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史実ねじ曲げる明治維新館構想
          
  山口県・県教委が称揚推進         2003年11月6日付

 下関市吉田にある東行庵から高杉晋作史料が突然持ち出され、一坂太郎元学芸員とともに萩に行くという事態は、長年高杉と維新の歴史をたいせつに守ってきた人人、父祖たちの行動を誇りに思う多くの下関市民にとって、黙っておれない出来事であった。それは維新評価の改ざんをはかる県の力が働いており、そのなかで江島市長が萩市長と数年まえに密約をかわしていたもので、江島市長の署名運動も市民をあざむくものであったと、怒りを持って話されている。こうしたなかで山口県・山口県教育委員会が主催して1日、下関市民会館で開いた講演会は、県が萩に建設する予定の明治維新館(仮称)基本計画策定委員会副委員長である三宅紹宣・広島大学大学院教授(山口県史編さん委員・明治維新部会長)が講演するとあって、注目された。
 講演会は山口県史編さんにむけた12回目のもので、はじめに県史編さん委員会副会長の田中彰・北海道大学名誉教授(明治維新館の委員長)が、「今回の山口県史を50年から100年後に残る文化遺産としたい」とあいさつした。

「民衆の側に立つ軍隊でない」
奇兵隊や「攘夷」歪曲
 三宅氏の講演テーマは「長州戦争と明治維新」で、幕府の長州征伐軍との四境戦争(慶応元年・1865年)についてであった。
 四境戦争とは、高杉晋作が長府功山寺でわずか80人で決起して萩の俗論政府を打倒したのち、藩論を統一して、4000人の長州軍で十数万といわれた幕府諸藩の征長軍を完膚なきまでにうち破ったたたかいで、それが戊辰戦争にはじまる全国的な討幕戦争につながり、260年つづいた徳川幕藩体制に終止符をうつことになった。
 これについて三宅氏は、この四境戦争における大島口、芸州(広島)口、石州(島根)口、小倉口のたたかいの経過を描いたあと、長州藩勝利の要因として、@奇兵隊や諸隊も家臣団の干城隊も、藩庁政事堂のもとに統一的に指揮する、西洋的な新しいシステムに軍を改革したこと、A優秀な西洋式ミニエル銃(細長い椎の実型の弾で、命中精度が高く衝撃が強い)を採用するなど西洋式用兵術を徹底したこと――などをあげた。
 しかし「戦争後は矛盾が噴出した」「石見国の占領地で百姓一揆が起こったとき、長州藩軍によって弾圧された」「つまり長州軍は民衆の立場に立つ軍隊ではなかった」「それはその後誕生した明治国家が、民衆を抑圧する国家になったことが証明している」と三宅氏は強調した。
 高杉の奇兵隊創設にはじまる長州の諸隊が「民衆の立場に立つ軍隊ではない」「明治の天皇制国家と同じ民衆弾圧軍」という論は三宅氏の基本的な立場で、『幕末・維新期長州藩の政治構造』(校倉書房発行)では、“幕末の長州藩には一揆がなくなり、百姓は奇兵隊など討幕の政治的力に結集された”という従来の論には問題があり、「近年、小規模であるが百姓一揆の存在が発掘された」「吉田松陰や高杉晋作……は、一揆とは反対ないしは批判的な立場に立っている事実が確認される」とのべている。
 四境戦争については、長く明治維新史研究に尽くしてきた田中彰氏も、最近の著作では同じことをのべており、「(長州藩の)慶応軍政改革の改編軍事力が来るべき権力、すなわち明治絶対主義の軍事的基礎=常備軍へ“精選”再編される」「慶応軍政改革の指導層は、名実ともに絶対主義官僚として登場する」(三宅紹宣編『幕末の変動と諸藩』)と主張している。
 また高杉と奇兵隊や諸隊は、これらの戦争をつうじて欧米列強による植民地化から民族の独立を守りぬいた。しかしこの歴史的に証明されてきた事実についても、三宅氏はそれを否定する。「長州藩の攘夷方針は作為されたものであり、ポーズにしかすぎない。……現実的問題として一八六四年八月一四日長州藩は四国連合艦隊砲撃の敗戦後、講和を締結しており、もはや攘夷方針ではなくなっている」(前掲書)。
 そして元奇兵隊総監の赤根武人が長州逃亡後、すなわち幕府方新選組に投降したもとでの1865年、幕府に従わない長州藩は「天地不可容の大罪」という立場から、「長州藩は実際は外国と講和を結んでいるにもかかわらず、それが民衆に知られていないために、民心を得ることに成功している」という意見を引用し、四境戦争でもこのポーズにだまされた民衆の支持が、勝敗に影響したとしている。
 この立場から三宅氏は別のところで、講和談判においてイギリスの彦島租借要求を高杉が断固としてはねつけたという事実についても「連合国側の資料もなく、伊藤博文の回想ぐらいしか残っていないが、回想というのは美談にする傾向があるので信ぴょう性はない。だからつくり話といえばそういえる。最近ではそれがあったと主張する学者もいない」とのべている。

