が結びつき、世代を超えた大交流の場となった。
 8日間の間、原爆展を成功させる長崎の会(永田良幸会長)の被爆者、戦争体験者、戦争遺児、主婦たちが連日のように会場の受付や運営を担い、参観する市民に意欲的に体験を語り伝えた。親、兄弟、同僚を原爆や戦地で失い、「ふたたび戦争を許さぬ」という強い使命感で結束した体験世代の行動は、会場全体を活気づけた。
 被爆者、戦地体験者をはじめ、空襲や引揚体験者など、かつての戦争を体験した多くの年配者をはじめ、教師、医者、会社員、学生など若い世代も参観に訪れ、第2次大戦の本質に触れてお互いの体験を交流し、新しい戦争の接近に対する切実な思いが語り合われた。
 また、2万体に及ぶ被爆犠牲者の遺骨が人知れず東本願寺教務所に眠っているという事実をはじめ、戦後の長崎ではアメリカ軍の直接統治のもとで「祈り」「反省」が押しつけられ、被爆遺構はことごとく壊されるなど歴史が抹殺されてきたことへの怒りは強く、「今こそ被爆の真実を語り継ごう」という機運は日に日に高まっていった。
 友人とともに訪れた80代の婦人は「城山町の実家で母と、生後間もない赤ちゃんも含めて3人の妹が焼け死んだ。叔父や叔母などの親戚は全部で31人死んでいる」と語った。
 「私は、主人に面会を済ませて市外から汽車で長崎へ戻ってくる途中だったが帰ってみると、妹の1人は川に流されて死亡。祖母は、夢にのぶ子(妹)が出てきて、“なぜ助けてくれなかったの”といっている、といいながら死んでいった。長大の経済学部に通っていた母の弟は、遺体収集の作業に出て、心臓部だけ残っているような死体を素手で拾い集めたので、原爆症で卒業する間際に死んでしまった。私は息子を負ぶって市内を歩いたが、坂本町あたりの田の水は熱でぶくぶくと煮えていた」と惨状を語った。
 「戦地から帰還した父は、病人が出ると注射を打って次次に殺していく様を見て、絶対に病気にならずに帰ろうと歯を食いしばって帰ってきたといっていた。こういう展示ははじめて見たが、絶対に必要だ。ぜひ協力したい」と賛同者になった。
 シベリア抑留体験者の男性は、「ずっと満州にいたので、国がどのようにして国民をダマして戦争に導いていったのかはじめてわかった。私は、昭和20の8月1日付で現地召集され、2週間後にそのまま旧ソ連のウラジオストクに連れて行かれた。すでに日本政府は敗戦が決まっていたのにもかかわらず、ソ連政府との協定で“煮ても焼いてもいいから好きにしてくれ”と国民をわざと差し出したことを後から知った。天皇がのうのうと生きるかわりに、国民は棄てられたのだ」と怒りを語った。
 教育座談会の本紙号外を見て、「最近の若い世代の姿や行動を見ていると、日本は滅亡の危機にあると思う。平和ボケして目先の楽しさばかり追い求めていく文化をテレビから垂れ流しているので、学校教育だけ問題にしてもはじまらない。麻生太郎は就任当初から“マンガの殿堂”をつくるといっているが、まさに若者がマンガのような脳みそになっている。これが戦争の準備なんですね」と語って協力を申し出た。

 教育の危惧重ね切実な論議
 被爆2世や現役世代からも、文化や教育のなかで感じる戦争の足音を敏感に感じながら、戦争阻止の行動を求める声が多く語られた。
 子どもたちを連れて参観した学童クラブの女性職員は、「今の学校では、悲惨なものを見せたらショックが大きすぎるという理由で被爆写真を見せない傾向がある。だから、人の死についてもゲーム感覚で、“殺しても生き返る”と本当に思っている。現実から切り離された教育になっている」と語った。学校では、他の子どもに手を出さない限り、立ち歩いて騒いでも教師は注意しないことや、「子どもの自発性の尊重」という学校選択制によって学校に地域性がなくなり、地域の人たちといっしょに教育ができなくなっている現状を語り、「地域の人たちの人生を学ばせたい。学校でやってほしい」と切実な思いを語った。
