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戦争阻止目指す全国交流の場に
広島「原爆渡船争展」が開幕
             資料を託す体験者たち   2014年8月1日付

 広島市中区袋町の広島市民交流プラザ4階ギャラリーで7月30日、第13回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、同長崎の会、下関原爆被害者の会)が開幕した。69年目の8月6日が迫るなか、320万人の犠牲を出した第2次大戦の凄惨な体験、人類史上唯一の原爆投下による深刻な犠牲の反省を覆して、対米従属の下で安倍自民党政府による戦時国家づくりが先行することへの全国的な怒りと行動機運の高まりのなかで、広島の全被爆市民の力を結集し、全国から広島を訪れる人人へ広島の思いを発信していく拠点としてとりくまれた。同展は、八・六を頂点にした原水爆禁止と戦争阻止の全国的な運動をつくる大交流の場として盛り上がりを見せている。
 
 8・6集会に向け盛り上がる機運

 会場となった市民交流プラザには、第2次大戦の勃発当初から悲惨を極めた戦地体験、全国都市空襲、沖縄戦、そして「原爆と峠三吉の詩」パネルとともに、アメリカによる単独占領から今日に至る日本社会の歩みが一つながりになったパネル約200枚を展示。市民からの提供コーナーでは市民から寄せられた被爆前の広島の写真や地図、戦地体験、体験記、手記、被爆遺品など膨大な展示物が一堂に会している。「日本を原水爆戦争の盾にするな! アメリカは核と基地を持って帰れ!」など五つのスローガンが貼り出され、今年は新たに『集団的自衛権行使に突き進む安倍政府』『核使用容認する国民保護計画』『日本の富を強奪するTPP』の3種類のパネルが追加展示された。
 初日の午前10時から準備にかかわった市民が集まって開幕式がおこなわれ、主催者を代表して原爆展を成功させる広島の会の高橋匡副会長があいさつした。
 高橋氏は、「あれから69年目の暑い夏を迎えた。先般より国会では、集団的自衛権の行使なるものを閣議決定し、いつでも戦争ができるように、この日本を無意識のうちに戦争に引き寄せようとしている。私たちが幼い時分もいつのまにか戦争がはじまっていた。教育そのものがお国のため、天皇のためといううたい文句で洗脳され、なんの抵抗もできぬまま戦争に突入していった。今の集団的自衛権にしても国民の六割以上が反対しているなかで敢えて強行し、憲法を時の政府の恣意によって自由に解釈変更できるという異常な政治が横行している。先の大戦はなんであったのか、どんな結果を招いたのか。苦い思いをしてきたわれわれは怒りを禁じ得ない。そのなかで今年の原爆と戦争展は非常に大きな意義を持っている。なんとしてでも多くの人に戦争と原爆の真実を知ってもらい、悟ってもらわなくてはならない。この展示会が全国に大きな影響を与えることを期待して頑張りたい」とのべた。
 続いて、共催する下関原爆被害者の会の大松妙子会長、原爆展を成功させる長崎の会の河邊聖子会長代行のメッセージが紹介された。大松氏は「戦争をしないと誓った憲法を、アメリカの戦争に日本の若者を参加できるように解釈変更をした安倍政府は戦争への仕掛け人であり、国民無視の総理はいらない」とのべ、河邊氏は「過去の話だと思っていた戦争がこれから将来の問題として私たちの生活にしのびよっている。戦争反対の運動は、むしろこれからが本当のはじまりだ。みなさんで力を合わせて、日本をまた原爆の巻き添えにさせないため頑張りましょう」と、ともに連帯の気持ちを伝えた。
 会期中に会場運営を担う被爆者を代表して、広島市の真木淳治氏は、今年上半期の原爆と戦争展、小中学校、大学での語り部活動を振り返り、「今年はとくに子どもたちの意識が真剣で感想文を読むと涙が出てくる。それぞれの年齢に応じて、今の状況に危機感を感じていることがひしひしと伝わってくる。安倍総理は口では“積極的平和主義”など非常にきれいな言葉を並べているが、やっていることは平和どころか戦争へ導いている。自衛隊が外地で“同盟国”のために血を流して死んでいく事態になること、世界中から“日本は戦争国家”と見られ日本を取り巻く危険はますます増していくことは誰の目にも明らかだ。体験者として黙っているわけにはいかない。今夏の原爆と戦争展が今年の運動の集約点として、全国から来る人人の声に体験者の思いと広島の心をしっかり伝えていきたい」と決意をのべた。
 同じく被爆者の中野秀子氏は、自身が小学2年生の時に太平洋戦争が勃発したことにふれ、近所のおじさんたちに召集令状が届いて紅白ののし袋をもってお祝いをして駅まで“万歳”をして見送った経験を語り、「わけがわからないまま万歳をしていたが、みんな死んで帰らなかったことを後から知った。そして、原爆では多くの級友が亡くなり、私の父も白血病にかかり、私たち幼子を残して苦しみながら死んでいった。これから若い人たちが真っ先に戦争に連れて行かれる時代にならないよう一生懸命に反対してほしい」と力を込めて訴えた。
 続いて、スタッフとして展示にかかわる中国人留学生3人が発言。
 女子留学生の1人は、「被爆者の体験を聞かせてもらい、2度と戦争がもたらした辛さや悲惨さをくり返さないと決意した。平和を守ることは他人事ではなく、私たち個個人の力で責任をもって守らなければいけないと強く感じている。この活動を長く続けていきたい」と力強くのべた。
 別の女子留学生たちも、「日中関係が悪化するなかで両親は日本に来ることを心配していたが、パネルを見てすごく感動させられた。日本では戦争をくり返さない運動を頑張っている人人がこんなにいることを本国の人たちにも伝えたい。一人の人間として、罪のない人たちが殺される戦争をくり返さないために行動したい」「中国では原爆について詳しく事情を知らなかった。衝撃を受けたが、これから学んでいきたい」とのべ、ともに同展を成功させる意気込みを語った。

