トップページへ戻る

戦争体験を語る切実な思い
              廿日市原爆と戦争展開幕   2010年2月19日付

 広島県廿日市市のはつかいち美術ギャラリー(廿日市市役所併設)で17日第6回廿日市「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)が開幕した。2002年から継続しておこなわれてきた同展は、廿日市市町内会連合会、廿日市市長生会連合会、宮島総代会、宮島女性会、廿日市市遺族連合会、大竹市原爆被害者協議会、広島市佐伯区医師会をはじめ、被爆者、商店主、教師、市民グループ、大学生など112の団体・個人が賛同者となり、広島市内外でおこなわれてきた原爆と戦争展に賛同する市民からの積極的な協力のもとに取り組まれた。初日から2日間で350人の参観者が訪れ、広島周辺でくすぶる米軍岩国基地問題、上関原発問題への関心とともに「ふたたび日本を核戦争の廃虚にさせぬ」「体験を語り継ぎ、被爆地から力強い平和運動を起こそう」という世代を超えた交流の場となっている。
 午前10時からおこなわれた開幕式では、原爆展を成功させる広島の会の高橋匡副会長があいさつし、「廿日市は広島に次いで原爆展の回数が多く、地元の人のこれまで以上の協力に励まされている。現在は、ふたたび戦争が起こるのではないかという危惧(ぐ)も日日増しており、それだけに広島に住む私たちの役割は大きい。一人でも多くの若い世代、次世代に私たちの体験を受け継いでいくことが急務となっている。戦後六五年の思いを受け継いでいきたい」とのべた。
 地元の被爆者を代表して川端義雄氏が、広島市基町にあった西部二部隊に衛生兵として召集され、陸軍病院内勤務中に被爆して負傷者の救援にあたった経験を語り、「原爆を持っている国が全世界に広がり、それは広島型の数十倍ともいわれている。いつこれが使われるかわからない。広島、長崎市民として、また日本人として、原爆をなくさなければならないと声を大にして訴えていきたい」と力強くのべた。
 西区在住の石津ユキエ氏は、8月6日から帰ってこない息子(義兄)の帰りを待ちわびながら九八歳で亡くなった義母の思いを語り、「私も子どもを持つ親として母の気持ちが痛いほど分かる。いまの若い母親たちにもその思いを伝えていきたい」とのべた。
 広島大学の女子学生は、「戦後60年以上がたち、いま聞いておかなければ被爆体験をこれから聞けなくなると思い、この活動に参加するようになった。パネル展示ではじめて知ることも多く、大学でも輪を広げて、より多くの学生がともに考えてもらえるよう参加者を増やしていきたい」と抱負をのべた。
 会場には、戦争体験者、被爆者、母親、親子連れ、教師などぞくぞくと参観が続いている。戦争体験者が多く訪れ、これまで語らなかった体験を激しく語っていく姿や、広島の会の被爆者に「体験を聞かせてほしい」と申し出る母親や青年の姿が目立ち、被爆者や遺族が手記や戦死した親の遺品を提供するなど、世代を超えた交流の場となっている。また、劇団はぐるま座の『原爆展物語』(4月24日・広島市西区民文化センター)への期待も強く、家族、親戚ぐるみで観劇を望む市民もみられた。