 50代の自営業男性は、「母が看護婦をしていた。救援に入ってガスを吸っているので、1年のうち半分は寝付いていた。茂木の砂浜でも市内から運ばれた遺体を焼いていたと聞いている。“水をくれー”と叫んでいた人たちがそのまま死んでいくなかで、ウジが山のようにわいていたという。長崎の人間ですら、原爆の記憶がしっかりと伝えられていない。なんのために高い税金を使って原爆資料館を建てたのかわからない。あの体験が伝えられていないから、自分のために人を殺すという子どもが育つのだと思う」と語った。
 60代の被爆2世の婦人は、「叔母は、田んぼで草取りをしていて被爆し、ケロイドが50年たっても膿んでいた。柿の葉とツワの葉をあぶって傷口に貼っていたが、夏の暑い日は冷たい水をつけないと寝られなかった。苦しみ続けて20年前に亡くなった」という。
 母親は大橋工場で生き残ったが、川で被爆した弟や、家の下敷きになった妹は脳まで冒されて、お腹がパンパンに膨れて苦しみながら死んでいき、母はそのトラウマから脳の病気にかかり、痴呆になったという。
 「母の苦しみを見てきた私は、ずっと原爆を避けてきたが、最近はまた戦争が起こるのではないかと感じる。今こそもっと語らないといけない。この事実を忘れたらもっと悲惨な時代が来るのではないか」と話した。
 会場の中で交流が続くなかで、午後五時から閉幕式が開かれた。
 原爆展を成功させる長崎の会の永田良幸会長は、「身内を一瞬にして殺された者の悲しみは何年たっても消えるものではない。だが、今の日本はまたアメリカに戦争に引き込まれるという危機感を感じている。最近は自衛隊が海賊退治といってソマリアに行ったり、北朝鮮騒動で戦争を肯定しはじめた。武器をつくって失業者が減っても、儲けるのは商社だけだ。若い人はどんどんアメリカの弾よけに使われることになる。戦争をはじめれば、今の“幸せ”はあっという間に崩れていくだろう。戦争を知らない政治家が日本を牛耳っている以上この原爆展は毎年続けて、被爆者、戦争体験者の真の声を日本中に伝えていく必要がある。交流会もどんどんやって、受け継いでくれる若い力に託していきたい」とあいさつした。
 山下諫男氏は、「今年は昨年よりも参観する人たちの真剣さが違っていた。若い人たちには、原爆は一瞬にして男も女も丸裸にし、焼き焦がし、吹き飛ばしたこと、2度とこういうことがないようにお互いがお互いのために平和運動を進めていく大切さを伝えると真剣な表情で聞いてくれた。最近の戦争への動きが加速するなかで、それをくい止めるための心の準備をするときにきていると感じる。この運動は中断することなく、継続していくよう努力していきたい」と力をこめた。
 被爆者の吉山昭子氏は、広島、下関、そして長崎市民の協力のもとで大成功したことへの感謝をのべ、「これからは若い人にも会に入ってもらって基礎を固め、戦争、原爆がいかに恐ろしいか、平和がいかに大切か伝えていきたい。来年の第六回目に向けて、大学生たちといっしょに大学でも原爆展をやっていきたい」と抱負を語った。
 長崎大学の男子学生は、「今年は若い人たちが多く、平和に対する意識が変わってきたと思う。昨年被爆した祖母が亡くなったことがあり、それを受け継いで自分が平和のために役に立っていきたいと思う」と厳粛な思いを語った。
 佐世保からきた男子学生は、「祖父も被爆者だが、原爆について一切語らずに亡くなった。祖父のために何ができるのか考えたとき、戦争をなくすために何かできることがないかと考え、今年は大学で原爆展を開きたい。佐世保も米軍に支配された町のようになっているが、戦争について関心を持ってもらうように努力したい」と決意をのべた。

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