 積極的な若者たち 次々と協力を申し出る

 会場には、開幕と同時に保育士に引率された保育園児たちが集団で来場したのをはじめ、戦争体験者、親子連れ、主婦、会社員、教師、学生、高校生、小学生など幅広い市民が来場。青森、東京、埼玉、愛知、福井、長野など県外からの旅行者や外国人も訪れている。受付や屋外でのチラシ配りなどの宣伝活動は広島市内の大学生や被爆2世、下関原爆展事務局スタッフが担い、会場内では数人の被爆者が常駐して体験を語り、参観者との交流を深めている。戦争情勢に対して各世代の大きな意識の転換を反映し、熱のこもった交流となっている。
 昨年に続いて訪れた元海軍陸戦隊の男性(93歳)は、戦争末期に南西太平洋のソロモン諸島を転戦して生還したことを語り、「陸海軍あわせて1万5000人から2万人がいたがほとんど壊滅した。戦争は勝っても負けてもろくなものではない。加害者にもなり、被害者ともなる悲惨なものだった」と話し、これまで書きためてきた戦争体験記や写真などの資料を提供した。
 県北で農家の3男坊として生まれたが、「兵隊に入れば食べていける」と活路を求めて海軍に志願し、呉海兵団に入隊。そして昭和17年、米軍に奪われた飛行場奪還を至上命令として日本軍が総力を投入し、「日米戦の天王山」といわれたガダルカナル島に送られた。
 だが、20隻の船団を組んで横須賀港を出港し、ラバウルからショートランド島に行くため弾薬を積んだ輸送船に乗り込んだが、「驚いたことにその船には、対空火器の備えが全くなく、全くの丸腰。しかも兵員は五人だけで、あとは全て戦闘経験の全くない徴用船員ばかりだった」。なんの反撃もできぬまま米軍のB17爆撃機の攻撃を受けて船は傾いて炎上し、甲板は飛散した肉片と血糊で足の踏み場もないほどだったといった。
 「すでに制空権も制海権もなく、完全に孤立無援の状態でとり残され、武器弾薬、医薬品どころか食料の補給もなかった。そこにマラリア、熱帯性潰瘍などの病気と飢餓に襲われ、兵隊はジャングルを伐採して必要最小限の耕地を作るために開墾作業に明け暮れた。その途上で多くの兵士が力尽きてバタバタと死んでいった。敵は病気と飢えだった。マラリアに冒されながら食料を求めて湿地帯の蟹をとりにいったが、そこでも米軍機に機銃掃射を受けて多くが殺された。350人の隊員もジャングルの中で分散し、生き残ったのは20人くらいだった。あのとき一握りの米が、一服の薬があればどれだけの人が助かったかと思うとやりきれない」と話した。
 戦後は、戦友会で呉海軍墓地に慰霊碑を建立し、亡き戦友の遺骨を納骨して毎年慰霊法要を続けてきたという。「いまは生き残った戦友たちとの連絡も途絶えたが、私たちに代わってこのように戦地の真実を立派に展示してくれることに心から感謝したい。平和を守るのは簡単ではなく、命をかけて心血を注がなくては守れない。集団的自衛権の問題も解釈で済まされる問題ではない。イスラエルのガザ侵攻の惨状を見ていると、これから日本がどのように進んでいくのか自分たちの問題として真剣に考えなければいけないときだ」とのべ、再来することを約束した。
 賛同者として、職場の同僚たちを誘った男性被爆者は、夫人とともに会場で同僚たちや学生に初めて当時の体験を語った。当時は修道中学2年生で陸軍兵器廠に動員され、宮島の鼓が浦で弾薬輸送の業務に従事していたとき原爆が投下された。蒲刈島のミカン農家だった父親が41歳で軍に召集され、爆心直下の西部第2部隊(基町)に配属されていたため、父の行方を探して各地の救護所を転転としたという。
 「市内では人が連なるように焼け焦げていたり、悲惨そのものだった。大野町の学校の講堂で自分の名前を呼ぶ人がいたのでよく見ると父だった。額は割れて顔は膨れ、髪も抜けて、だれかもわからないほど変貌していた。田舎だったので新鮮な魚や野菜を送ってもらって奇跡的に回復したが、最後は肝臓が石のようになって亡くなった」と話した。