 パネルを見ながら被爆者と語り合っていた70歳の男性は、14歳で家族とともに旧満州から引き揚げた体験を語り、「吐く息も凍るような寒さの中で餓えと病気でバタバタと人が死に、私たちが固い地面にようやく一体入るほどの四角い穴を掘って遺体を寝かせ、冷たい土をかぶせてきた。線香も花もなく、ただ頭を日本の方角に向けて寝かせてやることがせめてもの情だった。生きて帰れる見込みはなく、“せめて子どもだけでも”と、幼子を現地の人に預けた親が多かった。朝鮮と国交回復すれば、ぼう大な残留孤児の存在が浮き彫りになるはずだ」と語った。
 また、「私たちも教育によって“日本は負けるわけがない”“満州は日本の領土”と信じ込まされてきたが、現地では真っ先に警察の官舎がもぬけの殻になり、憲兵隊がやけくそになって日本刀で他人の庭木を叩き切っている姿をみておかしいと感じはじめた。上の人間はすべてわかっていて国民を見殺しにし、戦後はてのひらを返してアメリカ民主主義万歳を唱えていた。許せなかった」と怒りをぶつけた。
 戦後、引揚者の集まりがあったがすぐに解散になり、学校や職場でその体験を語ると「被害ばかりいうが、侵略した報いではないか」といわれて口をつぐんできたことを語り、「体験していない人にはわからないと諦めてきたが、それではいけない。今の日本はまたかつての道を進んでいる。もう残された時間が少ないだけに、なんとか体験を若い人に伝えていきたい」とのべ、広島の会の活動に参加する意欲を示した。
 通信兵として沖縄で終戦を迎えた80代の男性は、「本島から慶良間諸島に配属がかわったので生き延びた。米軍は沖縄の中心から上陸し、南北に分断して住民と兵隊の殲滅作戦をやった。艦砲は一発で直系数十bの池ができるほど威力はすさまじく、洞窟や墓のなかに隠れた人に対しては、米軍は150bも延火する火炎放射器で隅隅まで焼き払った。日本軍は単発式の銃で太刀打ちできず、タコツボという穴の中に爆薬を背負って潜り込み、戦車の下で自爆する作戦が関の山だった。戦後、壕の中で自決した人を何人も見たし、広島で親兄弟も原爆で死んで天涯孤独になった兵隊もいた」と語った。
 また半年間の捕虜体験を語り、「日本軍は単純な階級組織で軍律違反をやればすぐ殴られたり、射殺されたりしたが、アメリカの収容所ではドラム缶の上に立たせて見せしめにして心理的にじわじわ追いつめる脅し方だった。戦後は、死人に口なしで、勝者によって歴史は都合よく書きかえられた。今の基地問題でも、“日本に米軍基地はいらない”“アメリカに持って帰れ”といわない日本政府の弱腰に腹が立つ。もう戦争をやらないというのなら基地は撤去するべきだ」と激しく語った。
 80代の男性は、第五師団の野砲第五連隊に所属してマレー半島からインドネシアまで転戦した経験を語った。「12月8日の真珠湾攻撃から中国からマレー半島に入り、インドネシアまでいったが、昭和18年くらいから糧秣の補給は途絶え、食料は現地調達となった。ミミズ、蝉の子、ニシキヘビまで食べたし、鉄カブトを鍋にして塩も作った。戦斗はなく、ほとんどが餓えと病気、マラリアなどで死んでいき、300人いた部隊は終戦時には35人になっていた」と語り、「これまで身内にも語ってこなかったが、ここではじめて話した」といって賛同者となった。

