トップページへ戻る

戦争繰り返させぬ思い溢れる
下関市役所で原爆と戦争展
             生命・財産奪われた経験次々   2014年8月20日付

 下関市役所1階ロビーで19日から「原爆と戦争展」(主催/下関原爆被害者の会)が始まった。「戦争をくり返させないために被爆体験・戦争体験を語り継ごう」と毎年開催されており、被害者の会の被爆者も交代で駆けつけている。初日には、市役所に訪れた市民や市役所の職員、市役所周辺に貼られたポスターを見て訪れる市民など約120人が参観した。集団的自衛権やTPPなど戦争政治を進める安倍政府のお膝元である下関でも「二度と戦争はくり返してはならない」という思いが噴き上がっている。
 
 真剣な親子連れや現役世代も

 70代の女性はじっくりとパネルを見たあと、「ニュースで安倍さんをみていると本当に憎いと思う。また戦争をくり返すようなことをするのか。国民の生命・財産を守るというが、戦争をして生命が守れるわけがないのに、大まじめな顔をして信じられないようなことをいう。寝言は起きていうものではない。国民の生命・財産を守るのなら戦争をしないのが一番だし、すぐ隣の中国・韓国とのごたごたを解決するのが先ではないか。下関市は安倍さんの地元だから支持している人もいるが、安倍さんがこれからの日本をどう変えようとしているのかしっかり見極めないといけない」と怒りを語った。
 また、「終戦のときは私はまだ5歳だったが、毎日のように空襲警報がなって、小さかった私が防空壕の一番奥に押し込められていた。奥の壁にあるロウソクで髪の毛がじりじり燃えていたことを鮮明に覚えている。戦争体験者など戦争を知っている人は少なくなるが、これからを生きていく人たちが戦争反対という確固とした意志を持たないといけない。そのためにもこの展示を多くの人に見てもらいたい」と語り「子どもたちにも勧めよう」とチラシを預かって帰った。
 父親が戦死したという70代の女性は一枚一枚丁寧にパネルを見て涙ぐみながら、終戦の1年前の昭和19年に父親が召集され、南方に出発する直前に母親に連れられて熊本に面会に行ったときのことを語った。「2歳だった私は綺麗な着物を着せてもらって行ったが、列車がぎゅうぎゅう詰めで私のおむつを替えることもできずびしょ濡れになっていたという。そのときの着物が戦後もとってあり、下の方だけ汚い色になっているのだが、その着物を出すたびに母はそのときのことを話してくれた。父は面会に行くととても喜んで、可愛い可愛いと面会時間が過ぎてもずっと私を抱いていたという。母は“きっとこれが最後だと覚悟していたのだと思う”と話していた。その後、父の乗った船は南方に到着する前に沈められて死亡した。戦死の遺骨の箱にはなにも入っておらず今も帰ってこない」といった。
 そして「展示を見て父と一緒だと思った。最後の1年にたくさんの人を送り出している。父が亡くなってから、母は兄と私を抱えて一生懸命に働いて育ててくれた。でも父のことも戦争のことも着物を出したときしか話してくれなかった。安倍さんは今、集団的自衛権といっているが、父と同じような人がまた出るのではないかと思う。そんなことは絶対に許せない。安倍さんは戦争も経験していないし、生活ができないというような苦労もなにも味わっていない。議員もみな頭でっかちばかりで、一般の人たちとの生活や考えからかけ離れている」と怒りを語り、「戦争というものがどんなものなのか、体験していない人にもしっかりと伝えなければいけない。この展示をもっとたくさんの人に見せてほしい。小さなことかもしれないが、できることは協力したい。まわりの人たちにもこの展示を勧めたい」と話した。
 小学校2年生のときに下関空襲にあったという男性は「丸山に住んでいたから、周辺は全部焼けて炎の中を逃げ惑った。母親が“神様が守ってくれるはず”といって貴船神社に逃げたから助かったが、空襲のせいで名池小学校から王江小学校に転校した。戦争が終わってからも機雷によって毎日のように船が沈んでいて、関門海峡は船が通れたものではなかった。機雷が爆発すると魚も一緒に死ぬから、その魚をとってきて食べたり、空襲の後は海岸沿いの倉庫に入っていた砂糖が焼けて溶けていたから、バケツをもってすくって食べたのを覚えている。食べる物がないから、食べられる物はなんでも食べた。戦争は2度とするものではない。戦地に行った兵隊はみんな死んだ。皆殺しだ。サイパンなんて一般人までもがみなバンザイ岬から飛び降りて死んだ。私はアメリカほど信用のならない国はないと思っている。広島・長崎の怒りはもっと強いだろう。あれだけのことをしておいて未だに謝罪もない。それなのに、日本は戦後もアメリカのいいように教育されている」と怒りを語った。
 戦争当時、大刀洗の飛行場で飛行機の整備をしていたという男性は「最近は、あまり生生しいものは展示されないが、このパネルは強烈に訴えてくるものがあった。私は大刀洗の飛行場で空襲を受けて友人がたくさん死んだ。市街地の空襲は焼夷弾で焼き払うが、飛行場などの空襲は爆弾だった。落ちた跡は水がたまって泳げるくらいの大きな穴があいていた。まだ15、6歳の少年だったがみんな工場の壁などの生き埋めになって死んだ。宿舎にはその死体がごろごろ並べてあって、みんな綺麗な顔のまま死んでいた。そのなかを友人が死んでいないか一人一人確認して歩いた」と語った。
 そして、「当時は天皇陛下のため、お国のためと戦争は正しいものとして信じ込まされて軍国少年に育てられた。学校の先生も“忠孝一本”といって“天皇陛下に忠義を尽くすことが一番の親孝行だ”と教えていた。今考えると信じられないかもしれないが、二度とあのようなことをくり返してはいけない」と話した。
 60代の女性は「母親が長崎の諫早に住んでいて原爆が投下されたとき、婦人会として諫早に運ばれてきた被爆した人たちの看護にあたった。“水が欲しい”といっても絶対にあげてはいけないといわれ、生生しい姿を見てきたことを母から聞かされてきた。戦争は絶対にするものではない」と強い口調で語った。
 4歳のときに終戦を迎えたという女性は「子どものときは1日中防空壕に入っていた。彦島に住んでいたが、彦島はトンネルがあるから狙われるといわれてた。私も父も安倍さんの大ファンだったが、最近の様子を見ていると集団的自衛権とか、自分が戦争を経験していないからなにもわかっていない。本当にやめてほしいと思う」と話した。
 ポスターを見て夫婦で訪れた30代の男性は「写真が衝撃的だった。人間はすぐ忘れる生き物だから、またすぐに戦争をくり返そうとする。そうならないためにも一人一人が機会のあるたびにこのような展示に足を運んで、戦争というものがどんなものなのか心に刻みつけないといけないと思う」と真剣な表情で語った。
 他にも、パネルを一枚一枚子どもに説明しながら見ている親子連れや仕事の途中に足を止めて真剣な表情で見入っている現役世代の姿も目立った。22日(金)まで。

 

トップページへ戻る