 また、当時通っていた修道中学は、校長は陸軍中将で教師もほとんどが陸軍将校で、授業の3分の2が軍事教練だったこと、呉一中がもっとも海軍士官学校合格者が全国で多かったのに対して、修道中学は陸軍兵学校への入学者が全国最大で、その多くが戦地で亡くなったことを明かし、「修道中は陸軍士官の養成校だった。戦争は教育からはじまり、学校は人殺しをなんとも思わない人間を育てる。核兵器や戦争という大きな流れを食い止めるには、そのような残虐行為を憎む強い人間を育てなければいけないし、皆が力を合わせて政治を縛らなければいけない」と熱を込めて語った。
 「これまでは平和のための犠牲だったと自分を納得させてきたが、最近の動きを見ると日本はアメリカと一緒に再び戦争をやろうとしている。まったく認識が違ったと思い直した。会社勤めのしがらみの中で胸の内に秘めて語ってこなかったが、これからは体験を語り継がなければいけない」と思いを語った。
 体験者の溢れる思いに触れるなかで、若い世代も積極的にそれを学び、「自分も協力したい」とその場で協力者になるなど行動的な機運が増している。
 広島出身の女子大学生は、2時間近くパネルを見て被爆者から体験を聞き、「本当に来てよかった。集団的自衛権の動きに対して反対しなければという思いを持っていたが、ここにきてこれほどの罪のない人たちが亡くなった現実を知り、その思いが一段と強くなった。自分も力になりたい」と涙ながらに語り、会期中にスタッフとして参加することを申し出た。
 親子で参観した40代の男性は、「子どもが学校で配られたチラシを持って帰ってきて来てみたいと思った。船から投げ出された兵隊を米軍機が機銃掃射したり、沖縄の壕の中に逃げた無抵抗の市民を火炎放射で焼き殺したりなどアメリカの行為があまりに残酷で怒りが沸いた。こういうことはあまり世間には広く知られておらず、戦後のアメリカの支配のなかで原爆の正統性だけが宣伝されてきた。こういうことこそもっと多くの人に知らせていかないといけない」と強調した。
 2月に広島へ転勤してきたという50代の女性は、「パネルに“やっと戦争が終わった”という一文があったが、わずか70年でそれがくり返されようとしていることに戦慄を覚えた。原爆投下はどんな理由があっても許されないが、それが日本を単独占領するためだったことがさらに許せない。国会を見ていても、集団的自衛権など国民の生命にかかわる問題なのに与野党ともになんの緊張感も感じられない空転論議を見て、今まで感じたことのない危機感を感じるようになった。私たちの子どもや孫世代がまた戦争におびえる時代が来ると思うと、私たちの世代があたりまえの平和に浸かっている場合ではない」と切迫した思いを話して賛同者となった。
 修学旅行の下見のために大阪府からきた小学校教師たちは、被爆者との交流のなかで「資料館や平和公園にも行くつもりだったが先に見たいと思って来た。実際体験者の話を子どもたちにもぜひ聞かせたい。2学期からの平和学習の授業に活かしたい」とパネル冊子を買い求め、広島の会に修学旅行での体験証言を依頼した。
 また、地元での原爆展開催を申し出る県内の女子大学生や、2日間かけてパネルを参観して「5、6年前から来たいと思っていた。戦争に行った祖父に話を聞いておけばと後悔している」と語って『原爆展物語』公演のチケットを求める30代の母親、「自分も語り部になりたい」と申し出る女子高校生など若い世代が積極的にかかわりを求め、2日間で23人が新たに賛同協力者となった。
 原爆と戦争展は8月7日まで開催され、5日の午後4時からは広島、長崎、下関をはじめ原爆展運動を広げてきた被爆者、学生などによる全国交流会が開かれる。
 

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