維新の革命性と不徹底性を混同
人民の原動力を否定
 明治維新を評価する場合、幕藩体制の矛盾は、「ごまの油と百姓は搾れば搾るほど出る」といわれたように、なにより封建支配者と農民とのあいだにあり、ついで封建支配者と商人・町人とのあいだにあり、封建支配者と下級武士とのあいだにあった。また幕府と諸大名のあいだにもあったし、幕府と天皇・公卿とのあいだにもあった。国際的には、欧米列強が日本の植民地化を狙うという動きに先鋭にあらわれた。
 このなかで明治維新は、高杉ら下級武士が指導階級となり、大多数の農民、また町民が全国的に立ち上がってその原動力となって、欧米列強の植民地化という野望を粉砕しつつ、徳川幕藩体制を打倒して近代的統一国家を建設するという革命であった。高杉ら指導者のなかに多くの不十分性があったとしても、矛盾を保守的に糊塗する側でなく、発展的に解決する側に立って命をかけて尽くしたことは、高く評価されねばならない。
 人民が明治維新革命の原動力となった事実は、高杉が「尊皇攘夷」のスローガンのもとに農民、町人や下級武士を組織した奇兵隊や諸隊に代表されている。奇兵隊の規則には「農事の妨げ少しも致すまじく、みだりに農家にたちよるべからず」「強き百万といえどもおそれず、弱き民は一人といえども恐れ候事」とある。それは明治以後の、内では「真空地帯」的な野蛮な人間関係を生み出し、外では残虐な他民族殺りくをやっていった日本帝国軍隊とは根本的に異なっている。
 四境戦争においても人民諸隊が圧倒的な強さを見せ、志気も高かった。二百数十年の泰平に慣れ、戦意のないお義理出兵の幕府諸藩兵とは比べものにならなかった。そのうえ人民の支持が大きかった。幕府の征長戦争にたいする人民の反発は、近畿一円や江戸をはじめ全国に広がった百姓一揆や打ち壊しとなって幕府をおびやかした。
 長州の諸隊が民衆の力を組織した軍隊であり広範な人民の支持を得ていたからこそ、つまりは歴史の発展方向にかなっていたからこそ、幕府との四境戦争に勝利し、幕府を打倒して統一国家をうち立て、民族の独立を守りぬいたのである。
 しかし明治維新がきわめて不徹底な形で終わり、それが絶対主義天皇制の時代にひきつがれていった事実は、高杉をふくめた維新革命の指導者たちのなかにあった弱点とかかわっている。それは下級を中心にしたとはいえ封建的要素を多く持つ武士階級が指導的位置にあったことからくるもので、農民・町人その他の最下層人民の封建的圧政からの根本解放という立場に立ちえず、みずからの要求にもとづいて上からの改革として行動したこと、天皇を中心とする反動的で寄生的な公卿一派と結んですすんでいったことから、これらの指導者が明治政府の新官僚となって諸隊の兵士への弾圧をおこない、人民を裏切って、軍国主義の道を突きすすむことにつながっていく。

戦後の歴史研究の成果崩す潮流
徳川幕府と同じ立場
 問題は三宅氏らが、以上の明治維新の革命性と不徹底性を混同し、倒幕をしたことがそのまま絶対主義天皇制につながっていると見て、明治維新の歴史的意義を否定していることである。
 それは三宅氏らに歴史を進歩・発展させる観点がなく、また人民が歴史を創造する原動力と見れない人民べっ視の考え方があるからだと思われる。しかしそれでは、ペリー来航による開港要求に屈した幕府の立場と選ぶところがなく、アメリカなどには逆らわない方がよく、清国のように植民地にされてもしかたがないという主張になるのではないか。「長州藩の攘夷はポーズ」というが、それではなぜ日本が清国やインドのような植民地にならなかったのか、説明がつかない。
 こうした主張をおこなっているのは、三宅氏だけではない。米ソ二極構造崩壊後の日本の歴史学会のなかで、「これまでの定説を実証的に見直す」といって、戦後の歴史研究の成果をくつがえす主張が流行となっている。それは日本政府が対米従属の日米同盟を賛美し、アメリカの国益のための戦争に日本を動員する政治をすすめているもとで、またこれにそってマスコミが「ペリー来航150年」のキャンペーンをおこなっているなかで、マスコミに認められて収入と虚栄心を満足させるために歴史の真実をねじ曲げているのであり、歴史学者として恥ずかしいことである。
 問題は、県の主導する明治維新館をはじめとする萩中心の維新構想が、高杉史料の勝手な持ち出しとなっているだけでなく、山口県民の明治維新の歴史そのものの改ざんとなっていることである。県民のなかでおおいに論議を起こしていくことが必要である。

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