 上関原発や基地問題も重ね 行動求める戦後世代

 上関原発問題を掲載した本紙を見ながら「祝島ががんばっていますね!原発建設は絶対に反対です」と訴えてきた60代の婦人は、「自分たち戦後世代は父親からも戦争体験を聞いてこなかったし、学校教育でも縄文時代はじっくりやるが近現代史はまともに教えられてこなかった。この展示をみて初めて知ることの多さに衝撃を受けている。孫たちを見ても、広島にいながら八月六日以外は原爆や戦争について学ぶ機会がない。知らなければ同じことを繰り返すし、日本がどんどん崩れていくように感じる」と語り、「全市民が動いて世界を動かすような運動をやらなければ原爆をなくすことも戦争を止めることもできないのに、いまの広島の団体は自分の利害ばかりで運動を分裂させている。原発や米軍基地問題などを止められずにオリンピックをしてなんになるのか。自分にもなにかできないかと思っている」と語って賛同者になった。
 中小企業を経営する60代の男性は、「知らないことばかりでショックを受けた。死ぬことが分かっていて兵隊を送り出したこと、政治家も軍部も報道機関もグルになって“玉砕”といって前線の兵隊を見殺しにしたことや、大本営発表で国民を騙しておきながら戦後誰も責任をとっていない。アメリカも皇居や三菱は叩かずに国民を皆殺しにしたことなど、いまの時代とよく似ている」と語った。
 「いまは規制緩和、労働者派遣法、入札のダンピングなどで中小企業がのたれ死にする時代だ。大企業は国のことや地域のことなどおかまいなしに首を切るが、中小企業は簡単に従業員を路頭に放り出すことはできない。気が付けば日本は保険会社から銀行、自動車会社まで外資に乗っ取られた。国策で儲けるもののために国民が泣かされ、いまは労働者が生きていけない時代になっている。派遣労働などは“一銭五厘の赤紙”とそっくりだ。同じことを繰り返させないためにも戦争責任は声を大にして訴えていかないといけない」と思いをぶつけ、賛同協力を申し出た。
 高校生の子どもを持つ母親は、地元の被爆者から同展の参観を勧められたことを明かし、「見るたびに日常生活で忘れていることや自分の生き方を考えさせられる。廿日市でも学校教育のなかで恒常的にやってもらいたい」と願い出た。
 また、教育現場が「個人の自由」や「子どもの権利」が第一になり、成績がよくても社会に出て役に立たない子どもが多いこと、登校拒否児が出れば全校で「いじめの取り調べ」がはじまり、少しでも他人の嫌がることをやった子どもは「いじめの犯人」というレッテルを貼られて、警察の指導とともに賠償金の支払いを命じられる事態になっていることなどを語り、「学校が学校でなくなっている。高三になれば卒業に必要な日数だけ登校すれば、あとは学校にいかず塾通いが当たり前になり、それを学校が認めている。いくら勉強ができても自己保身と欲望だけという世界で育った子どもはろくな人間にはならないと思う。戦争中とは違う形で人間教育が崩されていて、どこから立て直したらいいのかわからないほどだ。そのためにも被爆者や戦争体験者から生き方や経験を学ぶことがいま一番大切だと感じる」と思いの丈を語り、『峠三吉・原爆展物語』を家族で観劇することを申し出た。
 廿日市「原爆と戦争展」は二一日(日)までおこなわれ、最終日には被爆者二人による体験を語る会が午後一時から開かれる。

 アンケートより

 ▼父も3年間戦地に赴きました。ニューギニアで病にかかり、ヘビ、ネズミ等を食しながら九死に一生を得て帰ってきました。だがすでに戦死と届けられていました。昭和21年の秋、米の配給に並んでいる私の前をよれよれの軍服に伸び放題の髭、背のう一つの男性が腰を二つに折るようにして列におじぎしながら通り過ぎたのが父でした。「内地に帰ったら負けたのは兵隊のせいだと、子どもまでもが石を投げるらしい」と聞いていたことへの行動でした。今は一日も早く、靖国神社から戦犯の排除を望んでいます。戦争は絶対に駄目です。もうだまされません。(72歳・女性)
 ▼原爆が落ちた時、私は小学校に上がる前年で家の縁側でおままごとをして遊んでいた。ピカッと家の中まで光が入り、太陽が落ちたのかと思った。しばらくすると血だらけになった人が水を水をといいながら歩いてきた。私は東区の戸坂に住んでいたので…。母が家から水をもって歩いている人に飲ませてあげたら“水を飲ませたら死んでしまうぞ”と叱られ、今思うと暑い時なのでつらかったと思います。我が家もお医者さん、看護婦さんの宿舎となり毎日沢山の人が死んでゆかれるのを見てました。この光景は七〇歳になった今も頭の中にはっきり覚えております。ここに来て写真等を見て涙が止まりません。小学生に話して聞かせたりしてます。若い人にたくさん見て欲しいです。(70歳・女性)
 ▼空襲が全国にわたっておこなわれたことを初めて知りました。東京大空襲は有名なので知っていますが、それにしても戦争というのはいかに多くの人の犠牲を生むか改めて心に刻まれました。また戦地にて、食べものもなく、また敵に脅されて死んでいった人のことを思って心が痛みます。展示に携わられた方方のご苦労に感謝します。(69歳・男性)
 ▼あまりに悲惨で言葉がない。天皇が早く決断すれば広島、長崎への投下はなかったのに。私も被爆者なので写真の一部は記憶に繋がる。(68歳・男性)
 ▼今回の展示を見て、改めて戦争の悲惨さを感じた。今の日本も方向を間違えればこの惨劇を繰り返さないとも限らない。住民、国民の一人一人が実態を深く知り、あやまちを繰り返さないようにしなければならない。こういう展示を若者たちにできるだけ見てもらい、なぜこの悲劇が起こったのか考えてもらう必要がある。(女性)

トップページへ戻る